ここでホンダが主戦場とし、見事な戦果を収めた二輪の世界GP(現在のmoto GP)について説明しておきます。

これは1949年からヨーロッパで始まった各国のサーキットを連戦しメーカー(チーム)とライダー、それぞれにチャンピオンを決めるレースです。まあ二輪のF-1と思っておけば問題ありません。アメリカでは人気が無い、という点も一緒です(笑)。この辺り、30年以上前から日本で一定の人気を保ってるのは、F-1同様、ホンダの尽力によるものでしょう。
1963年から67年まで、そして1987年の再開から現在まで二輪の日本GPほホンダと鈴鹿サーキット&ツインリンクもてぎでホンダが主導する形で開催され、人気を維持しています(ただし1966年、67年の2回だけは富士スピードウェイでの開催だった)。

二輪の世界GPが、F-1と違うのは排気量ごとに複数のレースが同時に開催され、各クラスにそれぞれに優勝者が要る事です。
排気量によるクラス分けは最大と最小が時代を追って変化してるのですが、大筋で、以下のようになります。中間クラスである250cc と125tは1949年の初開催から2019年に至るまで変化はありませんから、ここでは省きます。

 大排気量 1949〜2001年 500t / 2002〜06 990ct以下 / 2007〜11 800t / 2012以降 1000t
 中排気量 1949〜1982年 350t 1983年廃止
 小排気量 1962〜1983年 50t / 1984〜1989年 80t 1990年廃止

これ以外にサイドカーによるレースもかつてあったのですが、いろいろヤヤコシイ上に、日本ではほとんどなじみが無いので省きます。 ついでに最大排気量が990tと耐久レースかよ、というサイズになってしまった2002年(名称もmoto GPに)から筆者は興味を失い、それ以後の事情に関してはほとんど知りません。

この二輪世界GPにホンダが参戦していたのは第一期と、現在まで続く第二期の二つの時期で、四期にまで分かれるF-1とは対照的に判りやすくなっています。この辺り、スポーツ系バイクの売り上げはレースの結果に左右されやすいこと、参戦コストがF-1よりは低いことなどが理由でしょう。その参戦期間は以下の通り。

 ホンダ第一期  1959〜1967年 ただし全戦参戦は1961年から 
 ホンダ第二期  1979年〜現在 ただし1979年は途中参戦 1980、81年も一部参戦のみ

第一期は先に書いたように、そもそもホンダは世界GPの存在をよく知らなかったフシがありました(笑)。
1959年、本田宗一郎総司令官の夢、マン島TTレースの125tクラスに参加したら当時はこれが世界GPの中の一戦だったため、そのままなし崩し的に参戦に至ったように見えるのです。

とりあえず二年目の1960年にはGP第二戦のマン島TTから125&250ccの2クラスで走り、第一戦を除く全6戦に参戦。
初参戦から3年目の1961年からは全戦に完全参戦。さらに翌年1962年からは350、50tにも参戦し(ただし50tは1963年は休止、最後の1967年も不参加)、さらに1966年と1967年の最後の2年間は500tでも走っています。

ただし5クラス全部に参戦したのは1966年の1年間だけで、ホンダ第一期最後の年となった翌1967年には125と50tに不参加でした(ホンダからマシンを買って参戦したプライベーター(個人チーム)はあった)。
ちなみに後でも述べるように、この1年間だけの5クラス全戦参戦において、ホンダは全5クラスのメーカー優勝という未だに世界唯一の記録を持っています。

ちなみに小さな軽量ピストンを高速でブン回す多気筒高回転設計をやりにくい、ホンダが得意としてなかった大排気量の500tに参戦したのは1965年10月にホンダF-1チームがメキシコで初勝利を挙げ、予算的な分配に不安を感じてより本社にアピールするためだったという話があります。この結果、1966年にメーカーチャンピオン5クラス完全制覇という偉業を成し遂げ得るのですが、それでも翌1967年までで世界GPからの撤退を余儀なくされるのです。この辺りはすでに見たようにホンダの経営危機、そして低公害エンジン(CVCC)の開発に人員が要る、といった面があったのでした。

そのホンダが12年ぶりに世界GPに復帰したのが1979年でした。
ただし当初の参戦は500tクラスのみ、しかもイギリスGP以降の3戦だけの参加で、1981年まで似たような状況が続きました。この時は4サイクル楕円ピストンのNR500で悲惨な戦果に終始する事になり、その開発に手こずった結果、こういった中途半端な参戦に終わったようです。

最終的に4サイクル楕円ピストンは放棄され、1982年から2サイクル500tのNS500を投入、翌1983年にはあっさりライダー&メーカーの両方でチャンピオンを獲得する事になります。その後、1985年からは250tクラスにも参戦を再開、さらに日本GPが再開される1987年には125tにも復帰、間もなく廃止される事になる80tを除く全クラスにホンダは復活参戦することになりました。



1960年、マン島TT挑戦二年目、ホンダが125tに加えて 250tクラスに初参戦した時のマシン、RC161。
この年は4、5、6位の結果に終わりました。エンジンは先に見た浅間の優勝マシン、RC160からの発展型で14000回転で38馬力とパワーアップしてます(回転数は変わらないのでおそらく圧縮比を上げてる)。対してチューブ式のテレスコピック式なったフロントのサスペンションなどから判るように車体構造はほぼ別物です。

ちなみに60年式のエンジンから完全に分業となり、この250t用エンジンが新村さん、125tが久米さんの担当でした。そのエンジンの吸排気系は後にCVCCエンジン開発の理論的解析も手掛けた八木静夫さんが担当してます。
彼は吸気速度係数から、シリンダーのボア(口径)、ピストンのストローク(行程)の長さの比の最適解が求められる事を見出し、さらに機関の全損失圧力はピストンのストローク(行程)とクランク軸の平均径の積の平方根に比例、逆にシリンダーのボア(口径)に反比例する事に気が付きました。これによって従来の経験と勘だけではない、理論的に最適解を求めた上でのエンジン設計を可能にしています(これはある意味、本田宗一郎総司令官とは正反対の立場だったが、そういった人物が普通に居るのが当時のホンダであった)。これがホンダの隠れた強さの一つでした。

この1960年は、マン島TTの後も世界GPのオランダ、西ドイツ、アルスター(北アイルランド(イギリス))、イタリアの4戦に参加(ベルギーは125ccのみで250ccは欠場)、西ドイツで日本人ライダーの田中健二郎選手が三位となってホンダの、そして日本人の初表彰台をもぎ取ります(展示の車両はその3位入賞の時のもの。ただしやっぱりレプリカ疑惑はあり)。その後のアルスター、イタリアでは連続して2位を獲得、最終的に年間のメーカーランキングでも2位につけ、ホンダの未来に期待を持たせる事になります。



そして翌1961年からホンダは世界GP全戦に参戦、快進撃を開始します。
250tクラスでは11戦中10勝(最初のスペインGP以外全て優勝、内9勝は3位までの表彰台も独占)という大記録を打ち立てる事になるわけです。当然、メーカー&ライダー両タイトルも文句なしの獲得となりました。日本の技術が世界最高峰に登り詰めた最初の年がこの1961年と思っていいでしょう。よくまあこの時代の日本の技術でここまで、と改めて思いますね。

写真はその1961年型RC162で、第2戦西ドイツグランプリで高橋国光選手が優勝したマシン。これが日本人初の世界GP優勝となっています。
ぱっと見た目では燃料タンクの形が少し変わってる以外、RC161との差はほとんど無く、基本的にはエンジンのパワーアップ型(38馬力→45馬力)だったように見えます。ちなみにこちらはトルク据え置きの回転数アップによるもので、最高速を上げて来た、という事になります。

完成度の高かったこのRC162はそのまま翌1962年のレースにも投入されるのですが、この年は参加したレースで9戦9勝(世界GPは全11戦だったが第10戦フィンランドの250tは休止(サーキットによっては休止となるクラスがあった)、優勝が決まった後、遠征が大変だった最終戦のアルゼンチンにホンダは不参加)と圧勝でメーカー、レーサーの両タイトルを獲得しました。ちなみに表彰台独占も6回と、まあベラボーな速さだったのです。

そしてこの1962年からはさらに50t、350tと計4クラスに参戦し(50ccはこの年に初めて開催)、その内の350tにおいてもメーカー&ライダーのタイトルを獲得。すなわち全5クラスの内、3クラスを完全制覇してしまいます(最大排気量の500tクラスにはホンダは不参加)。フル参戦二年目という事を考えると滅茶苦茶な快進撃でした。
日本の技術すげえ、日本の工業製品最高、という皆様方とは一定の距離を置く事にしてる筆者ですが、この時代のホンダだけは文句なしにすげえな、と思います。

もっとも、上には上がいまして、例のイタリアのバイクメーカー、MVアグスタは1958年から1960年まで3年連続で4クラス(125、250、350、500)完全制覇(メーカー&ライダーチャンピオン)を達成しています。この4年連続制覇を阻止したのが1961年のホンダの活躍だったのです。

余談ですが、F-1と世界GPという四輪と二輪の最高峰で世界チャンピオンを獲った唯一のホモ・サピエンス、後にホンダのF-1にも乗る事になるジョン・サーティス(John Surtees)はその3連覇の時に500ccと350tの2クラスで3連続チャンピオンを獲っています。その後MVアウグスタを離れて四輪のF-1に転向、1964年にフェラーリでこちらもチャンピオンを獲るわけです。

ただし、500tと350tの同時二階級制覇をしたライダーは他にも数人いまして、中でもすごいのは未だに史上最強と言われるライダー、ジャコモ・アゴスチーニ(Giacomo Agostini)でしょう。彼は1968年から1972年まで5年連続でこれを成し遂げています。ちなみにこの時のチームもまたMV アグスタでした。

さらにちなみに、1966年にホンダもメーカで史上唯一、5クラス制覇を成し遂げるのですが500tと50tでライダータイトルを獲れず、完全制覇にはなりませんでした…。ただし5クラスも存在したのは1962年から1982年までの間だけなので、以後、このメーカーチャンイオン記録は破られる事はないでしょう。

 

こちらはその快進撃だった1962年の125tクラス用マシンRC145。このエンジンも14000回転まで回り、24馬力以上出たとされます。

前年の1961年にホンダは125tクラスでも11戦中8勝、メーカー、ライダー両タイトルを手にしています。この時のマシンが、連載2回目に紹介した2RC143でした。

そしてその翌年、1962年には125tクラスでもこのRC145により出走した10戦全勝(例によって最後のアルゼンチンGPは棄権)というパーフェクトゲームで完全制覇を達成してしまいます。当然、メーカー&ライダーの両タイトルも獲得。すでに見たように250tでも全勝優勝、350tでも両タイトルを獲ってましたからまさに「奇跡の1962年」 だったわけです。ただし、この年、ホンダのライダーはいろいろ悲惨な状況に陥るのですが、この点はまた後で。

ちなみにホンダのライダーだったジム・レッドマン(James “Jim” Arthur Redman)は1962年、1963年の2年簡に渡り250t、350tの両クラスでチャンピオンを獲得、その後も250tでは1965年まで4連覇を成し遂げてます。でもってその5連覇を防いだのが同じホンダのマイク・ヘイルウッド(Mike Hailwood)で、この人も1966年、1967年と250t、350tの二階級制覇をやってます。先のサーティスやアゴスチーニといい、この時代は2クラス同時制覇を成し遂げた人が結構、いるんですよね。 


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