■次は城だ



でもって、朝に場所を確認していた浜松城公園のバス停で降りる。
次は城だぜ、という事ですね。

ちなみにこの段階ですでに2時を回っており、早朝の5時過ぎに自宅で食事しただけのこの日、
そろそろ食事にしたいな、と周囲を見回したんですが、
残念ながらそういった店は全く見当たらず。

うーん、仕方ない、とりあえず城跡の公園に向かいますか。



駐車場の奥に見えてる緑地が、その城跡公園らしい。
こちら側に比べると、微妙に高台になってるように見えます。



そこにあった案内図。

江戸時代末期の地図と並んで現在の公園の地図が出てましたが、
これを見る限り、お堀すら残ってなく、明治期にほとんど破壊されてしまったようですね、どうも。
あまり見るものはないな、という気もしますが、せっかく来たのだから、軽く見て行きましょう。

ついでにヤング家康時代の浜松城と、ここに出てる江戸期の浜松城はそもそも別物で、
ヤング当時はもう少し東に城があったようです。
そうなるとヤング家康当時の状況を知るのはほとんど不可能に近く、
まあ、雰囲気を楽しんでおくか、という感じでしょうか。

以下、脱線。
その死後、東照大権現と諡(おくりな)され神格化された徳川家康は、
その名前の通り、とにかくその活動拠点が東に向かう人でした(笑)。
ここで最初に乗せた地図を見て見ましょう。
家康の生涯の本拠地は、岡崎城→浜松城→駿府城→江戸城と移動しており、
すなわち徳川家本部は、ひたすら東に向かってます。



そして死んだ後、神様になってからは、さらに東の日光にまで
連れていかれてしまったわけで、どんだけ東が好きなのよ、という人ですね。
(ちなみに日光の地を選んだのは本人の意思だ)
時代が違えば、東の隊太平洋を渡ってハワイかカリフォルニアで
引退生活してたんじゃないか、という気もします。

ちなみに、これは信長作戦本部が清洲城→小牧山城→岐阜城→安土城と
明確に北西の京都目指してにじり寄って行ったのに対し、
明らかに逆行してます。

秀吉の場合は本能寺の後、京都の南西、山崎に城(というか砦)を築いた後は、
一度、大阪に入るものの、その後は京都の中心にある聚楽第、
そして京都の南東にある伏見城と、常に京都周辺をウロウロしてました。
(ちなみに秀吉自身が大阪城に居た期間は、意外に短い)

これらに対し、むしろ中央から距離を置こう、というのが家康の行動なのです。
まず徳川家の本拠地、岡崎から浜松に移ったのは、
甲府に居る信玄の侵攻に対抗するため、としてますが、
これ、織田信長の居る尾張からも遠ざかることになるので、
おそらく、織田家と距離を置きたかった、という部分もあったはず。

当時、姉川の戦いなどで、信長からいいようにこき使われてましたからね、徳川家。
実際、この移転には信長は反対で、そういった手紙を家康に書いてもいます。
(家康は本来、もっと東に移動したかったらしいが、妥協して浜松(曳馬)になったらしい)
その後、信長と清州同盟を結んでいた間、すなわち信長存命中は、
常にこの浜松が家康の拠点となりました。

次の駿府に移ったのは本能寺の変の後、秀吉連合軍と対峙した小牧・長久手の戦いの後で、
これもおそらく秀吉から距離を取りたかったんだろうな、と思います。
(ちなみにこの戦いは司馬遼太郎さんが選ぶ戦国合戦ベスト1の扱いを受けており、
徳川家の歴史を書く予定だった「覇王の家」ではこの合戦を解説して燃え尽きてしまって、
以後、連載を放棄してしまった)
ついでに駿府(静岡)は彼が今川家の人質時代を過ごした馴染みの土地であり、
今度は自分がここのボスだ、という過去への復讐にもなったような気もします。

最後、さらに東に行くことになった江戸入りは、秀吉の意向であり、
家康本人の意思ではありませんでしたが、
そもそも鎌倉幕府の記録書、吾妻鏡が大好きだった家康にとって、
関東地区はそれほど嫌な場所ではなかったんじゃないでしょうか。

ちなみに将軍引退、隠居後は江戸から駿府に帰ってるのですが、これが唯一、
彼が西に活動拠点を移動した行動となります。
ただしこの段階ではすでに家督を譲ってるので、徳川家の本拠移動にはなりませんでした。
(大御所政治によって、より大阪、京都に近い駿府で
実質的には死ぬまで家康が政治を動かしていたが)

余談ですが、信長、秀吉、家康の3人は、現在の県で言ったら、全員愛知県生れで、
もし1570年ごろ、ガミラス星人が遊星爆弾の試射を愛知県相手にやってたら、
日本の歴史は大きく変わってしまっていた事になります。

ここら辺りは結局、巡り巡って全て信長が原因ですから、スゴイ人ですね、やはり。



中はこんな感じで、その名の通り、よく整備された公園になってます。



途中で唐突に見かけた銅像。

…朝、目が覚めたら手からハトが生えてて困ってしまった少女像?

昭和の一時期、戦前、戦中の反動なのか、
やたらと日本中で“芸術的な”裸体像が建てられましたが、そんな時代を感じる像でした。
でもね、裸になるだけで芸術になるなら
草津温泉は華のパリの都を超える芸術のパラダイスですぜ。

ちなみにフルチンの幼児像は、皇居があらせませらるる東京都千代田区にもありますし、
大阪のアメリカ村でも見ましたが(個人的にゲルハルト・フルチングラーと命名)、
さすがに幼女を素っ裸にしてしまったのは初めて見ました。
表現の自由を踏まえても、世の中には一線というものが絶対あると思うんですが。

…というか、こんな写真を撮ってる自分、変質者と思われて通報されたどうしようと
ちょっと不安になって速攻で立ち去る。

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