■スピットファイア、産まれる

さて、シュナイダー トロフィーでは無敵ともいえる強さを見せたミッチェルの才能だが、
「戦闘機屋人生」は決して王道を行きまくりで絶好調!とはいかなかった。
4度目(22年の機体は共同設計だが)の優勝を果たした1931年、
さっそく航空省から示された戦闘機の設計要請(F7/30)に応え、
オープンコクピットで単葉(翼が二層の複葉機に対して、現在のような一枚翼の機体をこう呼ぶ)
逆ガル翼&固定脚の224型戦闘機(Type224)の設計を開始、
プロトタイプの実機まで造ったものの、これはあっさり不採用となってしまう。



ミッチェルが参加したF.7/30要求仕様のコンペは、このブリストル ブルドッグの後継機を決めるためのものだった。
これの就任が1929年(大恐慌の年…)。後にスピットの実戦配備が始まるのが1938年。
わずか9年で、裏山の青大将がゴジラに進化するぐらいの変化があったのだ。
9年前の航空自衛隊と、今の航空自衛隊にどんだけ差があるか、を考えてみると、
その進化の早さには驚愕するしかない。
ちなみに、ブルドッグ、えらく短命で終わったものの、操縦性のよさから戦後は曲芸飛行用に人気となった。
RAFロンドン博物館にあったこれも、そんな機体の一つ。


ちなみにこのコンペを勝ち残ったのは複葉&固定脚のグロスター グラディエーターだった。
本命視されてた単葉機、ブリストルの133型がエンジン事故でポシャった、ということもあるのだが、
イギリス空軍の感覚では、単葉の戦闘機が登場するには少し早かったのかもしれない。

このとき、一番ショックを受けたのが親会社のヴィッカース-アームストロングだった。
彼らは、当時のイギリスで最高のスター設計者であるミッチェルがいるからこそ、
スーパーマリンを会社ごと買い取ったのである。
1928年の買収時には、ミッチェルが5年間、移籍しないという条件をわざわざ付け加えてるので
事実上、彼らが欲しかったのは、ミッチェルの才能だったのだ。
それがいきなり、完敗。
プロ野球でいったら、5億円で補強した四番バッターが、開幕三連戦で全打数無安打、
フォアボールもデッドボールもなし、ってな感じだろうか。
総合病院でいったら、最後の医科である歯科部門をついに院内に設立、張り切って迎えた人材が、
スター歯科医者だと思ったら、スター司会者で損したのか得したのか微妙、みたいな。
犬ぞりレースでいっ(以下略)。
このため、ヴィッカース-アームストロング社側の開発責任者だった
“サー” ロバート マクリーン(Robert MacLean)はかなり落胆したようで、
これが後に「スピットファイア」の命名に大きく影響するのだが、それはまた後述。
それでも、224型は、2年近く改良を続けたようだ。
だが、最終的にものにならない、と判断したミッチェルとスーパーマリン社は次の機体の開発に移ることに決定する。
ただ、224型をいろいろいじってる時、同時進行系で次の機体の計画を動かしていたようでもある。



F.7/30要求仕様コンペの勝者、グロスター グラディエーター。
こんな写真しかなくて申し訳ない。
過渡期の機体とはいえ、複葉、固定脚、胴体後部は羽布貼りと、かなり保守的な造りとなっている。
で、この機体は1937年に配備開始。
ちなみにドイツではとっくにBf109の生産が始まっていて、スピットファイアの初飛行も終わった段階だ。
納入された本機を見て、さてイギリス空軍の皆さんはどう思ったのだろうか。

そんなわけで、開戦時にもかなりの数が現役で残ってしまっていた。
地中海、アフリカ方面を中心に使用されていたが、
なんとバトル オブ ブリテン時にも1飛行隊がイギリス本国にいたらしい。何をしてたんでしょ…。
人気作家のロアルト・ダールが現役の戦闘機パイロットだったころ、乗っていたことでも知られる。
もっとも、ダール、本機で不時着して大怪我を負うのだが。


さて、ちょっと余談に暴走しようぜ、ハニー(笑)。
グラディエーター、水滴型風防が採用されており、なんだかここだけ時代を先取り! っぽい気がするかもしれない。
だが、実際はその逆である。
これは単にオープンコクピット(上のブルドッグのようなもの)にカバーをつけただけ、と見るのが正しい。
本来、風防付きのコクピットと尾翼の間に開けた空間を作ってしまうのは、空力的には不利なのだ。
水滴風防には、後方視界をよくする、というパイロットにとってのメリットしかなく、
機体そのものとしては退化に等しいデザインとなる。
それは大昔の呑気なオープンコクピットへの回帰でもあった。

ちなみに日本機のほとんどが水滴(っぽい)風防なのは、オープンコクピットとその視界への未練を
引きずっていただけで、なんら先進性のあるデザインではなかった。
1920年代に高速機レース等の経験を積んでなかった甘さが出たのだろう。



上の写真のように、スピットファイアは、もともとコクピットが胴体に埋め込まれているような
ハイバック(ファストバック)スタイルだった。
ちなみにファストバックと言うのは自動車の車体後部がすーっとテールまで
なだらかに続いてるスタイルのことなんで、本来は航空機の用語ではない。
おそらくカロッツェリアとかの造ってた馬車用語などから来てるんじゃないかと思うが、よく知らない(最低野郎)。

つーか、この記事始めてようやく2枚目のスピットの写真だよママン!
長かったよゴータマシッタルーダ!

これは1920年代のレーサー機設計などからのフィードバックによって産まれたスタイルだろう。
が、さすがにやりすぎで、オープンコクピットから移ってきたパイロットには、
視界ゼロにも等しい恐怖心を与えてしまい、ごらんのように少し膨らませて
視界を良くした「マルコムフード」が後に採用された。
ここらへん、だまってあの狭いコクピットに乗っていたMe109のパイロットは、さすがドイツ人だと思う(笑)。
ちなみにこの「見えねえ恐怖心」に対し、同じエンジンを搭載したハリケーンは
「ちょっとした工夫」をしてるのだが、それは後述。

大戦後半、連合軍のハイバック(ファストバック)機体が次々と水滴風防化されるのは、
その不利を蹴倒せるだけのエンジンパワーを手に入れてからだ。
実際、ほぼ同じエンジンのまま水滴風防化してしまったP47やP51では10km前後の最高速度低下を招いてる。
また、直進安定性の低下はエンジンパワーではいかんともしがたく、
どの機体でもその対策には苦しんでいるのである。



スピットの場合、グリフォン2000馬力というアホみたいに強力なエンジンを得て、
ついに水滴風防化に踏み切る。英語を直訳して涙滴風防とも言うが、そりゃダサいと思う…。
ファストバックのことをハイバック、この水滴風防化されたのをローバックと言う呼び方もある。




だが、速度の低下はパワーでねじ伏せられても、機体の天地幅が狭くなることで生じる、
直進安定性の低下はいかんともしがたがった。
ファストバックスタイルの胴体後部は魚の背びれのような働きもあったのだ。
とりあえずスピットでは垂直尾翼の動翼(後半)部分を大型化してその対策としている。
これなら、胴体そのものの設計に手をいれなくて済むからだろう。

下のマーリンスピット(IX)はどうも車輪ブレーキとラダーが連動しているようで、
尾翼に角度が付いてしまっているが、それでも上の写真と比べて、ぜんぜん大きさが違うのがわかるはずだ。


開発は比較的順調に進み、やがて「イギリスにも高速戦闘機があるんだよ」という
デモンストレーターの役割をになう機体として、注目されるようになる。
なにせ設計はあのミッチェルなのだ。航空省も無視出来なかったらしい。
で、新たにこの機体のためにF.10/35という要求仕様が造られ、
正式なプロジェクトとして、国から資金的な援助も得られるようになる。
1935年には実物大模型での地上審査を受けれるまで、開発は順調に進んだ。
今回は行ける、と誰もが思ったろう。
しかし、この審査で主翼に要求されてた8丁(4丁×両翼)の機関銃を積むスペースが無いとされ、
その部分の改善を要求される、という予想以上に厳しい審査結果を突きつけられる。
航空機が主翼を造り直す、というのは大規模改修だから、関係者にはショックだったはずだ。

この時、空力担当だったシェンストンが楕円翼の採用を提案、
一気に問題の解決をしてしまうことは、既に書いた。
シェンストン、ドイツで働いていたこともあるので、
当時、最先端技術として注目を集めいていた、空力的に洗練された翼形状、
楕円翼に早くから関心があったものと思われる。
1932年にハインケルのHe70に採用されて依頼、注目を集めていた技術でもあった。

ただ、楕円翼に関して言えば、後にこれを採用していた爆撃機、ハインケルのHe111が、
その生産性を上げるため、翼全体を直線的なフォルムに変更してしまった。
この時、思ったほど性能の低下は無かった、とも言われ、机上の計算ほどには
実際には効果がなかった可能性はある。

スピットの主翼でもう一つ優れていたのは、その薄さと、頑丈さだった。
主翼の薄さは、当時のあらゆる機体を凌駕しており、空気抵抗の軽減に大きく貢献した。
ここら辺は明らかにミッチェルによる機体デザインの特徴で、
彼はシュナイダー トロフィー時代から、常に主翼の薄さにこだわっていた。
このため、スピットファイアでは、薄い主翼でも強度を十分に確保できるように、
ボックス構造といわれる、細かい桁を箱型に組み合わせてゆく方式で主翼前部を貫ぬいている。
この構造が、実際の設計を行ったスミスのアイデアなのか、
全体を監督していたミッチェルのアイディアなのかはちょっとわからないが、
これによってスピットは翼を厚くすることなく、充分な強度を得る事に成功している。
ちなみに、強度を落とさないようにするため、主脚がボックス構造に引っかかって
それを分断する設計にならないよう、車輪を斜め後方に収納している。
この「薄くて頑丈」な主翼は、後に取られたデータで、ジェット戦闘機クラスの高速に耐えうる、
との結果が出ており、その先進性は高く評価されるべきだろう。



主翼前縁部分のボックス構造を崩さないように、
車輪やラジエターなどは全てその部分を避けて搭載されているのがわかりますかね?



ついでに、スピットファイアはMe109などと同じく、胴体側ではなく、主翼の外側に車輪を収納する。
これだと車輪間が狭くなり、離着陸や地上での運用の際、安定性にかける。
Me109などでは実際にその手の事故が多発するのが、やや大型のスピットフィアでは、
ここら辺はさほど深刻な問題になっていないようだ。
ちなみにこのデザインを採用したのは主翼を薄くするためだった。
主脚の巻き上げ装置は意外と大きく、これを胴体側の主翼の分厚い部分に搭載したかったかららしい。

こうして300型は、楕円翼を採用し、要求された武装が積める程度に翼を大型化しながらも
空気抵抗の低減をはかることに成功、再審査をパスして、K5054という正式なシリアルナンバーも与えられている。
その際、名称も「スピットファイア」に決まったわけだが、この点は後述。
ちなみに、この主翼拡大はあくまで武装搭載のためだった。
よって燃料タンクなどは新たに増設はされていない。
この搭載燃料の少なさが、のちに大陸への反攻が始まった時、航続距離の短さに泣く原因となるのだが、
これは時代の要求にかなった仕様なので責めるのは少々酷だ。
基本的に、1930年代には爆撃機こそが空軍の主力で、これを迎撃するのが戦闘機の仕事と見なされていた。
高速で侵入して来る爆撃機を、こちらも高速で、自国の領土上で迎撃するのが仕事であり、
爆撃機なみの航続距離を確保して、護衛と制空権の確保を目的に敵地に侵入するなんて発想は、基本的になかった。

スピットファイアのプロトタイプの初飛行は1936年3月5日、開発は順調だったと見ていいだろう。
これはあの“サー”シドニー・カム設計によるホーカー ハリケーンの初飛行からわずか4ヶ月後。
ある意味、4ヶ月でこれだけ航空機に進化が起こった国というのも珍しい(笑)。
事実上の同世代機には見えんよなあ…。
カム、イギリス本国では「飛行機の神様」扱いされてたりしますが、その才能は凡庸の一言だろう。



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