■英語だと単に内戦



さて、お次はいよいよ、アメリカ最大の戦争ともいえる南北戦争へ。
時代的には前回の最後に見た対スペイン戦争よりこちらが先だったのですが、
展示順の関係上、今回の登場となりました。

英語だとCivil war、内戦という単純な名称なんですが、
これを南北戦争とした日本語翻訳者は見事だと思います。
(市民戦争と訳すと微妙に意味が異なるから注意。外政対する内政の意味のCivil)
これほど本質を突いた名前もないでしょう。
ちなみに、最近はアメリカ内戦、American Civil War という呼び方が
多く使われてるような印象もありますね。

で、1861年から1865年まで続いたこの内戦は、
かつてアメリカが経験したことの無い、最大最悪の戦争となりました。
未だにアメリカのあらゆる戦争中、
総死者数が最大なのは、この南北戦争なのです。
参考までに、数を上げておくと

■推定戦死者数(軍民総計)

第二次大戦 約40万5400人(総人口約1億35000万人 人口比0.3%)
第一次世界大戦 約20万4000人(総人口約9600万人 人口比0.2%)
南北戦争 約75万人(総人口約3200万人 人口比2.3%)

と、数も最大なら、総人口比の損失率で見ると、
まさにケタが一つ違うのです。
参考までに日本の第二次大戦の戦死者は

総戦死者数 約310万人(厚生労働省による)
総人口 約7200万 人口比4.3%

さすがに第二次大戦時の日本より低いものの、
それでも総人口の2.3%が犠牲になったというのは
当時としては恐るべき国家的損失だったと思われます。

ペリーの黒船以来、いろいろチョッカイを出していた日本に対し、
南北戦争前後から、急速にアメリカは興味を失うわけですが、
これだけ国が傾いちゃ、日本なんか構ってる場合じゃないでしょうね。

ただし、戦争終了の1865年は日本では薩長同盟が結ばれる直前ですから、
まさに幕末真っ只中、この結果、戦争が終わって不要になった大量の武器が
アメリカから流れ込む事になります。



こちらは日本語だと北軍とされるアメリカ政府の旗。

北軍側はUnion(合州軍)と呼ばれる事が多いですが、
実際はアメリカ合衆国が解体されたわけではないので、
アメリカ合衆国のままが正式な名称です。
ここから離脱したのが南部連合となるわけで。

が、そうなると南部はアメリカ合衆国に対する反乱軍となってしまい、
印象がよくないので、北軍側をUnion と呼ぶ事が多いようです。
(南軍が自分を反乱軍と呼びたがらなかったの同時に、
終戦後、アメリカを再度一つにするための気配りでもあったろう)

ただ州を表す星の数は34個あり、どう考えても、
当時の北軍の州の数より多いような(笑)…
これ、離脱しちゃったはずの南軍の州の数もはいってませんか。

ちなみに北軍といっても、実際は南部11州以外全て、
すなわち当時出来たばかりに近い西部のカリフォルニア、
オレゴン、ネバダもこちらについたので、
事実上、戦う前から決着はついていたようなものでした。
ちなみにニューメキシコやユタなど、
その間の砂漠と山地はまだ政府直轄地(一部は準州)で、
まだ州になっていませんから、事実上、ここも政府(北軍)支配下にあります。

で、南北戦争時に南についたか、北についたかは、
端的に言ってその州が奴隷制度を支持するか否かによります。
が、中には奴隷制を支持しながらも、合衆国からの離脱をしなかった州、
いわゆる境界州(Border States)もあったりするので、
意外に実情はややこしかったりします。

実際、南につくか北につくかは、経済的理由も大きく、
奴隷制だけがポイントだったわけではありません。
現実には北部の州でも、20世紀に入るまで黒人差別は根強く残ってましたし。

そういった意味で興味深いのが西部の州で、19世紀末からのカリフォルニアは、
そんな事より映画と金だ、とばかりに黒人差別にさほど熱意を示してません。
(全く無かったわけではないが、極めて少ない。もっとも黒人人口も少なかったが)
そしてマフィアの王国、ネバタのカジノは当初紳士の社交場と言う事で
黒人を締め出すのですが、よくよく考えたら、
連中からも金を搾り取った方が賢いじゃん、と気が付いて(笑)、
1960年代に入る頃には、ラスベガスを中心に黒人差別を金の力で(笑)
けり倒してしまっています。

ちなみに、先に墓参りに失敗したボイド閣下は、
ネリス基地勤務時代、週末にはラスベガスのレストランに乗り込んで、
部署の人間全員で盛大な夕食をとる習慣がありました。
(彼は大食いで有名だった)

で、まだ差別が残っていた1957年ごろ、
配下の部隊に黒人士官が配属されるのですが、
それでも全く気にせず、彼は同じ週末の大騒ぎをやっていました。
この時、少尉本人が、自分は遠慮したい、と告げたそうなんですが、
ボイドは、軍を敵に回す根性があるようなヤツはマフィアに居ないよ、
と全く意に介さず、彼が転勤になるまで黒人差別ルールを無視し続けたそうな。



で、こちらが北軍の使っていた主な武器。
小銃は1861年製スプリングフィールドのライフル入り銃で、
銃剣というか槍が付いてますね。
手前の拳銃は44口径1860年型コルトのアーミーリボルバー。

右奥の二つは北軍のトレードマーク、濃紺色の軍帽ですが、
なにせ国内で戦争するわけですから、
こういった帽子などによって敵味方の識別を
はっきりさせないとエライ事になったでしょうね。

先に書いたように南北両軍の国力差はかなりあり、
そもそも工業地帯が北部に集中してましたから、
経済の中心は完全に北側にありました。
動員可能な兵員数も倍近く北軍が有利と考えられていたため、
彼らが戦争は直ぐに終わるぜと考えたのは、ある意味で当然なのですが、
あにはからんや、これが4年も続いてしまいます。

しかも開戦後2年近くは南軍が戦えば勝つ、また北軍の負けか、
といった状況で、リンカーンは毎日胃が痛かったろうなあ、と思われます。
これは南軍にリー将軍とストーンウォール将軍という
有能な軍人が居たのが大きかったでしょう。
が、同時に、どうもリンカーンは戦争指導者として、ちょっと微妙な部分がある上に、
北軍の軍人には有能な人材が居なかった、という部分があるように見えます。

この状況は後にユリシーズ・グラント将軍が登場してようやく好転するのですが、
戦後、大統領になったグラントは史上最低の大統領と未だに言われており、
(私はベトナムのジョンソンと、その跡をついだニクソンが二大最低大統領だと思うが)
人間的にはあまり誉められた人物ではなく、
軍事的に見ても、それほど優れてる才能は見せてません。
ただし、勇気と攻撃精神だけは旺盛で、ある意味アメリカ人好みの
将軍ではあっといえるのでしょう。

とりあえずリンカーン率いる北軍の上層部が考えていた基本戦略は、
まず奴隷州でも経済的に北軍に味方しそうな州は
全て説得して南軍に参加させない、
次に海軍力によって海上封鎖を行いヨーロッパとの通商を防ぎ、
経済的に締め上げ、かつ武器の調達を困難にする。

3つめがミシシッピ川の制川権(?)を握って南部軍の輸送動脈を分断する。

その上で南部連合(Confederacy)の政治的な中心地、
ヴァージニア州のリッチモンドを占領する、という段取りだったようです。

ちなみに当時のアメリカ人は国内が戦場になった1812年戦争の記憶も薄れ、
(メキシカン戦争では自国内が戦場になってない)
戦争を軽いスポーツぐらいに考えていたフシがありました。

1861年7月に首都ワシントンD.C.の近郊(といっても50q近く離れるが)
ブル ラン(Bull Run)川沿いで、北軍と南軍が激突したときに、
多くの北側市民がこれをピクニック気分で見学しておりました。
ホントに弁当持参で家族連れで見学していたそうな。

ところが北軍が敗退し、南軍が追撃を始めると、見学の市民に
大混乱が発生、北軍はそのパニックに巻き込まれる形で、
成すすべも無く逃げ帰るハメになってます。


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