■アメリカ陸軍のちょっと恥ずかしい機体たち



前回書いたように、アメリカ陸軍は開戦前に地上攻撃機には双発機を使う、という
妙な決定をしてしまっていたため、開戦時にまともな地上攻撃機がありませんでした。

例のA-17はまだ現役でしたが、1933年初飛行のノースロップ ガンマを原型とする機体は
さすがに時代遅れで、実戦で使えるとは思えず、こりゃマズイ、という事で、
海軍のダグラス SBDドーントレス急降下爆撃を急遽採用、A-24 バンシーと名付けたのがこれです。

が、ドーントレスはやや速度が遅く、しかもこの手の機体の運用になれてない陸軍は、持て余してしまいます。
とりあえずアホのマッカーサーが居るフィリピンに押し付けてしまえ、と送り出すんですが
到着前に日本の侵攻にあって受け取ることができず、最後はオーストラリア空軍に押し付けられて終わります…
ただし一部は本土に残って練習機、標的曳航機にされました。
それでも改良型のB型を含めると900機を超える機体が陸軍に納入されてるんですけどね。

ちなみに展示の機体、現地案内板、博物館のホームページ、ガイドブックの解説、
どれにも機体の由来が出てない、というこの博物館にしては珍しい機体です。
A-24、大戦末期には練習機、標的曳航機として本土で使われてたので、その生き残りじゃないかと思いますが…。



ベルP-39Q エアラコブラ。
大戦時初頭にアメリカが導入して来た新型戦闘機3姉妹の中の1機です。
(ロッキードP-38、ベルP-39、カーチスP-40の3機種。後にリパブリックP-47,ノースアメリカンP-51が加わる)
量産開始は1941年1月ころから始まっており、アメリカ開戦時には前線配備が始まっていました。

ただし第二次大戦時のアメリカ戦闘機の中で最も出来が悪かった子で(涙)、
当時、現金払いでこれを最初に受け取ったイギリス空軍は
あまりの性能の低さに激怒して、速攻でこれをアメリカに返品してしまいました。
(これが後にアメリカでP-400となった。機種の37o機関砲が20oになってるなど一部がP-39とは異なる)

ベル社にとっては初めてのまともな単座戦闘機で、
コクピットの後ろ、機体中央の重心位置にエンジンを置く、という野心的な設計でした。
これによって運動性の向上と、機体前部への重武装の搭載が可能になり、
さらに前輪式の車輪によって離着陸が容易で、視界に優れる機体となっています。

ところが当初予定されていた排気タービンの搭載を見送ったため、
その性能はガタオチとなり、アメリカ軍でもほぼまともに使われずに終わる事になるのです。
展示はそんなP-39が事実上の後方戦線、寒冷地のアラスカに送り込まれた状況を再現したもの。
……こういった余計な演出はいいから、キチンと機体を観れるようにしてくれないかしら…。

ただし、なぜかこれを押し付けられたソ連では好評で、現地では大活躍した、とされ、
常に第一線に投入されたまま終戦時でも1000機以上が現役で戦ってました。
実際、ソビエト空軍第2位のエース、パクリューシキン(Покры́шкин
は60機前後とされるその撃墜の内、50機前後がP-39によるものでした。
(ちなみにトップエースはP-39では飛んでないが3位のエースもP-39で飛んでた時期がある)

この辺りは謎なんですが、P-39のラジエター用空気取り入れ口、主翼つけ根の穴は
寒冷地対策として冷えすぎないようにシャッターが付いてたので、
こういった辺りがソ連で受けたのでしょうか。
(これがアラスカに送り込まれた理由の一つでもある)

展示の機体は1942年ごろ、アリューシャン列島のアダック島に展開された部隊の塗装だそうな。
となると1944年から導入されたQ型では変で、本来ならD型あたりのはずですが、
あくまで塗装だけで、機体はQ型のまま改造はされて無いようです。
ちなみに1966年にカリフォルニアの会社から寄贈された機体だそうですが、詳細は不明。



そのP-39のエンジンと回転軸、及びプロペラと機首部の37o機関砲を抜き出した展示。
コクピットの後ろに積まれたアリソンV1710エンジンから長い回転軸(シャフト)を通して
機首部にある減速ギアの入った減速機へ繋ぎ、その先でプロペラを回してます。
(普通に直結すると回転が速すぎてプロペラ先端が音速を超え衝撃波が発生、
推力が出なくなるので、減速ギアをかまして減速する)

このためプロペラ直後に大きな空間ができるので、ここに37o機関砲という化け物みたいな兵装と、
前部主脚を搭載してしまったのがP-39の特徴となっています。
展示では37o機関砲の弾倉が透明カバーに置き換えられてるので、その弾丸の大きさもよく判るかと。
30p以上の長さはあり、500mlペットボトルよりずっと大きなサイズの弾でした。
当然、その搭載弾数も限られるてますから、実戦装備としては微妙な部分は残ります…。
ちなみにQ型はさらに機首の上に12.7o機関砲2門も積んでるので、相当な重武装となってます。

展示にはエンジンの値段も書かれており、V-1710-85で11,810ドルだったそうな。
この博物館の説明ではP-39Qのお値段は46,000ドル、との事なので、
機体価格の約1/4はエンジンのお値段、という事になります。
エンジン、意外にいいお値段なのです。



そのP-39の発展型がこのベルP-63Eキングコブラ。
一見するとP-39によく似てるのですが、事実上、新設計に近い機体です。
主翼なんて層流翼にされてしまってます。

こういった似たような形状で新たに作り直しちゃう、というのはP-51のH型も同じような機体でしたから、
アメリカ陸軍の得意技なのかもしれません。
空力的にすでに実績のある形状を踏襲する、という事なのか、と思いますが、
P-39に実績があったかというと極めて微妙で、ベル社が何を考えていたのか、よく判りませぬ…。

当然、アメリカ陸軍はほとんど興味を示さず、少数を採用したものの、練習機や連絡機、
そしてこの機体のような射撃練習機(後述)にしてしまいました。
このため、実戦には一度も投入してません。
それでも3300機近くが造られてるのは、レンドリース機として、P-39大好きだった
ソ連に大量に送り出されたからで、2450機以上が引き渡されてます。
他にも意外に知られてませんが、1944年夏のパリ解放後のフランス軍にも引き渡されており、
これが300機前後あったようです。
ただし、こちらは実戦参加は間に合ってません。

でもって、なんか変な色で、コクピット周りも妙な感じの展示の機体は、
ピンボール作戦と呼ばれた爆撃機の機銃手訓練計画に使用された機体でした。
これは全武装を外して新たに装甲を増設、コクピット後部も装甲で覆ってしまった機体で、
機体には振動探知のセンサーが付けられていました。

対して爆撃機の銃座にはプラスチック製の弾頭を打ち出す7.62o機関銃が積まれ、
射撃訓練として、この機体を撃ちまくるのです。
プラスチックの模擬弾頭がこのP-63の機体に命中すると振動センサーが感知して
プロペラハブ(37o機関砲を取り外した孔の中)、翼端の上面、さらには胴体についてる
ランプが派手に点灯し、命中を知らせます。
これがピンボールゲーム機を連想させるため、ピンボール計画と呼ばれたようです。
第二次大戦末期にアメリカ軍が採用した銃手の練習法で、戦後まで続けられ意外に効果があったとされます。

ただし展示の機体は1958年にベル社から寄贈されたP-63Eとされてますから、
本来ならピンボール作戦とは縁もゆかりもない機体です。
(ピンボール作戦用にはA型とC型から改造されて、RP-63A/Cとされた)
実際、本来ならあるはずの点滅ランプが全部付いてません。
なんでわざわざこんな特殊な状態に改造して展示しちゃったのか、正直、よく判りませぬ…。


NEXT