■スピットファイア産まれた






基本的に同世代機であるスピットファイア(下)とハリケーン(上)。
ハリケーンの機首上部の形がスピットの直線的なスタイルと大分異なるのは、
コクピットからの前方視界を確保しようと、その位置を少し高めたデザインのためだ。
まるで
DBエンジン搭載機のような、少しゆるやかなカーブを描いてプロペラにつながっている。

が、当然こんなことをやってれば表面積の増加によって空気抵抗は増えるし、重量も増える。
その上、この機体、胴体後部は鳥かごのように組んだ鉄パイプに、布を上から貼っただけだ。
冗談みたいな話だが、ホントに羽布貼りなのである。
写真の初期生産型は主翼までそうだった。
これで初飛行は1936年11月。ドイツではとっくにBf109の量産が始まっていた。
空軍関係者、笑うしかなかったろう…。

布張りの機体、というとなんだか軽そうだが、後部は軽量なジェラルミンではなく、
重量のある鋼管で骨組みをつくってるので、実はスピットファイアとほぼ同じか、むしろやや重い。
当然、鋼管の骨組みに布貼っただけの胴体に、剛性なんて期待するほうが野暮である。
重くて機体剛性の低い戦闘機。
戦勝国のイギリスの機体だから、あまり文句も出てないが(笑)、
こんな機体がドイツや日本にもあったら、今頃ボロクソに評価されてたことだろう。

このため、全く同じエンジンを積んでおきながら、バトル オブ ブリテン時の機体どうしで比べると、
ハリケーン、スピットより時速にして50km以上遅い。
マーリン積んでて、ゼロ戦並の速度しか出ていないのだ…。
あなたは、アホですか(泣)。

最後に書いておくと、私、ハリケーンという機体も、
その設計者の“サー”シドニー・カムもあまり好きじゃないんで、そこら辺は差っぴいて読んでね(笑)。



で、その後さまざまな試験を経て、同年の6月27日には、一般への公開も行われている。
ここら辺、来るべき大戦に備えた秘密兵器、というより、
「ボクんちにはこんなスゴイ飛行機があるんだぜ!どうだい、ビビったろ?」
といった、国際的デモンストレーションとしての利用価値を優先したらしい。
特にスピットファイアの場合はデモンストレーターとしての役割を期待されて
その開発が認可された、という部分もあったから、そのお披露目は当然の事ではあったのだ。

この頃は、ドイツ側も嘘とホントの入り交じった、さまざまな兵器デモンストレーション
つーかプロパガンダを発表しまくってるので、そういう「新兵器自慢合戦期」だったのだろう。
「見たろ?オレに戦争をしかけると遺体目、否、痛い目にあうぞ、そこの坊や」といったような。
ちなみに、プロとタイプのK5054は終戦直後にクラッシュして失われるまで、
戦中も結構飛んでいたらしい。何してたんでしょ?

ちょっと余談。
設計者のミッチェルは、もともと体が弱く、一時は休職してヨーロッパ本土で療養、
この時、ドイツの機体の設計を調べたり、航空機関係者に会ったりした…という話を見かけることがある。
この話のネタ元はレン・デイトンの本、「戦闘機」だ。よっておそらくウソである(笑)。
ミッチェル本人がドイツを訪れて、現地の航空機関係者に会った、
という記録は私の知る限りない(絶対ないとは言わんが…)。
このエピソード、戦中の1942年にイギリスで公開されたスピットをテーマにした映画
「The First Of The Few」に出て来るエピソード、ほぼそのままなので、
デイトンはこれを観て、多分、なんの裏付けも取らずにナチュラルに原稿書いている。
ついでにもう書いてしまうが(笑)、ミッチェルが肺病だった、というのも
この映画とデイトンのコンビによるデマで、彼は直腸がんだった。
だから、ミッチェルのエピソードで書いた「必要な医療器具」というのは実は人工肛門なのだ。
あまりにちょっとなんなので、映画ではここをゴマかし、
デイトンはこれまた鵜呑みにしてる。

余談ながらこの映画、レスリー・ハワードが監督・主演だったのだが、
彼の乗っていた飛行機がビスケー湾上空でドイツ機に撃墜されて死亡した後に公開されたため、
当時、変な方向で注目作になったらしい。

ついでにデイトンの著書、「電撃戦」や「戦闘機」は、日本だけでなく、
英語圏でも引用元として使われることが多いが、その著作を鵜呑みにするのは危険だ。
個人的な感想だが、彼の著作はイマイチ信用できないところが多いのである。
イギリスの三野正洋さんといった人物、と言えばわかっていただけるだろうか…。
今回、彼の著作を元ネタとしてると思われる資料を弾くためだけに、
わざわざ「戦闘機」を再読するはめになったので、ちょっと怒ってます(笑)。
元が人気作家だけでに、その影響力による誤解の多さをみると、ちょとなあ、と思う。
読みモノとしては、面白いのだが…。

話を戻そう。
この後、スピットファイアは正式採用が決定、量産化に向けて細部の詰めに入る。
で、ミッチェルは、それらのメドがついた1937年6月に亡くなってしまうことも既に書いた。
スピットファイア、戦後の1948年ごろまで生産が続き、
RAF(イギリス空軍)では1952年ごろまで使い続けた機体だが、
その改良発展は別の人間、開発チームでミッチェルのとともに働いていたジョー・スミス(Joe Smith)の手による。

ちなみにMe109の主任設計者のルッサーもE型の設計初期段階まででメッサーシュミット社を去ってる
(E型には関わってない可能性もある)ので、予想以上にこき使われ、改良を重ねる機体の産みの親は、
独英ともに「主要な生産型」にほとんどタッチしていない、という共通点も面白い。

さて、スピットファイアの生産準備が整ったのが、戦争まであと2年、バトル オブ ブリテンまであと3年弱の時だったのに、
その量産開始は1938年の7月頃から、実戦部隊への配備は8月4日からと初飛行から2年以上もかかってしまう。
ちなみに最初にスピットが配属となったのが、あの戦争博物館で有名な旧ダックスフォード空軍基地だった。
でもって、この遅延の結果、実際に開戦時に揃っていたのは300機以下にすぎなかった。ブリテン、大ショック。
当然、この最新鋭機は温存されることになり、大陸での戦闘には一切参加せず、フランスにも派遣されていない。

で、なんでこんなに時間がかかったのか、というと、新たに製造工場を一から造ってたためらしい。
その上、例の楕円翼は当初かなりの製造工程を必要とし、量産が軌道に乗るまでかなり苦労した、という話もあり。
まあ、まだ開戦前なので、ある意味、ノンキだったんだな、と。
結果、開戦から約1年後に始まったイギリス上空の対ドイツ空中戦、バトル オブ ブリテンの全期間を通じ、
スピットファイアの部隊は、常に機数不足になやまされる事になってしまう。
ただ、これは生産遅延ばかりが原因ではなかった。
開戦後も本土決戦用に温存されていたスピットファイアたったが、
さすがにイギリス軍の大撤退作戦となったダンケルク前後では出し惜しみもできず、
すでに1940年5月ぐらいの段階から、実戦投入がスタートしていた。
これはバトル オブ ブリテンの前哨戦として片づけられがちだが、実はドイツ、イギリスともに、
予想外の消耗を強いられており、この時期だけで、
スピットを含めた戦闘機の損失は500機を超えている。

この段階では、アメリカは参戦どころか、いまだ米国式大盤振る舞いことレンドリース法案すら議会で承認されておらず、
イギリスは完全に自前の兵器だけで闘う必要があったのだから、空軍関係者は気が気ではなかったはずだ。
もっとも、この戦闘で、スピットファイアならMe109Eに対抗出来る、という手応えが得られたのは収穫だろう。
最終的には2万機以上つくられた本機だが、
この段階では極めて貴重な、まさに最後の手段、とでもいうべき最終決戦兵器だったのだ。

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