■アーリントンハウス



さて、お次はアーリントンの丘の上の家、アーリントン ハウスに向います。
正面に見えてる建物がそれで、横から見るとこんな感じなんですね。

右側部分がアメリカ人の言うところの“再現ギリシャ式”の石柱風玄関ですが、
玄関が家本体に対してやたら巨大なため、
なんだか軽トラックにベンツのフロントグリルを取り付けた様な、
4畳半のアパートに一枚板のマホガニーの立派な玄関ドアを付けた様な、
なんとも言えぬ違和感が…。



その辺りからの眺め。
大通りの奥はリンカーンメモリアル、そこから右にワシントンメモリアル、
そして国会議事堂が見えてますから、まさにワシントンD.C.を一望する丘の上なのです。
このワシントンD.C.攻めに最高の立地はちょっと覚えておいてください(笑)。

手前に見えてる水面はポトマック川で、
ここがヴァージニア州との州境になってるわけです。




で、その一等地に建つのが、このアーリントンハウスなのです。
周囲の人と比べると意外に大きいのがわかるかと。
首都の街を見下ろす、まさに一等地に建つ豪邸でして、南北戦争の時、
南軍の指揮官となったリー将軍の旧自宅だった事で知られます。

ただしこの家、本来は初代大統領ワシントン一族にゆかりの家だったりします。

そもそも初代大統領ジョージ・ワシントンの養子だった
ジョージ・ワシントン・パーク・カスティス(George Washington Parke Custis)が
この地に建てたのが、この豪邸なのです。
でなきゃ、こんな場所にそうそう家は建てられないでしょう。

ちなみにワシントン大統領と奥さんのマーサの間に実の子はありませんでした。
ついでにマーサは再婚で、そもそもワシントンは財産目当てで彼女に求婚、
結婚後、大金持ちになっております…。

そのマーサの連れ子が二人居たのですが、女の子は早くに死亡、
男の子の方は成人して結婚までしたものの、独立戦争中に死亡してます。
ただし結婚後、子供が二人生まれていたため、これをワシントン夫婦は引き取り、
なぜか養子縁組して、自分たちの子供という事にしたのでした。

つまり、奥さんのマーサにとっては自分の孫を養子にする、という
どうも現在の感覚からはよくわからない事をやってるわけです。
当然、この二人の子供とワシントンとは血のつながりはありません。
その子供の一人が、この建物を建てた“二代目ジョージ・ワシントン”
すなわち養父の名を継いだパーク・カスティスとなります。

余談ですが、福沢諭吉閣下が最初の渡米の時、
すなわち1860年に咸臨丸でサンフランシスコに行った時に、
ワシントンの子孫は、今、どこで何をしてるのです?
と現地の人に聞いた話はよく知られてます。

質問された相手は、ワシントンには娘が居て、どっかで内室(いいとこの奥さん)に
なったはずだが、今どこに居るかは知らない、
と答え、諭吉さんはこれを聞いて感動するのです。
初代大統領の子孫がどうなったかを、よく知らないなんて、
今でも徳川家康の子孫が威張ってる日本とはえらい違いだ、さすが共和国だと。

ただしこの問答は、基本的に最初から最後まで諭吉さんの勘違いでしょう(笑)。
質問された相手は初代大統領の話とは思ってなかった可能性が高いです。
そもそもワシントンに子供は居ないのですから、
何かがおかしいと思わなければなりません。

で、先に書いたようにワシントンの養子のパーク・カスティスは
ジョージ・ワシントンの名を継いでおりました。
(II(二代目)でもJr.(子供)でもなく同じ名を名乗ってる。養子だからか?)

彼は諭吉さん初渡米の3年前、1857年まで存命でしたから、
この時期にジョージ・ワシントンと言えば、
初代大統領ではなく、この人を指す事が多かった事に注意が要ります。

実際、彼には娘がおり、いいとこのダンナに嫁いでいましたから、
明らかに諭吉さんに質問されたアメリカ人は、
この養子の二代目ジョージ・ワシントンの話をしてると思われます。
この会話、明らかに初代大統領の事じゃないんですよ(笑)。

もし諭吉さんが初代大統領の、とキチンと質問してたら、
アメリカ人の常識として、ワシントンに子は無い、
ただし養子がいて、彼もジョージ・ワシントンを名乗っていた、と答えたでしょう。
(ちなみにこの段階では後で説明する三代目ジョージ・ワシントンが
既に登場してたはずだが、これの知名度は低かったらしい)

さらに言うなら、諭吉さんはこの話を
明治末期にその自伝、福翁伝に書くのですが、
この会話のすれ違いと、その結果見逃した事の
重大性に最後まで気が付いてませんでした。

実は、その養子の二代目ジョージ・ワシントンの娘が嫁いだ相手、
質問された人物がさりげなく触れていた人物こそ、
あの南軍の司令官、リー将軍その人だったのです。

つまり咸臨丸の渡米翌年に始まった南北戦争における主役の一人、
リー将軍の存在を日本で最初に知ったのは、恐らく諭吉さんなのですが、
彼は最後までその点には気が付いてなかった事になります。

諭吉さんは、こういった
“自分が最高に賢いと思ってる人物”にありがちな勘違いが多いですね。
彼は自分の結論を疑って検証する、という基本的な作業をしないのです。
同時代の勝海舟も似たようなところがあり、
同属嫌悪で両者は犬猿の仲でした(笑)。

実際、両者とも、知識量、思考力共に一流であり間違いなく頭はいいですから、
おそらく周りがバカに見えてしかた無かったと思われます。
毎日毎日がヤレヤレ、このバカどもが、という感じだったでしょう。
が、それでも世界は広いものでして、彼ら程度のレベルなら、
歴史上にも、同時代の世界にも、掃いて捨てるほど存在します。
彼らの才能はそれを超えるほどでは無いものでしたから、
自分が今、ぬるま湯の中に居ると知らない井の中の蛙の悲劇に帰結します。



さて、ここは見学できるはずだ、と入口を探してウロウロしていたら、
奥から女性が出てきて、見学ツアーが間もなく始まるから、
見学希望の人は並んでちょうだい、と呼びかける。
おお、ちょうと良かったと見学の行列に加わらせてもらいます。
ちなみに、入場料は無料で、午後4時半のツアーが最後となってます。

私が参加したのは午後4時からの回で、
どうも30分ごとくらいにツアーがあるようです。

ちなみにここで並んで待ってる間に、管理官(Ranger)の人が、
この玄関部の巨大柱をペシペシひっぱたいて見せて、
「音を聞くとわかるでしょ、これ木なの。
大理石風の壁紙を貼って石造りに見せてるだけ」
と教えてくれる(笑)。
ああ、そういうのもありなんだ。

ちなみにアーリントン墓地は陸軍の管轄ですが、
このアーリントンハウスの周辺だけは国立公園になってるようで、
軍の管轄から離れてるみたいです。



中はこんな感じ。
天井が高くて、いいとこのお屋敷ザマスという感じです。
ちなみに見れるのは1階だけで2階には入れません。

で、この一等地に建つ豪華邸宅に、一介の軍人に過ぎないリーさんが
どうして住む事になったかというと、これは先に説明した結婚によります。

この家を建てたジョージ・ワシントン・パーク・カスティスには
一人娘があるだけで、これと結婚したのが、
ウェストポイントの士官学校を出たばかりのリーだったのです。
なので、磯野家におけるマスオさんのような感じで、
彼はこの家に移り住む事になったのでした。

よって、リー将軍の一家はワシントン家の流れを受け継ぐ名家とも言えました。
彼は優秀な人材でしたが、それでもやけに出世が早かったのは、
こういった事情にもよります。
そんなワシントンの看板をしょってる彼が
北軍を裏切って南軍に行ってしまったんですから、
リンカーン大統領のショックは大きかったわけです。

ちなみに、リーの長男も後にジョージ・ワシントンを名乗っており、
こちらはジョージ・ワシントン・カスティス・リー(George Washington Custis Lee)と
アメリカ史上の有名人二人が合体したより豪華な名前になってます(笑)。
よって彼がジョージ・ワシントン三代目になるのですが、
これまた特にIIIといった表記は付きません。

もっとも、先にも書いたようにリーの一族もアレクサンドリア周辺の資産家でした。
そもそも二代目ジョージ・ワシントンこと
パーク・カスティスの奥さんもリー家の出身で、
リー将軍の母親とは従姉妹だったとも言われてます。

とりあえず、リー将軍の結婚は
この一帯における名家同士の婚姻だった事は確かで、
そんな皆さんが住んでいたのがこの家だったわけです。
当然、南北戦争前、ここはヴァージニア州ですから、
これだけのお屋敷にはそれなりの人数の黒人奴隷が居ました。
そして当然、彼らの居住区はこの豪邸の中にはありません。

その点はまた後ほど見て行きます。


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