■艦の名はU505

さて、産業科学の名の下に展示されてるUボート505を今回から見て行きますが、
最初に艦の解説とUボートの基礎知識を少しやって置きましょう。
その方が読んでいて理解しやすいと思うので。

ちなみにこれ、ドイツ製の船ですが、1989年に、
アメリカの国定歴史建造物(National historic landmark)
すなわち内務省が選定する歴史遺産の一つに指定されてます。



U505はUボートの全盛期の1941年5月に竣工、1941年8月にドイツ海軍に就役した
遠洋型Uボート、IX(9)C型の中の一隻です。
どちらも日本&アメリカ参戦前ですから、古参の艦と言っていいでしょう。

Uボートは基本的に順番に(建造順か計画順かは不明)数字を振って行くので、
理屈の上ではこのU505は505番目のUボート、という事になります。
ちなみに初期のUボートにはドイツの地名を割り振った名称もあるのですが(全艦かは不明)
これが公式なものなのかイマイチわかりません。
少なくとも開戦後はこういった命名はやってないようですが。

ついでに秘密維持のため、艦名、艦番号を船体に記入する事を禁じられており、
このため開戦後のUボートにはこれらの表記がありません。
が、画一的な量産艦のため、港に停泊中にどれが自分の艦だか判らなくなる(笑)、
という借りたばかりのレンタカーを巨大駐車場に停めた悲劇(体験者談)のような事態が起こったようで、
このため、各艦には関係者だけがわかるような独自のマークを描き込むことが許されてました。
ただし黙認だった、なので本来は出港時に消すことになっていた、
とされますが、写真などを見ると、そのまま出撃してる艦も多いようです。

これが有名なプーリーン(Günther Prien)艦長のU-47の司令塔の雄牛の絵、
クレーマー艦長のU333における三匹の小魚の絵などの艦橋横のエンブレムです。
ただし、これは全艦にあったわけではないようで、逆に何も無いのが俺の船、
みたいな安易な識別手段もあったのかもしれません。
(ちなみになぜかアメリカ海軍は鹵獲Uボートの艦橋にデカデカと番号を書くのを好んだため、
これがあるか無いかで、米軍の鹵獲艦の写真かどうかがわかる)

IX(9) C型は全長76.8m、排水量(全重量)が浮上時で1120トン、
潜水時で1230トン(潜水時は海水を取り込むので重い)、
そして速度は浮上時で18.3ノット、水中で7.3ノットとされます。
(現地の展示解説の数字はVII(7)型のもので間違ってるから注意)

大きさの割には意外に軽い事、そして速度は水上でも20ノット(37q/h)以下と絶望的に遅い事を知ってください。
この低速では、駆逐艦や巡洋艦に見つかったら絶対に逃げ切れない、というのが判るかと。
意外に軽いのは船体が細いからで、これは海上で正面から見た時、見つけにくいよう、狙ってそうしてます。

でもってIX(9)型Uボートの最初のA型では最大航続距離でも20000q前後だったのですが、
このC型では22000qまで延長されており、
これはドイツからアメリカ本土南岸沖まで楽に到達出来る事を意味します。
さらに戦争中盤から補給用の改造Uボート、ミルヒクー(Milchkühe/乳牛、母牛)が就役すると、
そこから補給を受けて、それこそ何カ月もアメリカ沖で活動を続けることが可能となりました。
(ただしミルヒクーのおかげで通常のVII(7)型もアメリカ沖に行き始めたので、
補給の中心は、燃料も魚雷も少ないVII(7)型だった、という話もある。
ちなみにドイツ海軍で最初にミルヒクーから補給を受けたのはVII(7)C型のU-333だと言われており、
これは名著「Uボート・コマンダー」の筆者、ペーター・クレーマー(Peter-Erich Cremer)が艦長)

後にフランスの大西洋岸の基地が使えるようになると、
IX(9)C型は、はるか極東のシンガポールまで到達可能な能力を持った事になります。
このため日本にドイツ海軍から贈られた
(お前らこれで少しは勉強しろよ、という皮肉の意味が多分に強かったが)
Uボート二隻もこのIX(9)C型で、両艦は自力航行で日本までやって来ました。

武装は前部の魚雷発射管が4門、後部が2門、対空砲として20o機関砲2連装が2門、
さらに単装の37o機関砲が一門ついてますが、射撃管制装置が無いし、まあ、気休めですね。
そもそも20oじゃ敵機が攻撃態勢に入る前の距離まで弾は飛びませんから防御にならず、
37mmでも、高度2000m辺りで半径数qの円を描いて味方艦を呼び寄せるために貼りついた
偵察機に対しては、なんら成す術がないのです。
ただし本来IX(9)C型には前部甲板に、10.5p砲が対艦、対空用に積まれていたはずですが、
このU505では搭載されてません。
最初から無かったのか、途中で外してしまったのかは不明。

でもって、ドイツのUボートがなんでシカゴで産業科学の名の下に展示されてるのか、というと、
U-505は第二次大戦中に、アメリカ海軍によって鹵獲された艦だったからです。
その鹵獲作戦の指揮官が自己顕示欲の強い、シカゴ出身の海軍の将軍であり(作戦時は大佐)、
戦後、産業科学の名の下に(笑)潜水艦の展示をやりたい、と思ってた
この博物館に対し、U-505を海軍から払い下げさせたのでした。



なのでこんな展示が、奥の方にあったりします。
このU-505鹵獲作戦を行った22.3機動班(Task group22.3)の模型ですね。
かなり出来はいいもので、あ、護衛空母ってこうなってるのね、という発見が結構ありました。

機動班(Task group)は機動部隊(Task force)の下の艦隊単位であり、
これが複数集まって機動部隊になります。
22.3という場合、第22機動部隊に属する機動班、という事なんですが、
第二次大戦中のアメリカ海軍に第22機動部隊というのは実在しなかったので、
どうもこれは、単に対潜小規模艦隊として運用された機動班らしいです。

旗艦となったのは約50隻(笑)ほど量産されたカサブランカ級の護衛空母、USSガダルカナルで、
これは連合軍のおそるべき量産輸送船、リバティーシップを生み出したカイザー社の製造でした。
よって防御装甲はほぼない、という恐ろしい船で、もし先手を取られてUボートから雷撃されると、
一発でも当たればサヨウナラ、という可能性が高いのでした。
このため、対潜任務の旗艦ながら、Uボートが発見されると、真っ先に逃げ出す、
という不思議な軍艦で(笑)、後は艦載機を飛ばし
(戦闘機のF4Fと雷撃機のアヴェンジャーを積んでる事が多い)
遠くから高みの見物、という妙な戦闘指揮になって行きます。

U505を鹵獲した第22.3機動班はこの護衛空母USSガダルカナルを中心に、
5隻の海防艦(Destroyer escort)からなる艦隊で(よく見る駆逐艦という説明は誤り)、
その貧弱としか言えない戦力からわかるように、Uボートの撃沈(Hunter killer/狩人殺し)専門の艦隊でした。
ちなみにこの手の機動班では指揮官は大佐級が当たっており、
この部隊では、シカゴ出身のギャレリー大佐(Daniel V. Gallery)が指揮官となってます。
先に書いた、後にこの博物館にU-505が所蔵されるきっかけを作る人です。

その鹵獲作戦が行われた1944年6月には、すでにウルトラ作戦によってドイツの暗号は殆ど解読されており、
ドイツ側潜水艦の行動はほとんど筒抜けで、
このため、この部隊も狙い撃ち、という感じでU-505の活動水域にまっすぐ向かってます。
もはやわざわざ撃沈されに行くような状況だったのが1942年夏以降の大西洋だったのです。

この状況をよく理解していながら、無理にでもUボートの出撃を強要し続けた司令官、
ドイツ海軍のデーニッツは、この点において夕撃旅団認定、最低最悪の軍人の一人に指定されております。
ヒトラーの後継者で在り、ドイツの敗北を知りながら、
その降伏直前まで、無意味にUボート部隊を出撃させてますから、
もはや一種の狂人でしょう、この人。



なので、ここの展示でもその鹵獲作戦が取り上げられてます。

これは沈みかけたU-505に最初に乗り込んだ海防艦USSシャトレインの乗組員たちの写真。
この乗り込み部隊を指揮したデービッド中尉は後にアメリカ軍における最高位の勲章、
名誉勲章(Medal of honor)を受賞してます。
これは大西洋側で活動していたアメリカ海軍では唯一の受賞者だったそうな。
この写真展示だと一番上で、一番小さく載ってる、一番老けてるのがデービッドさん。
…微妙に、扱いヒドイなあ。

ちなみに作戦が行われたのは大西洋と言っても、遠くアフリカの西岸沖280qの地点でした。
1944年6月4日、機動班の中で北東の位置に居たUSSシャトレインがソナーに反応を得ます。
出撃前の段階でできたら鹵獲しよう、という事を機動班司令官のギャレリーは既に考えていたようですが、
この辺り、どうもU-505鹵獲が上手く行ったのでこればかり記録が残ってますが、
実際は鹵獲しようとして失敗しちゃった他の例もかなりあったんじゃないかなあ…
これが初めて、つまり最初でいきなり成功、とは思えないんだよなあ…

さらにちなみにアメリカ海軍が海上で戦闘中、敵艦に乗り込んでこれを強奪したのは、
例のナポレオン戦争のどさくさに紛れて北米のイギリス軍をやっつけちゃえ、
とアサマシイ魂胆で戦争を始め、その結果、首都ワシントンDCが陥落しちゃった(涙)
1812年戦争以来(鹵獲があったのは1815年)だそうな。
このため、アメリカ海軍全体がちょっと大興奮になったとか。

で、この時は航空機からの機銃掃射などによりU505は潜航不能となり、
間もなく浮上してくると、乗り組員は沈没用の注水バルブを開き、
さっさと退艦してしまったのでした。
この時、ドイツ側の犠牲者は1名だけ、エンジンなども完全に生きていた状態ですから、
ドイツ側の退艦はどうみても早過ぎで、やはり既に士気が落ちてたんじゃないでしょうか。

で、これを目撃したアメリカ側はもっとも近くに居たUSSシャトレインから、
先に見た鹵獲チームがボートで乗り込み、
沈みつつあったU-505の艦内に突入、幸運にも即座に注水バルブを発見でき、
急いでこれを停めた事で、沈没を免れます。

ただしスクリューを停める事ができず、かつ操舵もできなかったので、
曳航しようとU-505に近付いたUSSシャトレインは
横から体当たりを食らって艦首に大ダメージを受けました。
このため、急きょUSSガダルカナルが曳航を担当、
途中で曳航艦が来るまでU-505をアメリカに向けて引っ張って行ったのです。
最終的には3000qを超える距離を曳航され、U-505はバハマに入港したのでした。

ただし途中で一度、また沈没しかけたので、中に居たアメリカ海軍の乗員が
あわてて艦の重量物を全部捨ててしまったそうで、
このため、銃などの外部の艤装のほとんどはアメリカ到着前に破棄されてしまってます。
なので当然、展示で載せてあるのは全て複製品、あるいは別の所から持ってきたものです。

ちなみに、1944年の段階ではすでに旧式艦とも言っていい
I X(9) C 型をわざわざ鹵獲したのは、主に艦内の最新暗号コード表などの書類を強奪するためで、
これさえ奪ってしまえば、後はオマケみたいなものだったと思われます。
そもそも、ここの展示では完全に無視してますが、すでに1941年8月に、
イギリス海軍はVII(7)型のUボートを鹵獲に成功、それどころか
慢性的な潜水艦不足に悩んでたイギリス海軍はこれを再生して
HMSグラフ(Graph)として対ドイツ戦に投入してますから(笑)、
この世代のUボートの構造は完全に知られてました。
秘密なんてほとんどないんです。
この辺り、どうもアメリカ海軍の変な意地、みたいなものがあったんでしょうかね。

ちなみにイギリスののHMSグラフは、そのUボートっぽい外見、
というかUボートそのものの(笑)外観を生かして、
フランス沿岸のドイツ機(Fw-200だ)が飛来する海域でパトロールをやってました。
でもって1942年10月21日、彼らはすぐ側を浮上航行するUボートを発見、これを雷撃してます。
このUボート、あのペーター・クレーマーのU-333でして、
どれだけ色んな体験して生き延びてるんだ、クレーマー…。

ちなみにこの時、HMSグラフではU-333を撃沈した、として報告してるんですが、
当然、これは誤認で、クレーマーは冷静に雷撃の航跡を発見、これを回避してたのでした。
ちなみにこの時のU-333はコルベット船の体当たりを受けて満身創痍、
すさまじい騒音をまき散らしながらの航海だったそうで、それで簡単に見つけられたようです。


■Image credits: Courtesy of the Naval Historical Foundation, Washington, DC. U.S.
Naval History and Heritage Command Photograph.



でもって鹵獲部隊の司令官ギャレリーは、鹵獲後にU-505の艦橋に登って記念写真まで撮ってますから、
どうも何か必要のない野心、みたいなのを感じなくもなく…。
ちなみに真ん中に居るのが艦隊司令官のギャレリー大佐で、
この人、後でわざわざ自分一人の記念写真も撮影させており、どうも微妙に安っぽい男、という印象が。
で、先にちらっと触れたのように、このギャレリーはシカゴの出身で、
最終的には准将にまで昇進、将軍待遇で退官したため、多少は無理が言えた人なので、
戦後に標的艦として処分されそうになっていたU-505をこの博物館に引き取らせたのでした。

ただし戦後、なにせ金のない時代の海軍ですから、その運送費を持つなら譲渡していい、
という条件で産業科学博物館はこれを譲り受け、当時で25万ドルという大金を負担、
五大湖経由で、このシカゴまで運び込んだのでした。
ついでに、今も昔も、博物館横は砂浜なので、ここに材木でレールを敷いて
引き上げる、という豪快な陸揚げをやってます。
そして1954年から、この博物館の所有物として、展示されてるのです。

ちなみに向かって左に居るのは、例の乗り込み部隊指揮官で、名誉勲章をもらったデービッド中尉。
彼の居心地悪そうな態度も、なんかギャレリーはダメなんじゃないの、という感じを後押ししますね…。


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