■敵は日本の時代



展示は真珠湾攻撃からスタートですから、当然、日本のゼロ戦もあり。
真珠湾当時の初期の機体、A6M2 ゼロ戦21型です。

開戦当時の21型は結構珍しく、貴重な展示ではあるんですが、戦後大分経ってから、
パプアニューギニアで回収されたボロボロになった機体から改修されたもの、
というか事実上、作り直しちゃったもので、資料性はあまりありませぬ。特に書くことも無いです。
雰囲気を感じるだけなら、十分よくでてきてますけどね。

とりあえず2004年から展示が開始されてます。



でもって真珠湾の次のアメリカ陸軍の活躍といえば、
1942年(昭和17年)4月のB-25によるドゥーリトルの日本爆撃(Doolittle Raid)ですね。
ハルゼー率いる機動部隊の空母、USSホーネットから
ドゥーリトル率いる16機のB-25が離陸し東京、横須賀、名古屋周辺を爆撃、
そのまま中国本土とソ連領(1機のみだが)へと飛び去ったものです。

日本爆撃中に撃墜された機体は1機も無く、
中国に着陸、あるいは不時着、空中脱出(ドゥーリトル本人はこれ)した搭乗員80名の内、
8名が捕虜となり(内3人が銃殺、1人が獄中死)、3名が不時着、脱出時に死亡したものの、
それ以外は全員、生還し、これほどギャンブル性の高い作戦としては異例の成功となってます。

展示の機体はそのドゥーリトル爆撃の仕様に改装されたB-25Bミッチェル。
このミッチェルの名は前回見た、あの戦略爆撃の始祖、ミッチェルさんから取られてます。

実際の作戦に参加した機体は全機失われてますから、この機体は1958年に、
ノースアメリカン社が“ドゥーリトル仕様”に改造し、この博物館まで飛行させて寄贈したものだとか。
9800機近く造られた傑作双発爆撃機ですが
、B型は150機前後しか作られてないはずで、極めて貴重なんですが、
残念ながら実際は、後期のB-25Dからの改造機となってます。
(厳密には後に練習機にされてRB-25Dとなっていた機体からの改造)

ちなみにドゥーリトル空襲は空母から陸軍の双発爆撃機が離陸して
中国本土まで飛行するという無茶苦茶な計画だたため、
従来の機体から以下のような改造が施されてました。
主に空母甲板の短距離で離陸するための軽量化と、長距離を飛ぶための燃料追加が目的です。

■B型にあった引き込み式胴体下機銃座を撤去。
これは重量軽減と同時に長距離飛行用の燃料タンクをそこに設置するため。

■爆弾庫の上部にも燃料タンクを追加。爆弾は2000ポンド(約900s)のみとしたので
場所に余裕があったらしい。これによって燃料搭載量は通常の機体の1.8倍近くになった。
ちなみにこのタンクは一種のゴムでできた袋で、空になると丸めて回収できたらしい。

■主翼前縁部に氷結防止ゴムと解氷装置(恐らくヒーター)を設置。

■無線機を撤去。無線封鎖するので不要となり重量軽減のため撤去したものだが、
その場所には空中で給油するための燃料缶が起かれた。

■重量軽減のため尾部銃座の機銃を降ろし、ダミーの黒い木の棒を付けた。

■あくまで“イヤガラセ爆撃”であって爆弾命中は求められないので、
当時の最新装置にして最高機密のノルデン式爆撃照準器も降ろした。
これは万が一、不時着して日本側に回収されるのを恐れたため。

といったところです。
注目は残された機銃で、機首部の1丁と、背中の上の銃座2丁、計3丁の12.7oだけとなってます。
つまり下向きに撃てる機銃は無いのです。
機首部の銃は一応マイナスの俯角、やや下向きにもできますが、基本は正面方向の対空用です。
つまり、日本でよく見られる、ドゥーリトルの爆撃隊からの機銃掃射で死者が出た、
子供が狙い撃ちされて犠牲になった、という話はかなり怪しいのです。
あれはむしろ、日本側の対空砲火が落下して当たったものじゃないか、と思われます。
(上に撃った弾は当然、落下してくるのだ。空気抵抗によって発射時より速度は落ちるが、
生身の人間を殺すくらいなら十分な威力を持つ)

ちなみに、部隊が空母USSホーネットから発進したというのは
当時は最高機密とされたため(日本側は空母から発進したのは知っていたが)、
ルーズベルト大統領が記者団からどこから飛んで行ったのか、と聞かれた時、
当時の人気小説に出て来る架空の楽園の名を引用し、「シャングリ・ラからだと」と答えてはぐらかしました。

でもってアメリカのエセックス級空母の多くは歴戦の激戦地の名を付けてるのが多く、
東京空襲を記念して命名されたのがCV-38、USSシャングリ・ラでした。
なんで小説に出て来る架空の土地のシャングリア?と思われる事が多い空母ですが、
あれはドゥーリトルの東京空襲を記念してるのです。



展示にあったマネキン。
右のやや背の低い(といってもアメリカ人としてはで私と同じくらいなんだけど)のがドゥーリトル。
当時は中佐で、退役して予備役にあったのを呼び戻されて復帰したばかりです。
前回チラッと書いたように戦前のエアレースで活躍、あのシュナイダー杯でも優勝してる彼はアメリカでは有名人でした。

よって軍としては士気高揚の宣伝効果を狙って呼び戻したのだと思われますが
(開戦直後の1942年1月に本人の希望もあって現役復帰)
この人も只者ではなく、この東京空襲の計画、立案を行った上に自ら操縦する一番機で離陸すると、
(空母の最前列、すなわち一番滑走距離が短い困難な条件の機体を自ら操縦したのである)
無事に任務を達成、生還します(ただし本人はB25を全機喪失したので作戦失敗と思ってたらしい)。

この功績で後にどんどん出世し、爆撃直後の7月に大佐を飛び級して准将として将軍(General)になると、
最終的には1944年3月には中将にまでなり、第8空軍によるドイツ本土爆撃を指揮することになります。
ドイツを焼け野原にしたのは、この人と、キチガイ将軍、ルメイのコンビによるのです。

予備役から中佐で復帰し、その後約2年で、大佐(飛び級で就任せず)、准将、少将、そして中将まで
一気に就任してしまった訳で、おそらく世界の軍人出世速度新記録じゃないでしょうか…。
(ナチスドイツの政治的な理由で元帥になった白いデブなどは別だが)
少なくとも予備役中佐が中将まで出世したのは、英米軍、日本軍では他に例はないはずです。
スゴイ人なんですよ、ドゥーリトル。



ちなみにこの再現機体、よくできてまして、爆撃手の席にはキチンと棒と板で造られた簡易照準器が付いてます。
(一番下の窓枠の奥にあるのもの)
これはわずか20セントの材料で組まれたあくまで気休めの照準器ですが、
アメリカではドゥーリトル爆撃の象徴として紹介されてる事が多い装置です。



胴体上部の銃座と機首の銃に装填するための12.7o弾を準備するマネキンの皆さん。
アメリカ空軍博物館の展示らしく、きちんと曳光弾(Tracer)、鉄鋼弾、通常弾が混在してます。
弾頭が赤いのが燃えながら光って飛んでゆく曳光弾で、これで自分が撃ってる弾がどっちに飛んでゆくのかを見ます。
灰色のが徹甲弾、黒いのが通常弾だと思いますが、これは逆の可能性もあり。
ちなみに割合は5発のうち1発が曳光弾、あとは2発ずつ、というもののようです。



でもって、これがドゥーリトル爆撃では降ろされてしまった有名なノルデン式爆撃照準器。
もう何度も紹介してるので、詳細は省きますが、単に照準するだけでなく、
目標を設定すると自動操縦に切り替えて飛行機の操縦までやってしまうスゴイ装置なのです。


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