さて、入り口の鳥居をくぐった先の一帯が日吉大社の玄関口、大宮橋があるため大宮橋地区と呼ばれている一帯です。
一応、ここから西本宮、東本宮、どちらにも行けるのですが、普通に歩いてると自然と最大地区である西本宮に向かう事になります。一帯の名称の基になっている大宮橋は西本宮に向かうものですし、東本宮に向かう道はやや判りにくいので。

ちなみに奥の山上に見えてるのが奥宮で、ここが日吉大社の中では最古の地区となります。前回、自転車で坂本城跡に向かう途中で見たのがこれですね。この奥宮だけは、ここから直接は向かえず、西、または東の本宮を経由して、その間にある山道から入ります。

フフフ、今回は全部見て行くつもりだから、後であそこまで登るのね、今日も重力は私の敵よ、ララララ…。ついでにこの奥宮が建つ山が八王子山。「信長公記」によると焼き討ちの時、ここに多くの僧侶や関係者が逃げ込んだので、これを攻めてほとんどを殺し、さらに召し捕らえた者たちも片っ端から首を切られた、とされる山となります。

ついでに言うなら「信長公記」の比叡山焼き討ちの記述はこの八王子山の殺戮が中心で、山の上の延暦寺に関しては根本中堂を焼いた程度の記述しかありませぬ。よって延暦寺の被害は根本中堂周辺が主なもので、徹底的に破壊され、打ち壊されたのはこちら、麓の日吉大社ではないか、と思っています。まあ、いずれにせよ信長によって一度廃絶されてしまうのですが。



そこに建っている求法寺。延暦寺の里坊の一つで、建物は江戸中期に再建されたもの。中にある元三大師像は重要文化財です。ここは既に日吉大社の敷地内ですから、そこに堂々とお寺、延暦寺の里坊がある辺りが、かつての神仏混合の面影を残してますね。

ついでに述べたように日吉大社一帯は秀吉時代以降にに再建された建物ばかりですが、国宝、重要文化財がゴロゴロしており、三井寺と併せてこの日だけでどれだけ見たのかもはや判らなくなりました…。



その先にあるのが、一帯の名称の元となっている大宮橋。この名前、大宮川に架かっているからかと思ったんですが、どうもこの先にある西本宮こと大宮に至る橋、という意味みたいです。これも江戸期、1669(寛文9)年に造られた橋ですが、重要文化財に指定されています。



横から見ると二重構造になってるのが見て取れます。石橋と言っても小さな石をアーチ状に積んだものでなはなく、デカい石を削って柱にしており、技術的には珍しいもののように思います。ちなみに下流にもさらに二つの石橋があり、これらも重要文化財の指定を受けてます。



そこから緩やかな坂を登った先が西本宮です。ここが一番最後の建立なのですが、現在の日吉大社の中では最大規模の一帯となっています。大宮と呼ばれていた事からも判るように、事実上の本殿のような扱いになってました。ついでに、もうちょっと後に来れば紅葉がキレイだったでしょうね。


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