■先祖帰り

さて、今回は時代を少し戻して、
極初期の航空機から第二次大戦直前までの機体の流れを見て行きます。
第一次大戦時の軍用機もここで紹介しましょう。

…ええ、どう考えても第二次大戦より先にこっちをやるべきだったんですが、
個人的な趣味を優先して、前回まで欲望のままに突っ走りましたのよ、オホホのホ。



で、最初はこれ。
あのライト兄弟の師にしてライバル、
そしてスミソニアン協会三代目会長でもあった、
ラングレーによる“有人”航空機エアロドロームAです。

わずかとはいえ本館で見たライト兄弟のライトフライヤーより
こちらが先に完成してましたから、
スミソニアンが保有する中で最も古い“機体”かもしれません。

ただし最初見たときは、これが航空機とは思えず、
何かの芸術作品かと思ってしまいました。
実際、最後まで飛ぶことができませんでしたから、
厳密には航空機とは呼べないでしょうが。

航空宇宙本館で触れたように、スミソニアン協会の航空部門の責任者で、
スミソニアン協会の会長でもあるラングレーは、
世界で初めて動力飛行に成功した人物です。
ただしそれは無人の機体であり、有人飛行ではありませんでした。

そこで無人動力機として成功した、エアロドローム5号、6号の設計を拡大して、
そのまま人を乗せちゃえ、という事で製作されたのがこの
エアロドロームAだったのです。

ただしシロウト目にもこれは飛ばないだろう、という構造でして、
特に前翼と後ろ翼の接合部、すなわち胴体の細さはと、
後部主翼の取り付けは
キチンとした強度計算を行なったようにはとても見えません。
ここら辺り、主翼を複葉にして箱型構造にしちゃった上に、
操縦者までそこに乗せてしまったライト兄弟の方がはるかよく考えてます。
彼らが世界初の有人動力飛行に成功したのも、当然でしょう。

ついでに、前翼のすぐ後ろに、これも航空宇宙本館で見た
マンリー ベルザー ラジアル5エンジンが搭載されてるんですが、
これ、横置きなんですね。初めて知りました。



この機体は、なんとも全体像が掴みにくく、
正面から見るとこんな感じになります。
こんなの絵に描け、とか言われても私には無理でございますね。

ちなみに、機体強度も疑問なんですが、
オランダ風車のようなプロペラにも注目してください。
これじゃあエンジンがどれだけ強力でも、大した推力、出てなかったでしょう。

もっとも無人機ではこれで飛んでいた以上、
全くもって荒唐無稽、というシロモノではないのですが、
ほぼ現代でも通用するプロペラを造ってしまった
ライト兄弟のものと比べると、原始的と言わざるを得ません。
ライトフライヤーI と同じ年に造られた機体ですからね、この機体。

そんなわけで、ライト兄弟は航空機そのものの発明と同時に、
最初の近代的なプロペラの造り手でもあったのです。
この点はあまり気にされてませんが、極めて重要な発明だったと思います。

で、この機体、最初はレプリカだろうと思ったんですが、そのような説明は無く、
1903年製とされていたので、どうもホンモノらしいです。
この機体は2回飛行試験を行い、2回とも失敗して墜落してるんですが、
川の上での試験だったため、あまり破損しなかったようで、
このように復元されて展示されてるのでしょうかね。

その飛行試験は1回目が1903年の10月7日、2回目が12月8日。
2回目は真珠湾攻撃38年前じゃん、というのは置いておき(笑)、
これはライト兄弟初飛行のわずか9日前の失敗だったのでした。
(ちなみに高齢という事もあるが、2回ともラングレー本人は操縦せず)

そのライト兄弟の初飛行がアメリカ国内で、
極めて冷淡に扱われたのは有名です。
どうも、あれはラングレーの飛行実験で関係者が盛り上がっていたのに、
これが失敗に終わり、完全に国中の飛行熱が冷めたタイミングでの
成功だったから、という面があるような気がしますね。
誰もが飛行機の話題はこれでオシマイ、と思っていたところで、
いきなり全く無名のライト兄弟が成功してしまったため、
誰も何が起きたのかすら理解できなかった、という面があったように思います。

オリンピックのマラソンで、優勝候補と見られていた日本人選手が
スタート直後に棄権、みんなそれ以上テレビを見ないで寝ちゃったのに、
翌日の新聞を見たら、聞いた事も無いような
別の日本人選手が優勝していた、みたいな感じでしょうか。

ついでにライト兄弟の初飛行から、真珠湾攻撃まで38年と言うのもスゴイ話。
例えば2014年現在から約38年前、となると1976年、
F-15の配備がアメリカで始まった時期であり、
F-15は世界中で未だに現役バリバリだったりします。

逆に言えばライトフライヤー I が真珠湾攻撃に参加します、
みたいな話であるわけで、
あの時代の航空機の進化の凄まじさがよくわかります。



お次は1909年ごろ製造された、バドウィン(Baldwin)のレッド デビルという機体。
聞いたことも無いメーカーですが、
バドウィンさんという個人経営の会社が作った機体らしいです。
レッドデビルなる大げさな名前は、ひょっとして枠材が赤く塗られてるから?

展示の機体ではエンジンが失われてますが、当時の一般的な推進式、
後ろ向きにプロペラを付けた機体だったようです。

このレッドでビルは全部で6機前後造られたと見られてますが、
従来の機体と異なり、木製ではなく、鋼管を使った骨組みなのだとか。
となると、その重量を飛ばすだけの強力なエンジンが必要だったはずですが、
肝心のエンジンがなく、詳細は不明。
カーチス製のエンジンを積んでいたようだ、との事ですけども。

ただし1909年といえば、例の近代航空機の元祖、
ブレリオIX(9)が飛んだ年ですから、
すでにこの機体設計は、時代遅れになりつつあったはず。
6機前後しか売れなかった、というあたりからも成功作とは言えない感じですね。



お次はぶら下げ展示のビノイスト-コーン(Benoist-Korn)XII(12)型。
これまた聞いたこともない名ですが、例によって個人商店系の
航空機メーカーで、この機体は1912年の設計だとか。
これも5機前後が造られただけで終わってるとの事。

こうして見ると1910年代中盤、第一次大戦に至るまでに、
アメリカにどれだけ航空機メーカーあったんだ、という感じですね。

この機体は、ライト兄弟式の骨組み胴体、推進式(プロペラが後ろ向き)の
機体がまだまだ主流だったアメリカにおいて、密閉式の胴体に
牽引式(プロペラが機体の前)の極めて斬新な機体だった、と紹介されてます。

いや、それ単にフランスのブレリオ機のコピーじゃないですか、
という感じですが(笑)、どこの国でも
なんでもかんでも自分の国の手柄にしたがる人っているんだなあ、と
スミソニアンの解説を読みながら思いました、はい。

ちなみに、第二次大以降の印象があまりに強いので勘違いしやすいですが、
ライト兄弟の初飛行から6年後、1909年にフランスでブレリオ機が飛んでから、
1930年代後半までの約30年間、アメリカは完全な航空後進国でした。
その間、航空機技術の中心地はヨーロッパであり続けたのです。


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