■新時代の航空戦なのだ



1920年代に高度14000mとかは人類初のお出かけでしたから、
行って見たらビックリするほど寒くて驚いたのでした。氷点下数十度でコクピットはむき出しの時代ですからね。
まあ、当時の機体で届いた6000m前後でもそうとう寒いですから、予想はしてたと思いますが。
その結果、こういった防寒具が造られたのでした。ここに酸素マスクが加わるわけです。

左上のは後に1940年になってからNAAから贈られたコリア― トロフィーの記念額。
コリア―トロフィーは年に一度、アメリカの航空宇宙の発展に貢献した人、組織に贈られるもので、
この年は排気タービン過給器による高高度実験に対し、陸軍の研究部隊と、
GE社のサンフォード・モス(SANFORD A. MOSS)に対して贈られたもの。
…日本ではほとんど無名の排気タービンの神様、モスですが、いつか記事にしますと予告してから
そろそろ10年が経ちますね…。ええ、まあ、いずれ、きっと…



戦略爆撃の鬼、アメリカ陸軍航空隊が最初に本格配備した国産大型爆撃機、マーティンMB-2爆撃機。
まあ、本格配備と言っても戦争終了後、予算が無い時代ですから130機ほどですが、
当時としてはこれだけの大型機を130機もそろえたのは大したものだったのです。
ただしなにせ仕事が無い時代なので(涙)、いろんな会社に仕事を割り振る必要があったため、
開発社のマーチン社は20機造っただけで、あとはカーチスなどの別会社に発注されてました。
ちなみに、これだけ大型ながら、ほぼ完全に木造、羽布張りの構造となっています。
もはや匠の技の世界で造られた機体です。

ついでに、どうも正式な名称はNBS-1で、陸軍が与えた形式番号がMB-2らいしいんですが、
両者の違いはどの資料を見ても納得がゆく説明がなく、正直、よく判りません。
ここではより通りのいいMB-2としておきます。
ちなみに2というからには1もあったんですが、こちらは第一大戦終了の月に完成したため、
まともに生産される事なく終わったようです。
その発展型が、このMB-2でした。

1920年から配備が始まった双発爆撃機で、エンジンは例のリバティーL12です。
ちなみにこの機体の前にアメリカ陸軍が主に使っていたのは、前回見たカプロニ爆撃機でした。
(ほかにイギリスのハンドレイページの機体もあったが)
アメリカの戦略爆撃機は、ドゥーエが居たイタリアの機体から始まってる、というのは何か暗示的です。

ちなみにMB-2、武装として5門の7.62o機関銃を積んでるらしいのですが、乗員は4名。
…戦闘機のような前方固定銃があるのか、と思ったんですが、それは見当たらず。
この辺りは謎としておきます。
肝心の爆弾搭載量は3000ポンド、1.36トンと当時としてはかなりのものでした。

ちなみにこの機体もレプリカで、2002年に残された図面から復元されたものだとか。



この機体は主翼が後ろに折りたためる、という変わった構造を持ちます。
これは全幅22.5mと当時としてはかなりの横幅で格納庫に入らず、そのためこうした構造になったのでした。
ついでによく見るとこの機体も垂直尾翼が2枚で、安定性の確保と同時に、これも舵で曲がる機体だった気がします。

でもって、このMB-2もアメリカの戦略爆撃開発史上、極めて重要な役割を担った機体でした。
あのアメリカ戦略爆撃の始祖、ミッチェルが提案したB計画(Project B)と呼ばれる実験で
当時、ほぼ不沈艦だと思われたドイツの戦艦を、爆撃であっさり沈めてしまうのです。

1921年7月に、2000ポンド爆弾(約900s)を抱えて飛び、
第一次大戦の賠償としてドイツから受け取っていた戦艦、オストフィースラント(Ostfriesland)を沈めてしまったのでした。
世界で初めて、航空戦力が戦艦ですら撃破できる、という事を証明した実験で、
後に日本が真珠湾攻撃を行う20年も前の事になります。



アメリカ陸軍の航空部隊と海軍は不思議な関係でした。
1920年ごろ、ミッチェルが最初に海軍にケンカを売って以後、犬猿の仲となるのですが、
第二次大戦中はオーストラリアからフィリピンに侵攻したがったアホのマッカーサーを無視して、
日本に直行したい海軍と、マリアナ諸島にB29の基地が欲しかった陸軍航空軍は
タッグを組んで統合幕僚会議で主導権を握りその作戦を実行して行きます。
(キングとアーノルドが手を結べば残りはマーシャルだけで(レイヒは立会人に過ぎない)多数決で勝てる)
が、結局、戦後に核兵器を握って陸軍から独立した空軍が、再び海軍不要論を展開、犬猿の仲に戻るのです。

とりあえず最初の衝突となった1920年は、ミッチェルが海軍にケンカを売ったものでした。
ヨーロッパと違って孤立した西半球にあるアメリカ大陸に
空軍は不要論が出始めたのに不安を感じた彼が、むしろ海軍こそ不要だ、
なぜならアメリカに侵攻しようとするあらゆる軍艦は航空機で撃退できる、
戦艦1隻の予算で1000機の爆撃機が造れるから、これでアメリカの防衛は完成する、としたのです。

これは暴論というか愚論であり、アメリカの通商を守るのに、沿岸警備だけではどうしようもないのです。
当時、560マイル、900q以下(つまり片道450q)の航続距離しか持たない航空機では役に立ちません。
当然、天候の影響も大きく、空軍が海軍の代わりになるのは無理があります。

ところが海軍もまた馬鹿で(笑)、この論点でミッチェルを迎え撃たず、
いや、航空機で戦艦は沈められない、航空機は兵器として役に立たない、という論点で反論してしまいます。

海軍はそれを立証する、として1921年2月に旧式戦艦USS インディアナを標的に
海軍航空機でこれを爆撃する、という実験を行いました。
ドレッドノート世代以前の旧式戦艦相手の実験であり、最終的にこれを沈める事が出来なかった、
という結果報告が発表され、海軍は自説が正しかったとするのです。
ところが実はこの時使われたのは実弾ではなく、砂の入った演習用爆弾だったことが、
後に新聞にすっぱ抜かれてしまいます。

これで面目を失った海軍はミッチェルのB計画の提案を受けざるを得なくなり、
1921年7月にドイツの戦艦を使った爆撃試験を行うことになったわけです。

それに先立って同じようにドイツから譲り受けていた駆逐艦、軽巡洋艦を使った実験が行われたのですが、
両者ともあっさり沈められてしまい、ミッチェルは自分の主張の正しさに自信を深めます。
最終的に7月20日、21日に対戦艦の実験が行われたのですが、初日は荒天で上手く行かず延期となり、
翌日の実験で、より小型の1100ポンド爆弾(約500s)を搭載したMB-2による爆撃が最初に行われました。
これで3発が命中したところで一度実験は中断され、被害状況の視察が実施されます。
(まだ爆弾投下してない機体が9機あったが中断となった)

ここでまだ沈没の恐れなしとされて実験は続行、いよいよ2000ポンド(約900s爆弾)の投下となりました。
ちなみに爆撃には旧式のハンドレーページの機体も2機参加してましたが、
攻撃は6機のMB-2のみで行われ、全機が爆弾を投下した結果、4発が至近弾となります。
直撃は一発も無かったとする資料が多いですが、
上の解説板の写真のように、黒い煙しか出てない写真が残っており、
明らかな直撃弾が少なくとも1発はあったと見られます。
最終的に爆撃から22分後、オストフィースラントは沈没してしまいました。
(沈没直前になぜか待機していたハンドレーページ機がトドメの1発を投下したらしい)

こうして当時は限りなく不沈に近いと思われていたドレッドノート世代以降の戦艦を
航空攻撃だけで沈めてしまい、世界に衝撃を与えたのでした。

ただし、のちに海軍が主張したように、停止した艦であり、回避運動をしてない、
対空砲火が無かった、さらに損害を受けた後、無人なので浸水防止の処置が艦内で取られてない、
といった点も事実で、水平爆撃で行動中の戦艦を沈めるのは、現実には無理でした。
実際、水平爆撃で戦艦相手に命中弾を出したのは第二次大戦中のマレー沖海戦で
日本海軍機が成功したくらいで、事実上、不可能に近いものです。
(誘導爆弾を使ったドイツ軍は反則とする)

が、それでも航空攻撃の爆弾だけで沈められたのは事実で、これは急降下爆撃が実用に入り、
さらに雷撃機が加わる事で現実的な問題になって行きます。
その結果が太平洋戦争の空母の活躍であり、その事を証明したのが、
皮肉にも戦略爆撃を目指していたアメリカ陸軍だった、という事になります。


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