■比叡山籠城戦

さて、話を戻しましょう。

浅井・朝倉連合軍はそのまま比叡山に立てこもってしまいました。当然、そこには延暦寺があり、これが反信長連合に加わっていた、と考えるべきでしょう。ただし両軍は延暦寺の境内、あるいは日吉大社の境内に逃げ込んだのではなく、その中間に広がる山岳地帯に入っています(信長公記)。現在、壺笠山砦跡などが残って居る一帯ですね。そして以後、山から出ない浅井・朝倉連合軍VSこれを囲んだんだけど攻め落とすだけの兵力が無い織田軍団の睨み合いが始まりました。



広大な比叡山延暦寺の心臓部、根本中堂の下から南東方向、大津方面を見る。この手前の一帯にある尾根の上に砦や簡易な城があり、そこに浅井・朝倉連合軍が入った、とされているのですが、壺笠山の砦以外はは明確な資料も遺構も無く、やや推測が強い部分となります。

こうして比叡山周辺の砦に入ってしまった浅井・朝倉連合軍と織田軍の睨み合いが約三カ月、年末近くまで続くのです。ただしこの間の展開は資料によってやや違いがあるので、それぞれについて触れて置きましょう。とりあえず世の中で最も知られているのは当然、信長公記の記述であり、まずはこれから見て置きましょう。

信長公記

浅井・朝倉連合軍は壺笠山砦を中心とした一帯に逃げ込んでしまった。
信長は延暦寺の主な僧を呼び出し織田側に味方すれば没収した寺領を戻してやる、それが無理なら中立を維持せよ、それに背くなら寺を焼きはらうと脅した。それにも関わらず延暦寺は浅井・朝倉連合軍に味方し、糧食の補給まで行った。このため信長は宇佐山城に本陣を置き(すなわち落城して無かったと思われる)、九月二十五日以降、坂本一帯を軍勢で取り囲んだ。さらに反対の京都側からも比叡山を包囲した。

十月二十日になって信長は朝倉に無駄な対陣は終わりにして合戦で決着を付けようと申し込んだが返事は無かった。後に朝倉側から講和を求めてきたがこれを拒否した。この間、琵琶湖南岸で本願寺の一向宗による一揆が多発し、織田軍は退路を絶たれかけたが、琵琶湖東岸に居た秀吉ともう一人の織田軍の重臣、丹羽長秀がこれを撃破して宇佐山城にまで援軍に来た(普通に考えれば、目の前の小谷城から浅井軍が西の坂本まで出て行ったことを見逃した秀吉の失態は重大だが、この点の記述はない。ただし信長公記に敵は朝倉軍と何度も出て来るので浅井長政は小谷城に残り援軍だけ送った可能性あり)。

十一月二十五日、坂本の北にあった堅田城を守る武将たちが織田側に帰順を申し出て来た。このため城に兵を千人入れようとした所、浅井・朝倉連合軍が多数の兵で攻撃を仕掛けて来た(ここが落ちると北に帰る街道筋を抑えられてしまう)。織田側はよく防戦したが多勢に無勢で城を奪われてしまった。

年末になり将軍足利義昭が三井寺まで出て来たところ、朝倉側から休戦のあっせんを懇願して来たのでこれを信長に取り次いだ。最終的に十二月十五日になって和議が成立、織田側は勢多の渡しの対岸まで引き(当時、まだ勢多の唐橋は無い。丹羽長秀が造った鉄板による船橋で移動した)、さらに人質を渡して浅井・朝倉連合軍が北に帰るのを確認した。十七日に信長は岐阜に戻った。

次に朝倉始末記ですが、簡単な記述ながら、信長公記とはかなり食い違いがあります。

朝倉始末記

比叡山籠城に関する記述は一切なし。
森可成相手に坂本合戦で我々が勝利した、という記述の後、いきなり話が十一月十六日に飛び、義景が比叡山一帯の上坂本、干野、仰木、雄琴、苗鹿の五か所に陣取った、対して信長は佐和山城まで出てきて戦になった、とだけあります。この戦は上で見た信長公記には無いものです。この戦で堅田城の織田軍の武将も戦死した、浅井・朝倉連合軍の勝利に終わった、1583人(ホントに数字に細かいのだ)の敵を討ち取ったとだけあり、堅田城攻防戦に関する記述はありません。ちなみに鶴翼、魚鱗の陣の戦いとなったと戦術に触れたような記述が出てきますが、これは当時の常套句で、総力戦で戦ったといった程度の意味です。

ちなみに堅田城は浅井・朝倉連合軍が陣取ったとされる土地より北であり、記述が正しいなら南から北上してきた信長の織田軍と挟撃されながら、それでも勝ってしまった事になります。

そしてこの戦によって信長は危機に追い込まれたが、天皇からの勅命と、将軍である足利義昭による和睦仲介があったため、十二月十三日に、これを受け入れて信長を見逃してやった、という内容になってます。和睦の日付が二日早く、さらに天皇の勅命があった、という記述も信長公記には無いものです。

さらにこれまた筆者は現地には行ってないはずですが、徳川側の記録と言える三河物語にも簡単な記述があります。

■三河物語

浅井・朝倉連合軍の三万の軍勢が比叡山に立てこもり、織田軍は一万に過ぎない兵でこれを包囲した(織田軍の兵数に関する唯一の記述)。このため徳川から援軍が行ったが、合戦は無かった。延暦寺は浅井・朝倉連合軍に完全に組しており、織田側を騙そうと計略を仕掛けて来る事があった。
最終的に小谷の浅井によって退路を塞がれる事を恐れた信長が和議を申し込み「天下は朝倉が取れ。織田はそれを望まぬ」という証文まで渡し岐阜に引きあげた。

このように、各種資料で結構差異があるのが、浅井・朝倉連合の比叡山籠城だったります。どれも自分に都合のいい部分だけ述べてる印象が強いのですが、これらの資料から伺える比叡山籠城戦をまとめると以下のようになるでしょう。

〇大坂で戦う織田軍団の背後を突く、あるいは京の都を占拠すると事を目的とした浅井・朝倉連合軍の戦術は、森可成の奮戦による時間稼ぎと速攻で京都まで戻って来た信長の高速戦術によって失敗に終わった。

〇おそらく戦力的にはより多数でありながら浅井・朝倉連合軍は織田軍団と決戦せず、比叡山一帯の陣地に籠城してしまった。理由は全く判らない。

〇比叡山延暦寺は明らかに浅井・朝倉連合側に味方した。

〇九月二十五日から十二月十五日ごろまで、約三カ月近く両者は睨みあったまま動けなかった。この時、包囲された側が包囲する側より兵力が大きい、という前代未聞の状態になっていた可能性が高い。普通に考えれば決戦に出れたはずだが、浅井・朝倉連合軍は最後までこれを避けた。

〇徳川の援軍が来たが、恐らく途中で帰ってしまって十一月中旬以降に発生した合戦には参加していない。

〇十一月十六〜二十五日ごろにかけて、北の堅田城を巡る合戦があった。退路を絶たれる可能性があった浅井・朝倉連合にとって決死の戦いだったと思われるが、これに勝利し、完全に包囲される事は避けられた。



琵琶湖側の比叡山ケーブルカー駅から北方向を見る。

ここで見えている比叡山より北側の湖岸一帯が合戦が行われた土地です。朝倉始末記に名が出て来る陣地で、干野だけは現状、場所がわかりませぬがそれ以外は全て坂本から堅田城に至る土地であることが見て取れます。よって信長公記が述べているように、これは堅田城を巡る戦いだった、そして浅井・朝倉連合軍が勝利し、城と北に向かう退路は守られた、と考えるべきかと思われます。

〇最終的に将軍の足利義昭、そして恐らく天皇の仲介による和議がなった。旧暦十二月では既に真冬であり、両軍とも撤退に苦労したはずだが(織田軍も豪雪地帯である関ケ原一帯を通過しないと岐阜に帰れない)、ここに至るまでどちらも動けなかった事になる。ちなみに一部で見られる雪が降る真冬の前に講和、という説明は正しくない。旧暦十二月十日過ぎは西暦なら既に翌年の一月だから朝倉の本拠地、北陸方面は普通に雪がバンバン降る真冬である。

〇織田側はこの間、大坂方面、伊勢長島方面でも戦いが続いていた。特に伊勢長島方面の状況は深刻でこれ以上の長期化は避けたかったが、京都の直ぐ側の土地にこれほどの敵の軍勢を残すわけに行かず引くに引けなかった。浅井・朝倉連合軍はそこに居るだけで京都占領の可能性を持つため、織田軍を拘束できた。ただしこれほどの大軍を持っているなら決戦で織田軍の主力を撃破する、という選択肢もあったはずなのに、大将の朝倉景勝はこれを最後まで回避した。後で見るように、これが浅井・朝倉連合軍の致命的な失敗だったと考えていい。

〇休戦協定に関しては、恐らく織田側が将軍と天皇家を動かした可能性が高い。ここで年越しまで睨み合いが続いた場合、深刻な影響を受けるのは他にも複数の戦線を抱える織田側だからだ。実際、この辺りの記述は信長公記ですら歯切れが悪く、朝倉始末記、三河物語では明らかに信長の負け戦だったと取れる記述になっている。実際、信長公記ですら、織田側が人質を出し、さらに相手の言うままに勢多まで兵を引いた事を認めてる。これだけを見れば織田軍の負けと判断して間違いない。

〇ただし戦術的には織田軍の敗北だが、戦略的には浅井・朝倉連合軍の完全な敗北だった。
数的優位を確保していたのは間違いないのに決戦を回避した結果、織田軍の主力は最低限の損失だけで温存されてしまった。決戦に及び、数的優位を活かし織田軍をここで殲滅しない理由は無いはずで、なぜ籠城戦を選んだのか全く理解出来ない。先にも触れたが大将は朝倉家の義景だったと思われ、この男が消極策によって決戦を回避したと思われる。完全な失策と言ってよく、この唯一にして最大の織田軍殲滅の機会を逃した浅井・朝倉連合軍は以後、防戦一方になって行く。そして約二年半後には両者仲良く滅ぼされてしまうのだ。浅井・朝倉連合軍がその滅亡を避け、織田軍に勝利する機会があったのは、この時だけだった。この決戦を回避した朝倉義景のチキンぶりが織田側に有利に働いた、と考えていいだろう。

■その後の浅井・朝倉連合

こうして1570(元亀元)年旧暦四月に浅井長政の裏切りで始まった戦いは、約三カ月に渡る坂本地区の睨み合いを経て年末の和議によって両軍とも本拠地まで一度撤退、ようやく終わりを向かえたのです。ここまでは痛み分けのようにも見えますが、以後の展開は織田軍団が一方的に攻勢を仕掛けて行く事になり、浅井・朝倉連合軍はひたすらジリ貧になって行きます。この坂本の戦いが全てを決した、という部分は少なくないでしょう。

その理由は二つありました。まず、以後最前線であり続けた浅井長政の小谷城攻略を担当したのは、織田側における最強最高の戦争屋、木下藤吉郎秀吉だった事。そして朝倉家の主要な親族、重臣、が病気や戦死で次々と亡くなり、人材が枯渇してしまった事(朝倉始末記)。その上で当主の義景は戦国最強のチキン野郎だっため、以後、朝倉家の戦力は低下し続け、浅井への救援すらままならなくなってしまいます。浅井・朝倉側に多少の不運があったのは事実ですが、負けるべきして負けた、と言っていいでしょう。その要因として後々まで悔いを残したのが、坂本一帯で繰り広げられた比叡山籠城戦だった、という事になります。

実際、信長は比叡山籠城の危機を乗り切ると次々と手を打って先手を取り続けます。まず翌1571(元亀二)年になると関ケ原から琵琶湖への出口に位置し、中山道を抑えていた浅井側の佐和山城(現在の彦根城の東にあった。後に丹羽長秀、そして石田三成が城主となる)を落城させます。これで浅井は小谷城より南側の拠点をほぼ失い、その状態で喉元と言って横山城にある秀吉からの攻略に晒される事になりました。

これを見た浅井長政は1571(元亀二)年旧暦五月六日、横山城と佐和山城の間にある箕浦(みのうら)にあった織田側の城を五千の軍勢で襲撃します。これが箕浦の戦いです。

これは伊勢長島一帯の討伐に信長率いる主力部隊が向かったのを見ての攻勢でした。比叡山の籠城戦中に織田軍が失った地域の奪還戦を織田軍は開始しており、この点でも信長は極めて素早く動いたのです。これで織田軍の主力が留守になった結果、現地に残された横山城の秀吉の兵は千以下だったと思われ、簡単に捻りつぶせる、と判断したのでしょう。さらにここを抑えれば関ケ原の出口も抑えられますから悪くない手です。朝倉義景に比べて浅井長政は十分な才覚を持っていた事が伺える作戦でした。

ところが不幸にして敵は木下藤吉郎秀吉だったのです。度胸も知恵もある秀吉は、僅か百騎ほどの兵で横山城を討って出て、現地の応援に駆けつけます(単位が騎なので武将であり、その引き連れる足軽を含めると数倍の人数が居た可能はある)。現地の兵力と併せても五、六百人であり、籠城戦としても厳しい数でした。ただし浅井側の主力は一揆衆とされ、プロの武将や足軽ではなく一向宗徒が主力だったようです。これを見た秀吉は籠城戦を捨て突入、十倍近い敵と戦ってこれを撃破してしまいます。ホントにこの人も、戦の天才なんですよ。織田側の被害も小さくなかったようですが、それでもこの敗北を見た浅井側は兵を引き、以後、攻勢に出ることは無いまま二年近くに渡って小谷城で防戦に務める事になります。後に1573(元亀四)年春、その救援に向かっていた武田信玄は途中で病死ししてしまい、これで最後の望みも絶たれました。この結果、その年の夏、八月に浅井、朝倉の両家は滅亡を向かえる事になるのです。


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