■流線形がやって来た

こういった航空業界における流線形の普及が始まったのが
第一次大戦後の1920年代でした。
この点に関してはプラントルの層流と流体の抵抗理論の影響が大きく、
その研究で最先端を行っていたのは、
第一次大戦に敗戦した後の彼の母国、ドイツでしょう。
ただし敗戦によって航空機産業が全て禁じられていたドイツにおける発展は
理論部分のみ、という面が強く、1932年にハインケル社が画期的な高速機、
HE-70を発表するまで、流体力学に基づく空気抵抗を
真剣に考慮した機体はほとんど出て来ません。

対して、この時代、既に航空後進国になりつつあったアメリカですが、
この点の対応は最先端を行ってました。
1915年に設立されていたアメリカ航空諮問委員会、NACAの影響などもあり、
流体力学に基づく機体設計への対応は意外に速かったのです。

例えばカーチスが1923年のシュナイダートロフィーに
流線形胴体を持ったレーサー機を早くも登場させ、
24年の大会中止を挟んで25年まで二連勝し、ヨーロッパ勢を驚愕させます。
さらに1927年には、当時としては驚異的な高速機だった旅客機、ロッキードベガが飛んでます。
この辺り、ヨーロッパより5年は先を行ってたと見ていいでしょう。

その後、1930年のノースロップ アルファ、1932年のダグラスDC-1、など
次々と、当時の流体力学の知識に基づいた機体が登場してくるのです。
第一次大戦で後れを取ったアメリカの航空産業が、
ヨーロッパ勢に追いつきだしたのが、この時期だと思って間違いありません。



流線形が高速機に効く、というのは1920年代に入ったアメリカでは既に知られていたようで、
特にカーチスは、まだまともだった頃のカーチスは、全盛期だった頃のカーチスは、
とりあえず何かおかしくなる前のカーチスは、その採用に積極的でした。

そして1923年の国別対抗航空機レース、シュナイダートロフィーに
この流線形ボディの水上機レーサーCR.3で参戦、いきなり優勝してしまいます。
以後3年間続くシュナイダー杯におけるアメリカの全盛期の原動力となった機体なのです。

この機体は陸上機のカーチスCRからの改造機なんですが、
そのCRはなんと1921年8月の初飛行で、
すでに完全流線形、木製胴体による滑らかな表面を持っていました。
これは画期的と言っていい機体で、あまり知られてませんが、カーチスの偉大な機体の一つです。

さらに言うならレースに参加した機体のエンジンはアルミ製キャストブロックという
最先端技術を使ったカーチスD-12ですから、
この機体が航空史の上に残した足跡は意外に巨大なものなのです。
ドゥーリトルの出世の足掛かりとか、紅の豚の悪役機だけで片付けるべきではないでしょう(笑)。

写真は1925年の優勝機、R3C-2で、後の東京爆撃で名を成すドゥーリトルが操縦した機体。
基本的な形は1923年の最初の機体から大きくは変わっておらず、
滑らかな機首、後端部までゆるやかに絞り込まれる流線形ボディなのが良くわかるかと。

ちなみに1923年に至るまで、ライバルのイギリス、イタリア、共に
ボート型の(すなわち胴体で離着水する)機体でノンキに参戦してましたから、
このカーチスの下駄履き(フロート付き)の流線形ボディの登場は
かなり衝撃的なものだったと思います。
(CRからの改造なので、下駄履きにするしか無かったのだが)

この辺りは、まさに「紅の豚」状態で、ゲタ履きのアメリカ、
ボート型のイタリア、という構図になります。
映画では空中戦なので互角、という事になってましたが、
速度では、間違いなくカーチスが優っていたでしょう(笑)。

ちなみに写真の機体が飛んだ1925年の大会では、最高速度で50q/h近い差を
英米の機体に対して付けて優勝してしまっておりまする。



その流線形の衝撃を民間機に持ち込んだのが、同じアメリカのロッキード社のベガでした。
綺麗な流線形の胴体に、カバーの付いたエンジン、そして木製による
なめからな機体表面によって、エンジン強化型の後期の機体では、
最高速度で390q/h前後、ほぼ400q/h という当時のレーサー機なみの高速を誇りました。
実際、各種記録飛行にも利用されており、写真のスミソニアンの機体は
女性飛行家、アメリア・イアハートかアメリカ大陸横断、そして大西洋横断飛行に使ったもの。

ついでながら、その右上に見えてるのは1923年5月にアメリカ横断無着陸飛行に初めて成功した
フォッカーのT2ですから、わずか4年で、左下の滑らかなエレクトラまで発展してるわけで、
この時代の空力的な発展の速さが判るかと。



両方の機体を正面から見ると、こう。
4年でこれですぜ。



ベガは、空気抵抗に対して、徹底的に気を使っており、車輪をむき出しにせず、
ここにも流線形のカバーを付けて、乱流の発生を防いでいます。
さらにはその支柱もよく見ると、流線形断面(翼断面と言ってもいい)となっており、
こうした空気抵抗削減の工夫は、以後の機体に大きな影響を与えてます。

さらに言うなら、木製胴体によって機体の表面が滑らかなのも、乱流発生の防止に役立ってますし、
エンジンにもキチンとカバーを付けて、ここの空気の流れも制御してます。
(極初期の機体はエンジンカバーが無かったが)
あらゆる点で画期的な機体だった、というのがわかるかと。



ちなみに戦後の航空機では出遅れたドイツですが、第一次大戦前から造っていた
ツェッペリンの大型飛行船などは、流線形理論を利用してこの形状になった、とも言われており、
これが事実なら、空飛ぶ機械に対して、最初に流線形を利用したのは
やはりドイツ人という事になります。

ただし、第一次大戦後の実際の機体開発では大幅に遅れを取っていました。
ドイツで高速機というと、メッサーシュミットの記録機の印象が強いですが、
実際は1930年代初期から高速機に挑戦していたハインケルが最先端を行ってます。

ただし、初期の設計者で社長でもあったハインケル本人は、
大学中退、しかも航空工学なんて無い時代の世代ですから、高速機と言っても、
時速300qを超えてくると、もはや手が出なかったようです。
本人曰く、航空機の設計は、理屈じゃないんだ、センスなんだ、との事ですが、
一面では事実ですが、やはり理論が伴わないとシンドイのです。

で、そんな限界を感じたハインケルが設計者として採用したのが
双子の航空機設計家、ジークフリート、ヴァルターのギュンター兄弟でした。
1930年ごろ、別の会社に居たジークフリートを引き抜き、さらに間もなく
ヴァルターも自分の会社に呼んでしまってます。

この二人も高速機が好きな連中ですから、ハインケルとは意気投合、
間もなく1931年にギュンターが高速機の先進国、アメリカへと調査研究に派遣されました。
でもってアメリカから帰って来たギュンターが
、やや呆然としながら最初にハインケルに言った言葉は、
「我々は、ともかく急ぐ必要があります」
だった、という事からも、当時の高速機におけるアメリカの先進性がわかるかと。

余談ですが、ハインケルの自伝「嵐の生涯」は、航空機設計家が書いた本としては
間違いなく最高峰で、いろんな意味で(笑)非常に面白い内容です。
この人、ドイツ人とは思えないユーモアのセンスの持ち主で、下手なイギリス人の
書いた本より、良いセンスのユーモアに溢れていて驚きます。

特に邦訳も見事なので、興味のある人はぜひ、一読をお勧めします。
ついでに宮崎駿監督の「死の翼アルバトロス」に出てくるロンバッハの
モデルはこの人なんだろうなあ、と思ってください(笑)。



ちなみに流線形のルールはジェット機だろうと変わりません。
現代の旅客機では客席部が大きいので、胴体部では直線が基本になってますが、
滑らかな先端部と緩やかに絞り込まれてゆく胴体後端部はキチンと生かされてます。

ちなみに旅客機のケツが通常の流線形のように円錐型ではなく、上に跳ね上がってるのは、
離着陸時に上を向いた時、長い胴体の後部を地面にぶつけないようにするためで、
空気抵抗に関しては、あまり意味が無いです。



ただし単発機は、ケツにエンジン積んでるため、後ろの絞り込みが弱くなりますが、
それでも滑らかな機首部は健在です。



だたし、超音速を超える場合は話が変って来て、
先端は抵抗の大きい離脱衝撃波の発生を避けるため、
尖がった形状となり、胴体もエリアルール2号に従って設計されるため、
流線形のような絞り込みはしません。


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