さて、今回はホンダコレクションホールの3階に上がります。ここは二輪、四輪共にホンダの魂とも言えるレース用のマシンがズラリと並んでる階です。
まずは二輪から見て行きましょう。でもってこれも全部キチンと紹介するのは無理なので、例によって主なもののみとします。いや、だって無茶苦茶な数なんですから…

 

とりあえず、展示はこんな感じ。まあ、すげえな、という言葉しか出て来ません。その上、これ全部レース用二輪車なんですから。こんな空間、世界中さがしてもそうは無いでしょう。少なくとも私は知りません。



最初は1954年ブラジル・サンパウロで、ホンダが初めて海外のレースに参戦した時のマシン、4サイクル125tエンジンのR125。このレースに関しては以前にすでに述べたので、ここでは詳細は省きます。
ただしあまりにキレイ過ぎるのでレプリカのようにも見えましたが、特に断りは無く、実車の可能性もあります。

既に書いたように13位完走で終わり、世界のレベルとの差を痛感する事になったマシンです。
ちなみにエンジンは例の箱根越えのドリームE 型用150t(厳密には146t)の排気量を下げてレギュレーションに合わせたもので、6馬力前後の出力だったとされます。
本田宗一郎総司令官が泣いて感激した、とされる箱根越えのE型エンジンをもってしても世界では問題外、だったわけです。
レース中に記録した最高速度は110km/h、優勝したイタリアのモンディアルは160q/hですから、そもそもレースにすらなって無かった、というほどの差がありました。記録が残って無いのではっきりしませんが、すくなくとも数周は周回遅れだったはず。

ちなみ写真では見づらいですが、後輪はなんとリジッドでサスペンション無し(ほとんどママチャリ自転車と同じ構造と思っていい)、前輪のサスペンションはガーターフォークで、前輪支柱(フォーク)を支えるために胴体から延びるヒンジ部を可動式にしてスプリングを挟み衝撃を受けるという、レーシングマシンとは思えない原始的な構造でした。いや、実際、よくこれで110qも出して走ったな。
ちなみに基本的にドリーム号も同じ構造で、このため後輪が拾う衝撃を避けるため、シートの下にスプリングが入ってました。これは西部開拓時代の荷馬車の御者台と同じ発想ですから、まあよくこれでレースに出たなという感じです。

この時に受けた世界のレーシングマシンの現実に対する衝撃から、ホンダによる世界二輪レースへの挑戦は始まった、と思っていいと思います。



MV アグスタ 125 スポルトコンペツィオーネ。
1954年のサンパウロのレースに出走していた一台。当時市販されていたレーサー車なのでホンダが後に研究用に購入したものかもしれません。何位に入賞したのかは不明ですが、優勝を逃したこのマシンでさえ、16馬力、最高速度で145q/hは出た、とされますからその性能差は歴然としていました。

さらに車体構造も雲泥の差でした。
RC125はドリームE型そのままの2速ギアなのに対してこちらは4速まであり、その高速をきっちり減速するため大型の前輪ドラムブレーキが付いてます。さらに前輪は現代的なチューブ式のテレスコピック サスペンション、そして後輪にもキチンとサスペンションの構造を持ちます。
とりあえずこのレベルに追いつかないと世界では話にならぬ、ということろからホンダのロードレーサーの開発は始まったようです。

MV アグスタはやがて1950年代後半、世界GPで無敵の快進撃を続け、当時の世界最強レーサーマシン会社になって行きます。そこに挑んだのが1959年にマン島TTで世界GPデビューするホンダでした。もしこのマシンが研究用に購入されたものなら、運命的なものを感じますね。



1959年製のホンダRC160。
250t4サイクルで横置き4気筒、しかも4バルブのDOHCエンジンを搭載した国内用レーサーマシン。
おそらく250tのエンジンで世界初の4バルブDOHCだったと思われます。14000回転まで回って35馬力を叩き出し、220q/h以上まで出た、とされるので当時としてはかなりのものでした。エンジン開発は世界GP挑戦チームなので、例の久米さん、新村さん辺りの仕事となります。

ちなみにこれはこの直前にマン島GP初参戦となったエンジン、現地改造でDOHCにしてしまったRC142の125tエンジンをほぼ単純に横に並べて4気筒、250tにしてしまったもので、そんなんでなんとかなっちゃうのね、という部分でもあります。

展示の車両は当時の国内におけるバイクレースの最高峰、1959年の秋に浅間サーキットで開催された第三回全日本オートバイ耐久レースに出場、優勝したもの。ちなみにこの年は125tでも優勝、それまで勝てなかった浅間の耐久レースでホンダが初めて圧勝した年となりました(より大排気量の350t、500tでは勝っていたがホンダが世界GPで狙っていた125、250では第三回まで勝てなかった。ちなみに第三回の開催は1959年秋なのでホンダは国内で未勝利のままマン島TTに参戦したことになる)。この余勢をかってホンダは翌年から世界GPの250tにも挑む事になります(125tはこの年の6月にマン島で参戦済み)。

ただし既に書いたように、マン島のコースが全て舗装されていたのにホンダのライダーが驚いたように、当時の国内に全舗装サーキットは無く、オフロードというか単なる未舗装の砂利道でのレースでした。なので写真のマシンに付いてる風防ガラスのようなものは実は有機ガラスでは無く、他車が跳ね上げる石や砂利からライダーを守るための金網です。
このためエンジン以外の部分は後の世界二輪GP参戦にどこまで参考になったのか、よく判らん部分もあります。実際、ホンダでは両者を平行開発しており、エンジン以外はほぼ別物、という気がしますね。

ついでにこの段階でもまだ、フロントにはまともなサスペンションが無く、チューブ式ではない、初期のスーパーカブなどと同じボトムリンク式でした(フロントフォーク下の前輪固定部にヒンジで動くパーツを付けてある)。ちなみにサスペンション周りは1959年6月に最初のマン島TTに挑んだRC141&142(DOHCに改造した3台が142、できなかった2台が141)でもそのまんまで、よくまあ、これで戦ったなと思います。


NEXT