■比叡山炎上

最後に歴史の教科書でも御馴染み、信長による比叡山焼き討ちと、その比叡山から奪い取った琵琶湖南西岸の支配を任された明智光秀による坂本城について少し触れて終わりとしましょう。

1570(元亀元)年の比叡山籠城戦の時、信長は延暦寺に対し、オレの敵に回るならお前らの寺は焼くよ、と既に予告してまいた。信長は自分に都合のいい約束は必ず守る人なので、待たせてゴメンねとばかりに翌1571年(元亀二)年旧暦九月十二日、籠城戦から一周年をもって織田軍を比叡山山麓に集結させます。そして約束通りに比叡山延暦寺と麓の日吉大社を徹底的に焼き尽くすのです。この比叡山焼き討ちについては信長の狂気といった説明を昔はよく見ましたが、単に信ちゃんは一年前の約束をキチンと守っただけです。よくもオレの敵に回ってくれやがったな、と。それだけなんですよ。

この時、延暦寺に多大な恩があったはずの浅井、朝倉家は全く動きませんでした。旧暦八月に入ってから織田軍は浅井の小谷城攻めに全力を上げており、浅井軍はおそらくその防戦で手いっぱいだったからでしょう。ただし朝倉に関してはなぜ救援しなかったのか全くの謎で、朝倉始末記にはこの年、1571(元亀二)年の記述は一切無いのです。すなわち比叡山焼き討ちに関する記述も一切ありませぬ。先に見たように朝倉家の不幸連発中でそれどころでは無かった、という事なのかもしれませんが、延暦寺にしてみれば、あれだけ面倒見てやったのに…という所でしょうね。朝倉家がどんどん信用を失っていったのは、こういった面があるからかもしれません。ホントに浅井長政はなんで朝倉義景との同盟を選んじゃったんでしょうね…。

さて、その比叡山焼き討ちによって、比叡山と麓の日吉大社の土地、そいて一帯の寺社領は全て織田側が没収し、同時に焼き討ちされたらしい坂本の町もまた織田家が抑えました。そしてこの一帯を信長から一任されたのが明智光秀で、このため光秀は坂本の地に自らの本拠地となる坂本城の築城を開始します。織田家の重臣の中で、新たに得た領地を丸ごと任され、さらに自らの城を新たに築く事を許可されたのは、おそらくこの光秀が初めてです。

そしてその光秀が建てたのが坂本城となります。当時の宣教師、ルイス・フロイスによる「日本史」の第56章(第2部41章)に「それは日本人にとって豪華壮麗なもので、信長安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった」と述べられた城でした。ちなみに安土城より先に完成してるはずなので、一時は日本一の城だった、という事になるでしょう。ちなみに戦国期の史料の一つ、「兼見卿記」の筆者である吉田兼見は光秀と親しく、何度か坂本城を訪れているのですが、建設中の天守閣を見てその規模に驚き(城中天主作事以下悉披見也、驚目了)、1580(天正八)年に行われたとされる再普請にも驚いてますから(普請大惣驚目了)余程の規模の城だったと思われます。

ただし本能寺の変の後、明智光秀は山崎の合戦で破れて坂本に逃げ帰る途中、落ち武者狩りで殺されてしまっため、まともな籠城戦は行われないまま織田側に明け渡されてしまいました。よって、その本当の戦闘能力は判らないままで終わります。フロイスによると安土城に居た明智軍が坂本城に戻り籠城するのですが、羽柴軍が来ると一同切腹の上、天守に火を放ってしまったとしています。ただし後に秀吉は対柴田戦の間に坂本城を利用してますので、おそらく天守閣以外の城の主要部は残って居たようです。その後、再建され、秀吉の妻の親族だった浅野長政が城主となりました(浅井長政では無いのに注意)。最終的に1586(天正14)年廃城とされ、城の設備の多くは大津城にそのまま移築されたようです(その大津城から天守閣を移築したのが彦根城とされるので、長政時代の天守閣の可能性はあり)。



肝心な坂本城跡が木の陰になってしまってますが、日吉大社の牛尾神社から見た一帯の風景。当時の坂本の町も現在とほぼ同じ場所にあったはずで、その湖岸にあった坂本港はかなり大規模なモノだった、とする史料もあります。その港の南側に位置していたのが坂本城となります。

といった辺りが、坂本という土地に関するおおかな歴史であり、これからその土地を見て行く事になるわけです。
といった感じで今回はここまで。


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