■そしてその周辺



そんな上流階級の家ですから、当然その内装も豪勢でございます。
部屋や廊下には絵がかけられ、家具もいいもの使ってますね。
まあ、家具類に関しては、いつの時代のものか説明がなかったのですが…。

南北戦争勃発後、リー将軍はここから夜逃げのように抜け出して、
南軍側に走るのですが、実は奥さんと子供はここに残ったようです。
ちなみにその後、リー本人は死ぬまでこの家に帰ることはありませんでした。

まあ、ワシントンD.C.が目の前とはいえ、ここはヴァージニア州、
南軍側の土地ですから、論理的には家族が残っても問題ないですし、
北軍側のお偉いさんは全員リーの弟子、みたいなものですから、
危害が加えられる心配も無いと判断したのかもしれません。
ただし、後で説明するように、ここが戦場にならなかったことは
どうにも理解に苦しむ部分があります。

ちなみにツアー式の見学ですが、ついて来るのはガイドさんではなく、
あくまで公園管理官(Ranger)なので、解説は極めて簡単なものだけ、
質問されたらそれに答える、という感じでした。
まあ、ここら辺りは個人差があるので、他の時間の人だと
もっと親切な可能性もありますが。



で、各部屋は入口から見るだけで、さらに1階しか見れないため、
意外にあっさりと見学は終わってしまいます。

最後はサンルームで、これはこの家より100年ほど新しいサンノゼの
ウィンチェスター・ミステリーハウスにもありましたから、
19世紀頃までは、こういった部屋で植物育てるのが一種の
ステータスシンボルだったんでしょうかね。
あるいはマキの暖炉しか無い時代の冬場の暖房対策なのか。

そのサンルームの正面に見えてるのが出口です。



裏から見るとこんな感じ。
右手前がサンルームです。

ちなみに、この家と一帯は南北戦争中、なんともよくわからない状況に置かれます。

何度も書いてるようにここはヴァージニア州、南軍の領地であり、
アーリントン地区にも南軍の指令部がおかれています。
当然、このアーリントンハウス一帯も戦争終盤、
1864年まで南軍兵が駐屯してましたし、その写真も残ってます。

だったら、先に見たように北軍の首都、ワシントンD.C.を完全に眼下に収めてしまう
この地を要塞化し、砲台を築いてしまう事でワシントンD.C.の機能を簡単に殺せるのです。
首都のノド元に難攻の要塞を築いてしまえば、
さらに要塞に両翼を築いてアレクサンドリアを含むヴァージニア州側から
ワシントンD.C.を包囲してしまえば、
北軍側の首都としてワシントンD.C.はもはや放棄するしかないはずです。

もちろん、それによって北軍の首都が陥落したとしても、
首都機能を他に移せばいいだけですから、
そう簡単に戦争は終わらない、という事は、
アメリカ軍は、以前のメキシコ戦争で体験済みでした。

が、それでも経済、人口、工業力、全て劣る南軍にとって、
少しでも北軍の力を殺ぐ、という作戦は有効だったはずです。
首都移転よる北軍のダメージは決して小さくないでしょうから。
すくなくとも北軍の優位を減らす効果はあったと思われます。

ところが、南軍はそれをしませんでした。
対して北軍も、この首都のノド元に突き刺さった要害の地を
最後まで放って置いたのです。

より南のアレクサンドリアは武力占領してたのですから、
北軍はなぜこの地を放って置いたのか、
また逆に南軍も何もしなかったのか、どうも理解に苦しみます。
シロウトの私が見ても、要塞建築に対して、
これほど理想的な土地はそうはないぞ、と思ってしまう場所なのに。

リー将軍の家、という事で一種の紳士協定があったのか、
とも思いますが、何度も書いてるように、
歴史上、アメリカ最大の死者を出した血みどろの戦争がこれですから、
そんなノンキなものでは無かったように思いますが…。

さらに謎なのは、南軍の地であるこの屋敷に対して、
北軍側は当時の固定資産税の一種をリー夫人に請求、
彼女がこれを拒否したため、この地の没収を戦争中に宣言するのです。
なんで?南軍の土地で、南軍兵が駐屯してる場所なのに…。

こうして没収されたリー将軍の屋敷に周囲の土地が追加され、
後にアーリントン国立墓地が作られる事になるのですが、
この前後の成り行きはどうもよくわかりませぬ。
とりあえず、この場所がワシントンの一族と、
その一族に加わったリー一家ゆかりの地である、
というのだけは確かですが。



さて、裏にまわると、小さな小屋があり、実はこれが黒人奴隷の小屋でした。
このお屋敷には数十人の奴隷が居たとされるので、
元々はもっと建物があったはずですが、現存してるのは、これだけになります。
何度か改修はされてるものの、実際に使われていた当時の建物らしいです。


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