さて、最初は左右前後からざっと見ておきましょう。



まずは左側面から。
主翼からビヨーンと飛び出してるのは機銃ではなく、
飛行中の気流の流れを元に対気速度を計るピトー管。
先端のオレンジのパーツはゴミなどが入らないようにするキャップだと思いますが、
日本陸軍がこんな気の利いたモノをホントに使ってたのかいな、という気も。

で、手前の主翼端を見てもらうと、翼端灯(赤いランプ 反対側の翼は青)、
つまり夜間や視界が悪い時に衝突防止などを目的に点灯させる電灯が、
上面と下面に分かれて付いている、という変わった構造なのに気が付くでしょうか。
普通は翼端の角の辺りに1つだけ付いてるものなのですが、理由は不明ながら、
五式戦ではこれをわざわざ上下に分けて、やや内側の位置に二つ付けてます。

初期の三式戦(キ61)飛燕では普通のに角に一つだけ付いてるだけの翼端灯だったのですが、
どうも一型の後期型、丁型の主翼から、このタイプに変更されたようです。
わざわざこんな移動をする理由が思いつかないのですが、まあ、土井さんの設計ですからね…。

ついでにもう一つ。
この写真はカメラを思い切り上に持ち上げて、胴体の横と同じ位の高さから撮影してます。
この角度から見ると判ると思いますが、
五式戦のプロペラ(ハブ)の取り付け位置は微妙に低いのです。
機体の天地の中心線より、やや下にずれた位置にあります。

これは元の機体、三式戦 飛燕の設計に合わせた結果でしょう。
三式戦は天地がひっくり返ったレイアウトのエンジン、ドイツのDB601を基にした
倒立型エンジンであるハ40/ハ140(ニ型)を積んでいたため、
機体を引っ張る推力中心線が低い場所にある設計となっていました。

五式戦の場合、基本的な機体のバランスをいじらずにエンジンの交換を行ってるため、
あの位置にプロペラ(ハブ)をつけないと、おそらく機体が水平に
飛行できなかったのだと思われます。
ちなみに、図面などから見る限りでは、推力中心線と、機体の天地の中心線の差は
6cm前後のようですが、真横から見ると、もう少しあるんじゃないか、
という印象を受けるくらい、ズレてるのがわかります。

ついでに、機体全体のシルエットで見ると気が付きにくいですが、
エンジンカウルの上についてる気化器用のダクトを別にしてみると、
カウルも下に向かって絞り込まれてるのが判るかと。



今度は右側面を。
これは少し離れたところから、35mm換算でだいたい50mm前後のレンズになるように撮影してますので、
ゆがみ等の少ない、それなりに正確な全体の形状を捕らえているはずです。
(ただし当然、パースは付いてるけども)

五式戦は、ハイバック(ファストバック)キャノピー(Me109のように、コクピット後方が胴体でふさがってるもの)と、
写真のような水滴型キャノピーの二つのタイプが存在するという、日本機、というか枢軸国機としては珍しい機体。

で、胴体後半の上部を取っ払ってご覧のように後方視界を確保した場合、
コクピットのキャノピーによって空気の流れが乱され、
それが後方に向かって渦を造ってしまうようで、この結果、誘導抵抗が発生、速度は低下します。

なので五式戦でも写真の水滴型の方がハイバック(ファストバック)より速度は落ちたと思われますが、
ここら辺りはデータがないので、何とも言えず。
まあ、せいぜい10km/h程度の差だと思われますが。

ただ、この水滴型風防、他の国のものと比べると、なんか間延びしてるような印象が…
後方視界、どうもあまり良さそうには見えませんね。




正面から。
横からだと気が付きませんが、本来は細長い水冷エンジンの機体に、丸い空冷エンジンを積んでしまったため、
妙にアタマでっかちというか、エンジンに対して、胴体が四角張って細くなってるのが判るかと。



次は後方から。
垂直尾翼の方向舵を動かすロッドが下の方で飛び出してるのが判るほか、
水平尾翼と比べる事で、主翼に付けられた上反角がけっこうあるのが判ります。
水平尾翼の後部、昇降舵(エレベーター)の真ん中が欠けてるのは、
方向舵が左右に動くスペース確保のため。

さて、なんで大戦末期にあわてて生産され、海外になんて配備されてないはずの
この五式戦がイギリスの博物館にあるのか、というのは
長い間、謎だったのですが、2005年11月に発売されたイギリスの航空雑誌、
Aeroplaneの記事において、かなりの部分が明らかになりました。

それを参考に書かれてると思われる、この博物館の資料とあわせ、
写真の展示機について、現在わかってる事を書いておきましょう。

この機体は1945年7月末(つまり終戦の約2週間前)に
川崎の各務ヶ原工場で製造されたもので、製造番号は16336。
最初は各務ヶ原基地に配備されたようです。

その後、終戦直前にベトナムのサイゴンに単機の飛行で移動、そこで終戦を迎えます。
なんでこんな時期にベトナムまで五式戦が一機だけ飛んで行ったのかは、
現在でもまだよくわかりません。
ちなみに日本側の資料によると、小牧基地のキ-100(五式戦)を
陸軍航空輸送部 第7飛行隊のパイロットが単機でシンガポールに向け空輸中だったもの
と言われいてますが、それ以上のところは不明。

で、現在でも国際空港として使われているタン・ソン・ニャット飛行場に置かれていたのを
終戦後デカイ顔して植民地であるベトナムに戻って来たフランス人が発見した、とのこと。
間もなく、これを飛ばして来た、Y.キシ軍曹というパイロットも現地で見つかり、尋問したところ、
現地部隊の士気を高めるために飛んできたのだ、と答えたとされます。

ね、謎でしょ(笑)。

その後、そのキシさんがパイロットとなり、テスト飛行を行った、
と言う事なんですが、これが連合軍による正式なものなのか、
戦争に勝ったような顔して戻ってきたフランス人が勝手にやったものかはわかりません。

でもって、そのテストフライト中に胴体着陸を行う事態が発生、
この時、プロペラ、機首下面のオイルクーラー、さらに尾輪を破損したとされます。
なので、ここら辺はオリジナルのパーツではありません。
とりあえず、たまたま同じ飛行場にあった百式司偵からプロペラを、
四式戦 疾風からオイルクーラーを調達してます。
さらに燃料冷却装置と主翼下のパイロンも破損したので、
これは三式戦から持って来たとされます。
(ただし、尾輪に関してはオリジナルの可能性が高い)

…しかし1945年8月のサイゴンに、なんでそんな多種多様な機体があるんでしょう。
全部で24機、フランスが差し押さえたそうなんですが、
どうも同じ機体を運用する飛行隊ではなく、雑多な機体の寄せ集めだったようですね。

で、修理後しばらくは地上試験のみを行ったものの、
45年年末には再び飛行可能な状態になり、
マレーシアにあった連合軍の航空技術情報部隊(ATAIU-SEA)に持ち込まれて、
イギリス空軍の元で再びテストが行われたようです。

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