■海軍司令部地下壕

これから見学する地下壕は、沖縄戦における海軍の司令部だった場所です。
沖縄戦における日本側の総司令官は第32軍司令官である陸軍の牛島中将で、
海軍はその配下に入っていたものの、独自の指令系統を最後まで維持していました。
ただし海軍といっても沖縄に戦闘用の艦船など一隻もなく、航空部隊も米軍上陸前には既に全滅してますから、
陸戦に備えるしかなく、こういった陸に上がった海軍部隊は根拠地隊と呼ばれます。

海軍の沖縄根拠地隊司令は大田少将で、海軍陸戦隊の指揮官を長く務めた人でした。
(ミッドウェイの上陸戦が行われたら海軍側の陸戦指揮官となる予定だった人物。
ちなみに陸軍側の対ミッドウェイ部隊が後にガダルカナルで全滅する一木支隊)
なので沖縄戦の時も陸戦を前提としてここに配属されたのだと思われます。
といっても、約1万人居たとされる海軍兵力の三割前後が現地沖縄で徴用された兵
すなわちまともな訓練を受けた兵ではなく、そもそも正規の海軍兵は半数以下だったとされます。
それに加えて、十分な数の武器すら持ってなかったと思われますから、
これはもう悲惨としか言いようが無い世界でしょう。

第32軍の総司令部、陸軍司令部は首里城地下にあったのは既に見ました。
対して海軍の司令部は、最後まで米軍の手に落ちなかった沖縄の飛行場、
小禄飛行場(現那覇空港)の近郊、首里から5.5q離れたこの
豊見城(トヨミグスク)地区の丘陵地下に置かれます。

当然、これで両者の連絡が上手くいくわけがなく、実際、命令のとり違えや齟齬、
さらには海軍側の陸軍への不信などから、最後まで円滑な協力体制は築かれず、
最後の最後は海軍は陸軍と手を切る形で、一度は放棄したこの海軍本部壕周辺に戻り、戦い、壊滅します。
(ただし一部は命令系の混乱から沖縄南部に取り残され、そこで戦った)

この一帯での海軍の抵抗は、アメリカにとっても強烈な印象を残したようで、例のアメリカ陸軍側の記録、
Okinawa:the last battle (1948)の中でも、小禄周辺での10日間の戦闘における海兵隊の死傷者を1608名とし、
これは首里周辺での戦闘比べても、かなり大きな損害だったと述べています。

この一帯に来た米軍は海兵隊の第一、第六の二師団からなる第三軍団でした、
その中で小禄周辺では主に海兵隊の第六師団が中心となり、その戦闘を進めます。
その第六師団は当初、小禄飛行場(那覇飛行場)北部に対し海上から上陸する、
という戦術で、沖縄上陸開始から約2か月後の6月4日にこの地に足を踏みいれたのです。

ここで戦後にアメリカ軍が空撮した写真で、海軍司令部壕の位置関係を確認して置きましょう。

出典:国土地理院ウェブサイト *必要な部分をトリミングして使用



終戦後1945(昭和20)年12月の写真なので小禄(那覇)飛行場が大幅に拡張されてしまってますが、
それでも海軍本部までは3q近い距離があり、
最初っから飛行場の防衛などは考えてないのが見て取れます。

写真でわかるように、飛行場の東は丘陵地帯で、標高50m前後の丘が林立し、
ここを拠点に日本の海軍根拠地隊は約10日間に渡って抵抗を続けたのでした。

アメリカ海兵隊の第六師団では第4、第29連隊を飛行場の北側に
水陸両用車で上陸させ、残りの第22連隊を陸沿いにこの丘陵地帯の東にまで進出させました。
左右から海軍根拠地隊が立てこもる丘陵地帯を挟撃したのですが、梅雨の泥濘で戦車が動けず、
さらに海軍根拠地隊が頑強に抵抗したため、思わぬ苦戦を強いられる事になります。

ただし見ればわかるように、飛行場に対しても十分な距離があり、
そもそもろくな重火器を持たない海軍部隊はその脅威とはならず、
さらにこの壕は特に街道筋を抑えてるわけでも、
なんらかの交通の要所でもない位置にあったわけです。

だったら、抑えの兵力だけ残して、さっさと南下して第32軍の本隊を追っかけたほうが
ずっと効率がいい気がするのですが、そこは米軍であり、海兵隊でありますから、
正面からぶつかり、これを火力と力業で粉砕するまで戦ったのです。
この点は約40年後、1980年代に入って元空軍大佐のジョン・ボイドによる
作戦速度の優位で弱点を突く戦いが導入されるまで、海兵隊のやり方であり続ける事になります。

さて、といった基本的なところを確認したうえで、いよいよ見学に入りましょう。


NEXT