■立川 99式高等練習機 キ-55(98式直接協同偵察機)
Tachikawa type99 advanced trainer ki-55



直接協同偵察機、略して直協機、というジャンルがかつて日本陸軍の航空機にありました。
前線部隊に張り付いて、連絡、偵察、砲撃の着弾観測、
さらには小型爆弾による攻撃までやる何でも屋な機体ですね。

当初、日本陸軍は航空優勢を抑えていた中国と戦争していた上に、
ノモンハンでコテンパンにされるまで、
次の相手はアメリカじゃなくてソ連かも知れぬ、と思っていたため、
広大な大陸部での戦争で使う汎用機が必要だったのでした。
それが直協機です。

大陸部の戦争だと、前線が100km単位で展開する事もあるため、
空から素早く移動できてしまう航空機は極めて有効なのでした。
特に中国戦線では、日本が航空優勢(制空権)を抑えていたので、
自由に飛びまわれましたし。

ただし、近接航空支援攻撃では、
地上部隊があっちを爆撃して、とおおよその方向を書いた(矢印?)旗を地上に置き、
それを見て爆撃するだけだったので、そこじゃないのに!というケースが多く、
その効果はイマイチ疑問だったそうな…。
ここら辺りも無線の弱さが泣き所になってます、日本軍。
(砲撃観測の場合、地上側の重砲部隊も無線を持っていたが)

ちなみにこれ、アメリカ陸軍が大好きな航空機のジャンルでもあり、第二次大戦期に
全部で何種類あるのよ、というくらい似たような機種を開発しながら、
なぜか英語では明快な分類機種名詞がありませぬ。
なので、 Reconnaissance, transporting supplies, artillery spotting duties aricraft
という書くのも一苦労な名称で呼ばれてたりします。

そんな前線の便利屋さん、というべき機体がキ-36、98式直協機でした。
ただし、ここまで書いておきながら、今回紹介するのは別の機体(笑)、
その派生型である、99式高等練習機です。

1938年(昭和13年)初飛行の98式直協機は操縦性がよく、
さらに全金属、低翼で単翼という、
当時の日本機としては比較的時代の先端を行く二人乗りの機体だったため、
ほぼそのまま、練習機として採用されてしまったのが、この99式高等練習機だとか。
(ただし後で見るようにどうもこの話は怪しい)

この機体、なんだかんだで総生産数は1000機を越えてるそうで、
日本機としてそこそこの数が造られた機体でもあります。

 
写真の機体はタイのバンコクにあるタイ王立空軍博物館で展示されているもの。

タイ空軍が第二次大戦中の1942年に日本から輸入した機体でして、
全部で24機が導入され、戦後の1950年まで現役で運用されてました。
その中の1機で、これが世界で唯一の現存機でもあります。

ちなみに、この99式高等練習機のルーツとなった98式直協機も中国に一機現存しており、
戦争初期の早い時期から配備が進んでいた日本機の中では、
比較的現存機に恵まれた、珍しい機種ではあります。

98式直協機に対し、99式高等練習機では前席と後席の両方に操縦装置がある、
さらに後部旋回機銃が無い、そして車輪カバーが外されてるといった特徴がある
…はずなんですが、あれ、この機体、ついてますね車輪部分のカバー…。
(主脚部のカバーはどちらにもあるので問題なし)

こうういったマイナーな機体は資料が少ないんで、よくわからんのですが、
輸出用のサービスとして付けたのか、あるいは一部の生産型には付いてたのか、
ここら辺りは謎、という事にしおきます。

とりあえず、タイ空軍が練習機として運用してた以上、
99式高等練習機で間違いないはずですが…。
(98式直協機は操縦系統が前にしかないので練習機には使えない)



練習機にしては異様に大きなキャノピー(天蓋)は
98式直協機から改造されたゆえでしょう。
その手の機体ではとにかく地上がよく見えないと話にならないですから。

ちなみに直協機と言われても、あまりピンと来ないのは
その活動の多くは満州から中国戦線におけるものであり、
ここらは人気が無いので(涙)、あまり情報が出回らないからかもしれません。

せっかくだから、ちょっと脱線して、
日本陸軍の直協機という機種を少し説明しておきましょう。
98式直協機の所属する飛行戦隊(偵察科)は軍単位の地上部隊への派遣が基本ですが、
一部で例外的に、より小さな師団単位でも派遣されたようです。
ただ師団単位に対する派遣の場合、飛行戦隊全部ではなく、もっと少数(10機以下)の、
中隊単位での派遣かもしれませんが、確認できず。
とりあえずノモンハンの時などは師団単位(軍よりはるかに小さい規模)
の戦闘でしたが、98式直協機が派遣されています。

参考までに書いておくと、地上部隊の場合、
単独で作戦を行う大きな組織単位として“軍”があり、
第1軍、第2軍など、呼ばれ一定地域の軍事作戦を請け負います。
ここには複数の師団とその補助部隊が含まれ、
さらに師団は複数の連隊から、連隊は複数の大隊からなり、
そして以下中隊、小隊となるわけです。

これに対して、陸軍の航空部隊は別の指揮系統を持ち、独自に作戦を行います。
(この指令系統の乱立が後にフィリピンで問題となる)
が、直協機を運用する部隊は地上部隊との連携が必須であり、
このため各地上軍の司令部に対して派遣され、
その要請に従って出動していたようです。

ちなみにノモンハンでは98式直協機から
重砲中隊の着弾観測とその修正をやってるんですが、全く効果が無く、
機上の観測将校がサジを投げて帰っててしまった、という話もありにけり。

ただし主要任務は、軍(師団)司令部と前線部隊との連絡、そして偵察でした。
ただし前線と言っても、連隊本部への連絡までで、
それ以下の大隊レベルに対して軍本部から連絡が行くことは無かったと思われます。
さらに普通は上空から通信筒を投下する、というだけ、
つまり軍司令部からの一方的な命令通達がその主な任務でした。
とはいえ、偵察中に敵を発見した場合、これを紙に書いて通信筒に詰め、
付近の友軍兵に投下する、という事はやってますね。

太平洋戦争前の中国戦線の例だと、
作戦展開中は一日一回、前線の各連隊本部に対し
軍司令部からの定期便の直協機が飛んでました。
この機が、二十万分の一の地図に書きこまれた
前日までの全戦線の情報(いわゆる軍情報図)を投下、
各連隊本部がこれを見て戦況を理解しながら行動できるようにしてたわけです。
さらには無線や電話が通じない場合、指令書も届けたと思われます。

ここら辺りの運用は、ほとんど資料が無いのですが、私の知る限りでは、
佐々木春隆さんの“長沙作戦”に簡単な説明が出ています。
この本、日本人が書いた戦争体験談としては最良の一つだと思われるので、
興味のある人は一読をお薦めします。

ただし、天候が悪いとこの定期便が飛ばなくなる、あるいは地上が見えなくて
通信筒が投下できなくなるため、前線部隊は敵がどういった配置で、
友軍の状態がどうなってるのか、全くわからん、
という状態になる事もあったようです。



ちなみに他の国だと、直協機といった機体はもっと小型軽量にし、
それこそ前線部隊本部の裏庭にでも着陸できるようにしてました。
さらに搭載人員も3人以上が乗れるのが普通で、軍の指令と参謀が、
これに乗って直線前線部隊の本部に行く、ということをやってます。

写真のドイツのFi156シュトルヒなんかは、簡単な金属製の骨組みに、
羽布を貼っただけの機体構造で、風が吹いただけでも飛んでしまう、という位に軽くなってます。
それこそ数十mの長さの空き地があればオッケーで、
これによってドイツの指揮官は自由に飛びまわって前線指揮を行っていたわけです。

ところが、日本の98式直協機は全金属製で重く、
滑走路なんてありゃしない前線部隊本部の近所に着陸する、なんてのはまず無理です。
このため、一方的に通信筒を投下するだけ、という運用になって行きます。
(前線部隊での着陸例も探せばあるのかもしれないが、少なくとも私は知らない)

そして、この手の機体は主翼を上につけるのが普通です。
そもそも地上を見なきゃ、地上部隊と連携する仕事にならないんですから(笑)…。
さらに主翼を上にする事で乗り降りもしやすくなり、これによって
負傷者の運搬も可能になります。

これらの機能が日本の98式直協機には全くありません。
この手の機体としては極めて贅沢なつくりですが、事実上の失敗作でしょう、これ。
使い勝手は極めて悪かったと思いますよ。



写真は朝鮮戦争世代のO-1ですが、
アメリカ軍もこの手の機体では、軽量、上翼の鉄則を常に守ってます。
というか、これを無視する合理的な理由は何もないはずです。

さらに後で見るような後退翼の謎もあり、どうも98式直協機は、
後から練習機への転換が決まったのではなく、最初から高等練習機にする気だったのでは?
むしろそっちが主目的だったのでは?と思うのですが、
残念ながらこの点については、全て推測ですので、断言はできませぬ。


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