■第七章 エネルギー機動性理論の時代


■革命前夜

さて、運命的とも言える感じでボイドと出会ったクリスティですが、彼はそのコンピュータと数学に関する知識でエネルギー機動性理論の完成に貢献することになります。
ただし、この段階ではまだこの理論に正式な名前は無く、ボイドは余剰力理論(Excess power theory)と呼んでいたようです。エネルギー機動性理論と名づけたのは研究が大分進んでからだったとされます。
ちなみにボイドは理屈で考えるタイプでクリスティは数式で考えるタイプでした。理屈で納得できるまで動かないボイドと、計算結果がそうなら従うまで、というクリスティはある意味で水と油だったのですが、なぜかこの二人はウマが合い、以後もそのコンビは続くことになります。ちなみにクリスティの方が8歳年下なんですが(当時27歳)、はるかに思慮分別があり常に保護者的な立場からボイドをバックアップして行きます。

そして何よりボイドにとってラッキーだったのは、クリスティが基地にあったコンピュータ施設に勤務する民間人であり、さらには、コンピュータのプログラム作成と運用について、重要なポジションに就いていた事でした。これによって散々、門前払いされたボイドのコンピュータ使用許可申請が簡単に通ることになってしまいます。クリスティは戦術核爆弾による攻撃計画をコンピュータシュミレーションで組みたてる、という1962年にしては先進的な研究を行っており、彼が研究のために、コンピュータを使いたい、と言えば何の問題も無く使えてしまったのです。

とりあえず最初はクリスティが個人的に使えたワン コンピュータ(Wang Computer)という当時そこそこ普及していた小型マシンを使っていたのですが、やがてそれではとても追いつかない、という事になってきます。こうなると基地に1台しかないIBM704大型コンピュータを使うしかなく、これをクリスティの個人的な研究のため、空き時間に用させて欲しい、と申請することで利用してしまったのだとか。


■Photo NASA

IBM 704コンピュータ。写真は本体部だけで、これにオープンリール式のテープレコーダが何台も付きます。ちなみにキーボードすら無い時代でどうやって入力してたのかも判りません。写真を見る限り、あらかじめパンチカードで入力したんだと思いますが…

ちなみに世界で初めて音声合成と人工音源で音楽を造ったコンピュータ、歌うコンピュータでもあります。歌った曲はデイジー ベル(Daisy Bell)。これを見学したアーサー C クラークが後に脚本に参加した「2001年宇宙の旅」で、命乞いをするHAL9000コンピュータに歌わせたのがこの曲でした(ちなみにIBMのアルファベットを一つずつ前にずらしてHALコンピュータになったという話は映画公開後に広まった誤解で、クラークはこの点を否定してる。ついでにIBMは「2001年宇宙の旅」のコンピュータ関係の設定に協力していたためPAN AM同様、劇中にロゴが登場するはずだったが後にコンピュータが人を殺す話と知ってこれを中止した。ただし一部は削除が間に合わず、劇中にちょこっとだけ登場する)。
とりあえずIBM704は世界で初めて歌を歌って、世界中の戦闘機の革新の原動力となったエネルギー機動性理論を生み出したコンピュータ、という事になります。

さて、ここまで来ると彼の理論はほぼ正しい、と見なせるようになってきました。となると、後は実際の航空機のデータを使って検証して行く、という方向に研究は進んでゆきます。エネルギー機動性理論に必要となるデータは主に四つでした。飛行中の機体の正確な重量、エンジンの高度(&気温)ごとの最大出力、そして様々な迎え角における機体の抵抗係数、最後に各高度でエンジンを最大出力にした時の最高速度です。

ここでボイドは空軍時在籍中、常に対立し続ける事になる最大の敵に出会う事になります。
それがオハイオ州のライトパターソン基地にあった空軍の航空力学研究所(Flight Dynamics Laboratory)でした、ここがアメリカとソ連の主な機体の試験データを持っており、空軍関係者なら、申請すればそのデータを入手する事は可能だったのです。なのでボイドはそのデータを請求し、これを受け取るため自らT-33を操縦してフロリダからオハイオまで飛んでいます。



オハイオ州デイトンにあるライト・パターソン空軍基地にはソ連機の研究と最新技術の開発を担当している部署がありました。航空力学研究所はその中の部署の一つで、空軍博物館の横、現在は柵で区切られてる向こう側にあったようです。写真は2017年の同基地で、おそらく左手の辺りにあったのだと思いますが、詳細は不明。

ただし、ボイドはまだ知らなかったのですが空軍が持ってる機体データには実は2つの種類がありました。一つは外部に公表していい、都合よく数字がいじられた表向きのデータ、もう一つが一部の人間、具体的には航空力学研究所関係者と軍首脳部などにしか与えられなかった正しい数値データです。この時、ボイドが渡されたのは当然、前者、表向きのニセデータの方だったのでした。

空軍としては、わざわざ正確なアメリカ軍の機体データを公表して、敵が情報を手にしてしまう危険性を犯す必要は何もなく、しかも数字をゴマかして渡したところで、相手はこれを確認する術がありませんからバレません。よって、それで問題ないわけです。ちなみに、これは21世紀の現在も恐らく変わっておらず、多くの機体の空軍公称データはいろいろ怪しいので、要注意。
そんなわけで、どこのウマの骨だかもわからん少佐相手に彼らが正しいデータを渡すはずはなく、当然のごとくパチモンデータを与えたのでした。ところが今回は相手が悪かったのです。

ボイドは異常なカンの持ち主でした。クリスティによれば、コンピュータから出てくるプリントアウト、ひたすら数字が羅列されただけの数mもの長さの計算結果にざっと目を通すだけでデータ入力ミスと思われる間違いを即座に見つけてしまい、そこを修正させてたそうな。
このため計算結果を見て、このデータはでたらめだ、と彼は直ぐに気が付いたようです。そしてボイドはだまされて大人しく引っ込んでるようなタマではないですから、激怒してライト・パターソンに殴りこんで行きます。この時、正義はボイドにあったため最終的に正しいデータを彼は手に入れるのですが、この件での感情的な対立は後々まで尾を引き、ボイドがペンタゴン、国防省内で働くようになっても、ライト・パターソンの航空力学研究所はその協力を徹底的に拒み続ける事になるのでした。

■F-16への前触れ

そんなエネルギー機動性理論の研究中に、ボイドはもう一人の人物と出会います。
後のF-16の開発で重要な役割を果たす、ジェネラルダイナミクス社の技術責任者、ハリー・ヒルカー(Harry Hillaker)です。当時彼はF-111の開発に参加していましたが、1962年末にエグリン空軍基地を訪れた時、たまたま基地のバーに立ち寄ってボイドに会うことになります。

ちなみにF-111における機体設計の担当はウィッドマー(Robert H. Widmer)ですから、ヒルカーは計画全体の進行管理のような立場だったようです。でもって、この二人はF-16の開発でも同じチームとなります。意外な印象がありますが、あのデブで使い物にならなかったF-111と、エネルギー機動性理論の申し子のような軽量機F-16は同じ人材が中心になって開発した機体なのです。

ただし、この1962年末の段階ではF-111はまだ試作機も出来ておらず、初飛行までまだ2年近くありましたから、どんな戦闘機になるかまだ混沌としていた時期でした。それでも海軍、空軍が採用、上手くいけばイギリス空軍も採用の可能性あり、という事でヒルカーとしては得意絶頂、というタイミングでした。そんな時、彼は基地のバーでボイドに出会うことになります。

実はヒルカーはバーで見かけた大声でしゃべりまくっているボイドにあまりいい印象をもっておらず、紹介されたとき、困ったなと思ったそうな。さらにボイドの挨拶代わりの言葉が追い討ちをかけます。
「58000ポンド(26.3t)もあるゴミみたいな飛行機を造って、戦闘機と呼んでるんだって?」
それを聞いたヒルカーは一瞬、ムカっとしますが、
「戦闘爆撃機だよ」
と大人の対応をするのでした。
が、ボイドはそんなことはお構いなしに、可変翼による重量増がもたらすデメリットを延々とまくしたてます。
ヒルカーが驚いたのは、ボイドが設計段階のまだまだ極秘だったF-111の性能を極めて正確に見積もっていた点でした。彼は戦闘機パイロットといえばワーっと飛んでいって、ワーッと帰ってきて、ワーッとバーで騒ぐ人種だ、と思っていたのですが、どうもこのボイドという男はただの馬鹿ではない、と気が付きます。さて、第一印象こそ最悪だった両者ですが、ヒルカーはボイドのエネルギー機動性理論の考えを聞いて理解し、そして強く魅入られてしまいます。

この結果、F-111開発のメドがたつと、彼はその理論に基づいた新しい戦闘機の設計チームを密かに立ち上げ、ボイドやスプレイと組んで、F-16という傑作戦闘機を形にする事になるのでした。ただしこう書くと、軽量戦闘機の開発競作は出来レースで競争相手のYF-17には最初から勝ち目がなかったような印象を受けますが、実はボイドは最後までYF-17が勝つと思っていました。なのでYF-16がパイロットから強い支持を受けて採用になったことにむしろ驚くのです。

さて、1963年の夏になるとエネルギー機動性理論は、ある程度形になってきました。実はエグリン基地の基地指令官はネリス基地時代からのボイドの知人で、(名前不明。ボイドの伝記作者ロバート コラムが取材した時は名前の公開を拒否したらしい)ボイドが基地で問題を起こしまくりながらクビにならなかったのはこの基地指令官のおかげ、という部分がありました。
やがて、この人物がボイドの理論を知り、そのバックアップをしてくれるようになります。この結果、なんらかの形で上層部へ報告することを求められるのですが、クリスティはレポートの形でまとめる事を考えたのに対し、ボイドはブリーフィングの形で自分が直接、説明する事を希望します。結局、ボイドの意見が通って、スライドフィルムを使ってのブリーフィングとして最初の報告会が開かれる事になるのでした。

この文章にしないで報告会で直接説明する、というのがボイドの一つの特徴で、以後の彼の理論でも文章でまとめられたものは、たった一つしかありません。それ以外はすべて彼の頭の中にある状態で終わり、現在、我々が見ることができるのは、その時に使われた簡単なパンフレットのみ、という事が多いのです。
よってこの記事も、それらの断片的なパンフレット、そして当時の関係者の証言を中心にまとめられています。この点はご了承のほどを。ただし彼の理論は極めて論理的ですから、順を追って理解して行けばほぼ間違える事は無いはずです。

では、次回から、具体的にエネルギー機動性理論を見て行きましょう。とりあえず今回はここまで。


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