■転写

まずは「転写」の描き方から説明して行きましょう。

これは模写、デッサン等と呼ばれる描き方、対象を見ながら紙や画面に写し取って行く描き方です。目の前にある空間、立体物などが対象になる他、既に二次元に変換されている写真や他者の絵を写し取る事も含まれます。ただし残念ながら筆者はこの絵の描き方に関してはほぼ才能を持たないので、最低限の説明に終わります。そういう世界なのよ、絵を描くってのは。





まあこんな感じに、見たモノを見たままに絵に写し取る描き方です。絵の「勉強」というと誰もがこれをやらせようとする手法でもあります。そもそも学校で習う「美術」ってこんな授業ばかりでしょう。さらに言えば風景や物体の「転写」だけでなく、漫画入門などでもとにかく人の絵を模写しろと書かれていますし。まあ馬鹿みたいだと私は思ってますけどね、そこら辺りは個人の自由の範疇ですな。



とりあえず「転写」の描き方の基本的な考え方を説明して置きましょう。まず絵に写し取るために対象に対し枠線を引きます。実際に線を引かなくても、絵を描く才能がある人間なら、無意識に頭の中でこれをやってるはずです。でなきゃ正しく写し取れませんから。



同時に紙や画面上にも同じ枠線を引き、それぞれの枠に対応する部分を一つ一つ、順番に正確に写し取れば、観察対象に近い絵が完成します。

当然、この枠をドンドン細かくして行けば行くほど「転写」の精度は上がり、究極まで突き詰めると完全点対象描写になります。観察対象を点単位まで細分化し、色まで正確に一つ一つ写し取る作業です。受光装置を介してデジタルカメラやスマホのデジタル画像が行っているのがまさにそれですね。すなわち転写手法の極北が、デジタル画像です(フィルムなどのアナログ画像はそこまで厳密に点対応していない、というか原理的に出来ない)。

好きに扱える手持ちの写真や絵を模写する場合を除き、観察対象に線を引くのは困難ですから自分の頭の中で処理するしか無いですが、紙や画面側には常に枠線を引いた方が「転写」の練習になるでしょう。この点、学校の授業とかではそれを邪道のように扱って真っ白い紙に写し取らせようとするのが多いのは何でしょうね、あれ。美術系の学校の人間は基本的に皆、馬鹿だから以外の理由が思いつきませぬ。画面中央に十文字を引くだけでも違うんですけども。

対象を何の基準も無しに平面に写し取るには相当な訓練が必要です。対して目安となる枠線があれば、かなり早く写し取りの能力は上がります(個人差はあると思うが)。そんな江戸期の職人芸みたいな手法で描いてないで、線を引きなよ、その方が早く上達するよ、と筆者は常に思っております。そんな工夫すらしないのは時間の無駄だし、ほほ昭和のスポ根野球部の無意味な練習と変わりませぬ。

ただし、昨年の記事でも述べたように、空間や立体の三次元を見て絵に「転写」するのと、すでに二次元に変換されている写真、あるいは他の人が描いた絵を「転写」するのは事実上別物と考えていいでしょう。それほど難易度が違うのです。当然、圧倒的なまでに立体を見て写し取る方が難易度は高くなります。写真や絵を写し取る場合、上で見たように対応する座標に丁寧に写し取るだけです。対して現物を見て描く場合、まず最初に対象となる空間や立体を二次元座標に頭の中で変換する事が求められます。これは相当な難易度です。それでも切り取る部分を決めて、上記のような枠線を引けば何とかなりますが、空間中のどこを切り取るのか、を決める段階から一定レベル以上の才能と経験が求められます。

ただし例によって天才だけは例外です。図形や数式を見るだけで、計算しないでも答えに至っちゃう量子コンピュータみたいな才能を持った人は、こういった工夫抜きで写し取ってしまいます。あの能力は筆者には理解できないですし、恐らく描いている本人にも説明はできないと思います(理屈でやっているのでは無いのだ)。ただしそんな人は十万人に一人も居ないと思うので、ここでは無視します(二次元画像を対象にした場合のみだが、そういった才能を持つ人間を筆者は一人だけ知っている)。

そしていきなり結論を述べてしまうと、絵の描き方として「転写」は優れたものでは無い、と個人的には思っています。当たり前ですが、そもそも世界は線で出来ていません。それを線に写し取る段階でアホか、という話なのです。世界は面とその色彩、そして明暗で出来ているのです。線なんて人工物でも限られた物体にしか存在しません。

この点、クロッキーなどでは線ではなく面の明暗表現で対象を写し取る練習があり、これは多少は意味があると思います。それでも色を無視してますし、明暗がハッキリしない対象では無意味となります(縄文時代からクロッキーに白い彫像が使われるのは明暗が写し取りやすいからだ。この点、人間のヌードモデル等にそこまでの明暗は無いので面の明暗で描写するのは不可能である。あれは只のスケベ以外の意味は無い)。 そもそも正確に写し取るなら写真に撮ればいいだけじゃん、今どき小学生ですらスマホを持ってるんだし、という事になります。

そして最大の欠点として、実物が無いと絵が描けないのです。巨大ロボットがアンドロメダで盆踊りに参加する絵を描けと言われても、そんなの見に行けないし写真すら存在しません。よって、「転写」の話はここで終わりですね。

■脱線

ここでちょっと脱線しましょう。他に書く機会も無さそうな話を少しして置きたいのです。

人類が絵を描き始めたのは旧石器時代にまで遡りますが、世界を直接見てそのままに写し取ろうとした歴史は意外に浅いです。物体、人物の絵なら紀元前のギリシャ都市文明辺りまで遡れますが、空間、風景を写し取るのは難易度が高い上に、かさばる画材の問題もあって、ずっと遅れました。恐らく実際に見てから描くようになったのはルネッサンス期以降で、それもキチンと見て描いていたかは怪しい部分があります。それほど現実世界を平面に写し取るのは難易度が高いのです。むしろ立体としてそのまま写し取る方がよっぽど楽であり、このため東洋文化圏でも西洋文化圏圏でも驚くほど写実的な人物彫像が紀元前の時代からバカスカ造られる事になりました(鎌倉期までの日本の仏像には恐ろしいまでに写実的な物が多数ある。以後、衰退してしまうけど)。

それが劇的に変わり始めるのが16世紀後半以降のヨーロッパでしょう。ただし大友克洋さんのような絵の天才が降臨したのではなく、新たな絵描きの道具が登場したからです。それがキャメ・ホープスクワでした(フランス語読み。Camerae obscuraeで英語だとキャメラ・オブスキュラ。ラテン語で暗箱の事。カメラの語源である)。



ワシントンD.C.にあるアメリカ国立美術館が保有する絵。フランスのCharles Amédée Philippe van Looという名前の長い画家さんの1764年の作品。芸術的な価値はほとんど無いと思いますが、子供たちが抱えている左側の箱に注目。これがキャメ・ホープスクワです。

そもそもはピンホールカメラの原理で、箱の中の板に目の前の風景を投影するものでした。ピンホールカメラの原理、小さい穴を通過した光の先に板を置くと天地が逆転した実像(光像)が現れる事は紀元前の時代から、中国やギリシャでは知られていました。さらにレンズを利用する事で画像をより鮮明に結び、天地逆転を防いだりするように工夫されたのがキャメ・ホープスクワでした。恐らく16世紀末には登場していたと思われます。当初は太陽などの天体観測や、うす暗い小屋の中で風景を映し出す見世物などに使われていたようですが、光像の位置に紙やキャンパスを置いてなぞれば正確に風景画が描ける事に、やがて画家たちは気がついたのです(光像を紙などに写し取る行為は恐らくそれ以前から天体観測で用いられていたと思うが)。



大判カメラで実像を結ぶ位置、ピントが合う場所にガラス板を置けば、外の風景が二次元変換されて像を結びます。これを紙に写し取れば絵を描ける、すなわち空間の二次元変換が機械的かつ正確に出来る、というのがキャメ・ホープスクワの画期的な点でした。当然、紙の代りに感光板を置けばそれは写真になります。すなわちカメラは最初から写真を撮るために発明されたのではなく、本来は楽に絵を描くためのの道具でした。その中でより楽をするために感光板が発明され、写真の誕生となったわけです。人間は常により楽をしたいと考えてさまざまな偉大な発明を成す動物なのです。実際、初期の写真は多くの画家が買い取ってから模写して絵の題材にしてました。

なので昔の画家さんは絵が上手いなあ、と思う前にキャメ・ホープスクワ使って無い?と疑う程度の知識は在った方がいいでしょう。ちなみに当然、肖像画などにも使われております。特に18世紀からはかなり小型化され、持ち歩くのも楽になったため、多くの画家がこれを使っていたはずです。まあ、印象派とかキュビスムとかはその辺りに対する反感もあったのかなあ、と思ったりしますが(ちなみに印象派の先駆者たちは当初、光の波長ごとの組み合わせとか、色彩学みたいな事を考えて科学的な絵の描き方をしていた。後に廃れて非科学的になるが。いずれにせよ私は嫌いだけどね)。

でもって、この辺りの反則技からさらに一周して人間の力で精密な風景を再構築したのが私の大好きな、アンドリュー・ワイエス、川瀬巴水、吉田博などの絵となります。愛してます。

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