近づいてみる。周囲には低い石垣があり、中にはこれも木造の社殿が見えます。本来、御嶽信仰に社殿は無いので、おそらく明治以降の風習でしょう。



入り口に立つ鳥居も同じ。これは何度か既に指摘しましたね。おそらくあの建物の裏に御嶽本体があるはず。

ついでに入り口に案内板があり、それによると天川御嶽と書いて「あーまーおん」と呼ぶそうな。字は沖縄本島と同じ御嶽ですが、「おん」と発音するようです。というか、そもそも御嶽で「うたき」は無理があるので、こっちの音が拾われている?
ついでどうも天川は後世の当て字で本来は新城と書いてアーマーと読む一族の土地だったことが由来のようです。さらについでにこの一帯は天川原と書いて「あーまーばる」と呼んでいた、という説明も。本当に?八重山諸島で「原」を「ばる」と読むならかなり古くから九州と同じ文化圏だった事になるけど、ホントに?個人的にはちょっと信じられませんが…



でもって予想通り、建物の裏にいかにも御嶽という石造りの構造がありました。石垣で囲まれいてる、門がある、という当たりは首里城周辺の御嶽を思い起こさせるものがあり。



横の戸が開いてました。御嶽は神聖な場所であり、本来男性が入ってはいけない場所でもあります。よって迂闊に近づくべきでは無いのですが、これは外周の石垣であり、さらに内側にもう一つ石垣があり、その中が御嶽のようです。よって、この扉の中までは入って見る事に。ちなみにこういったものに一切興味がない地雷映画男はとっくの昔にどっかに行ってしまっております。

 

最後の石垣越しに見た御嶽の本体。井戸かと思いましたが、妙に大きい。となるとお墓か。八重山では強い力を持っていた巫女、すなわち司(つかさ/沖縄本島周辺の祝女(のろ)とほぼ同じ存在)の墓を御嶽にする事がある、と聞いた事があるのでその一つでしょうか。

余談ながら、私は芸術家としての岡本太郎さんを全く評価してませんが、彼が日本の風俗に興味を持って残した写真と動画は今になっては貴重なものが多く、この点ではもっと評価されるべきだと思っております。その岡本太郎さんが沖縄の風習、恐らく八重山で撮影したのでは、という映像が昨年、上野で開かれた岡本太郎展で上映されており、個人的にはいくつかの点で驚いたのでした。まあ、全く話題にもなりませんでしたが、あれはよくぞ残してくれた、という物でした。再見の機会があれば詳しく述べたいと思ってますが…



さて、では撤収です。その前にまず地雷映画男を見つけねば。 

NEXT