まずは正面方向下から。
機種の先っぽ下にあるのは、夜間着陸灯で、これが100式司偵の特徴の一つとなってます。
その後ろ、機種下面にある窓はコクピットから下を見るためのもの。
双発機の場合、プロペラより後ろにコクピットを置かないと脱出不可能になってしまうので、
(飛び出た瞬間、プロペラでバラバラにされる)
コクピットの位置がどうしてもエンジンと並ぶような場所になってしまいます。

この結果、前方と下方視界がかなり限られてしまうので、
正確に目標を捕らえる必要があるこの機体だと、
ああいった下方視界を確保する窓が必要だったのでしょう。

で、コスフォードにあるRAF博物館で展示されてるこの機体は、
世界で唯一の現存機です。

とりあえず、この博物館の調査書によると、
1943年夏ごろに製造された5439号機、サブタイプは三型の丙で、
飛行第81戦隊に配属され、東南アジア方面に持ち込まれた機体だとか。
1945年9月、マレー半島のカハン基地にあったものを、
連合軍航空技術情報部 東南アジア局(ATAIU SEA)が押収した、とされています。

当初はプロペラが外されたり、破損箇所があったりで、現地の日本人に修理をさせ、
1946年1月頃に飛行可能なコンディションとしてから、
部隊に居たパイロット、M.モリタさんの手でテスト飛行をしている、との事。
ちなみに、このモリタさんは、1990年、この機体のレストアの時にも、
アドヴァイスを行ってるみたいです。

ちなみに、プロペラが付いてなかったのは、
恐らく日本側の整備員が外してしまったからでしょう。
終戦時に、航空機を飛行不能の状態にすること、という指令が出てたらしいです。
おそらく、無条件降伏に反対する連中とかの暴走を恐れたんじゃないかと。

ついでに戦時中の鹵獲機にプロペラが無い機体が多いのも同じ理由で、
これは敵の手に落ちても飛ばせなくするため、
撤収時に外して破壊してしまうわけです。
飛行機本体の破壊よりも、簡単で、素早く出来る妨害工作となります。

ちなみに日本側の資料だと、この機体は第一野戦補充飛行隊偵察隊という
えらく長い名前の部隊が使っていた機体で、
終戦後にATAIU SEAに引き渡した、とされます。
この一連の引渡しをやったのが森田光弥さんという方で、
イギリス側の文書に出てくる森田さんというのは、おそらくこの人でしょう。

で、試験終了後、しばらくシンガポールで英軍によって連絡機として使われ、
最終的に1946年6月、五式戦、ゼロ戦52型、練習機の赤とんぼなどと一緒に、
博物館展示用として、イギリスに持ち込まれます。

ついでにイギリスが自国内の持ち込んだ日本機はこの4機で全てですが、
何を気に入ったのか、後にアメリカ経由で特攻機の桜花を4機、入手しており、
その内の一機はこのコスフォードに置かれてました。




斜め目前から。
日本機としてはベラボーと言っていい600km/hを超える高速を出した事で知られる機体で、
実際、エンジンカウル周りのデザインとかは日本機としては
かなり洗練されたものとなっています。

が、この機体の高速性の最大の秘密は、なにせ小さい、という事でしょう。
この博物館の同じホールにイギリスのモスキート、ドイツのMe410という
これまた第二次大戦期を代表する双発機が展示されていたのですが、
それらと比べると、確実に一回り以上、小さいです。ちょっと驚きます。
当然、小さいという事は、前面投影面積も減れば、重量も減りますから、
速度を出すには有利です。

ここに展示されていたモスキートの全長×全幅はおおよそ14m×16.5m、Me410は12.5m×16.5m。
対して100式司偵は11m×14.7ですから、双発機としては、極めて小型な部類に入ります。
当時、このサイズの双発機となると、同じ日本陸軍の二式複戦、屠龍くらいで、
他国の機体や海軍の月光あたりと比べると、何か病気なんじゃないだろうかってな位に小さいです。

このIII型は、それに1500馬力クラスのハ112-IIエンジンを二発積んでますから、
なるほど、630km/hは出たろうな、という気がします。
もっとも、そのモスキートの偵察型、重い武装関係の装備を全部外した初期のPR系の機体は
同じような1500馬力級のマーリン21を2発積んで、時速615km/h出してますから、
100式司偵の空力設計が特別優れていたかというと…ねえ…。
(ちなみに木製機という事で誤解されやすいが、モスキートは意外に重い。
戦闘機型の場合、Me410やP38とほとんど変わらない)



反対側から。
車輪にはカバーが付けられてます。

この機体は他に例をみない独特の機首部の形状ですが、これはIII型になってからのもので、
II型までは普通の段差付きの機首部となってます。
なので前方向から見ると、ほとんど別の機体じゃん、というくらいに印象が異なる事に。

III型から搭載されたハ112-IIエンジンは従来のエンジンより直径が大きくなってしまったため、
その分の抵抗を少しでも減らそうと段差の少ないこういった形状にしたのだとか。

こうして見ると、コンディションはいいですね。
ただし、1980年に至るまで、この機体、博物館には収容されておらず(笑)
野ざらしでほったらかしに近い状態だったようです。
その後、倉庫に放り込まれてしまい、
最終的には1992年、まだバブルの余力が残ってた三菱重工が
レストア費用の半額を負担して、現在の状態にしたもの。
それでもとりあえず、全体的なコンディションは良好と言っていいでしょう。

余談ながら、この機体もゼロ戦も、ATAIU SEAで試験飛行中の
写真が残ってるのですが、もう1機のイギリスの日本機、
五式戦に関しては、不思議なほど写真が残っていません。
そのうち出てくるのか、なんらかの理由で写真が撮られなかったのか、謎です。



やや横から。
この角度から見ると、エンジンがコクピットの視界をかなり遮っている、
というのが良くわかるかと。

で、機体が小さい、というのもあるんでしょうが、エンジンナセル、
エンジンの収容部が異常ににデカイ、というのもの100式司偵特徴です。
ご覧のように主翼後ろにまで飛び出してる上、
機体上面も、エンジンナセルがそのまま乗っかってます。

通常、主翼の上面を潰してしまうと揚力(機体を持ち上げる力)がそれだけ失われるので、
双発機では主翼上面を最低限しか潰さないようなデザインが考えられます。
が、この機体は、揚力なんざ知らぬ、通じぬ、とばかりに、
主翼上面まで、エンジン収容部でドカンと潰してしまっているのです。
(主翼下面なら空気の流速が下がったところで、影響は少ないが上面はそうはいかない)

これでええんかいな、と思いますが、
なんでも東大のエライ先生が、
もっとも空気抵抗の少ない形状を考えたら、こうなったんだとか。

…なんか間違ってるような気が、しなくもなくもなく…。

ただし、ここまで大きくなったのはIII型からで、
II型までは、もう少しコンパクトです。
それでも、主翼上面後端までエンジンのナセルが届いちゃってますが。

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