■ムスタングを造りしものたち

さてP-51ムスタングという機体の誕生には欠かせない二人の人物が居ます。
一人はノースアメリカン社の社長兼総支配人だった
“ダッチ”キンデルバーガー(James H. Kindelberger)、
もう一人は実際の機体設計の責任者だった
“エド”シュムード(Edgar O.Schmued/英語つづり)の二人です。

当時、ノースアメリカン社のBC-1(ハーバード)、T-6(ハーバードII)という練習機を
イギリス空軍に売り込んで信用関係を築いたのは経営者のキンデルバーガーでした。
これが後にイギリスがP-40のライセンス生産を同社に持ち込むキッカケになったと言われてます。

そのイギリスからP-40ライセンス生産の打診に対し、
自社開発の戦闘機の新規開発を逆に提案、これを受け入れさせたのも、
彼の手腕による、と考えていいでしょう。

そしてそれを受けて、ムスタングという傑作機をキチンと形にしていったのが
言うまでも無く設計担当のシュムードの功績ととなります。

最初はキンデルバーガーについて見て置きましょう。
アメリカの片田舎のハンバーガー屋みたいな名前から判るように
彼はドイツ系ですが、移民の子であり、本人はアメリカ生まれのアメリカ育ち、
生粋のアメリカ人です。

1895年5月ウェスト ヴァージニア州生まれで、1934年にゼネラル・アヴィエーション社に
社長として引き抜かれた時はまだ39歳でした。
余談ですがノースアメリカン社がゼネラル・アヴィエーション社を吸収して
新たな会社として設立され、彼がその責任者となったのが1935年の1月1日、
そして1962年に彼が死去したのも1月1日で、なんだか妙に元旦に縁のある人です。

もともとダグラス社で副社長兼技術責任者まで上り詰めていた彼は、
若き設計家、レイモンド(Arthur E. Raymond)と組んで旅客機のDC-1を開発してました。
やがてこれがDC-3まで発展して世界の空を席巻する大ヒットとなります。



1930年代後半からアメリカ参戦の1941年まで、
世界の空を席巻してしまった傑作旅客機、DC-3。
さらに戦時中はC-47となってアメリカ陸軍の世界的空輸網の維持に貢献、
まさに時代を造ったといっていい傑作機です。

なのでキンデルバーガーは旅客機DC-3の開発には技術部門の責任者として
そして戦闘機のP-51、さらにF-86には経営者として関わった、という
アメリカの航空史の生き証人でした。

ただしキンデルバーガーがダグラスの開発部門の総責任者だったのは
初期の生産型、DC-2までで、発展型のDC-3初飛行前にダグラス社を去っています。
人間杭打機(Pile-driver)のあだ名があった、エネルギッシュで野心あふれる
キンデルバーガーはどうもダグラスの次期社長の座を狙っていたらしいのですが、
結局、創立者ダグラスの息子がその座に就くことが決定、
嫌気がさしてGMからの引き抜きに応じたようです。

この時、以後彼の下で副社長兼技術責任者を務める事になる
若い技術者アトウッド(Lee Atwood 当時30歳)他数人が一緒に移籍してますから、
おそらくBT-9からT-6テキサンに至る設計は彼らの手によると思われます。
ちなみにアトウッドは1960年にキンデルバーガーがCEOを引退した後、
同社の経営を引き継ぎました。

キンデルバーガーはとにかく仕事人間で、3カ月の内、家で家族と夕食をとったのは3回だけだ、
という発言が残っていたり、さらに彼が在職中、
長期休暇を取った形跡がほとんどなかったりします。

ただし、単なる仕事人間では無かったのも事実で
「会社を続けるための売り上げを常に確保し、誰一人解雇者を出さない事。
それによってその家族が十分な生活を維持できれば、
それこそ良きアメリカの市民生活の創造に他ならない」
というような発言も残してます。

少なくとも20世紀後半以降のアメリカ式経営者、
一人で使い切れないほどの報酬を受け取って現場の人間を平気でクビにする、
というタイプで無かったのは確かでしょう。
このためか彼はシュムードを始め、
その社員たちからは慕われていたようです。

ついでにキンデルバーガーは1938年、すなわち開戦直前にヨーロッパに視察に出かけ、
Bf-109を生産中のドイツのメッサーシュミット社、そしてスピットの量産に入ってた
イギリスのスーパーマリン社、両方を見学する、という幸運に恵まれました。
彼はとにかく造りやすい構造で、量産に向いてたBf-109に感銘を受けたようで、
生産現場に関してはドイツを買っていた感じがあります。
この生産性への配慮は、P-51にも取り込まれてますね。

ちなみに航空機産業に関しては1938年だとまだアメリカは後進国グループですから、
この視察を基に工場のシステムを大幅に改良、
ノースアメリカン社の脅威の生産システムを完成させる事になります。

実はノースアメリカン社は、大戦中に1万機近いT-6、1万5000機近いP-51、
さらに9000機近いB-25を常に平行製造しながら、
イギリス&アメリカ軍向けの機体は全て自社工場で生産してます。
外注工場には一切頼ってないのです。
例外はT-6のカナダ空軍向けの、そしてP-51のオーストラリア空軍向けの
少数生産くらいなものでそれ以外は全て自社工場製でした。

グラマンがイースタン社に他の機体の生産を委託する事で、ようやくF6Fを造っていた事、
カーチスがアメリカ向けのP-40の製造だけで手一杯で
イギリスの要請を受けれなかった事などを考えれば、これはスゴイ事でしょう。
ちなみに生産開始直後にはP-47も、カーチスが一部を生産してました。
まあ約1万5000機中わずか約350機(約2.3%)で、
ほんとにちょっと手伝っただけですが。




この15000機近く造られたP-51を全部自社生産というだけでもスゴイのですが、
さらに大戦中にも1万機近く造られたと思われるT-6テキサン、
(1941年3月の段階で9331機の受注を抱えてた。この後、さらに増えたはず)
9000機近いB-25までもノースアメリカン社は自分の工場で生産してたんですね。




大戦中、自社で生産が追い付かない分は、
他のメーカーに生産を外注するのが国を問わずよく行われてます。
日本でも中島がゼロ戦を造ってたのは良く知られてますね。
アメリカの場合、航空機メーカーに限らず、B-24はフォード自動車が、
F-4Uはタイヤメーカーのグッドイヤー(実は飛行船の製造経験があった)が
それぞれ外部委託で航空機を生産をしています。

その中で、一切外部の手助け無しで、合計3万機以上を造ってしまった
ノースアメリカン社は、極めて特異な存在、と言えます。
おそるべき生産能力なのです。

この辺り、親会社のGMの技術支援もあったと思いますが、
アメリカの大量生産システムがヨーロッパに影響を与え、
それをまたアメリカ人のキンデルバーガーが参考にした、という不思議な流れでもありますね。
参考までに大戦中はカリフォルニアのイングルウッド、テキサスのダラス、
そしてカンザスのカンザスシティの三か所に工場を持って稼働させてました。

1939年5月にあのリンドバーグがノースアメリカン社の工場見学に来たのですが、
この時彼は「こんなに効率的な航空機工場を見たことが無い」と感激してます。
アメリカ中の航空産業をウロウロしてたリンドバーグがそこまで言うなら、
当時のアメリカ航空業界でもっともすぐれた工場を運営してたのは
ノースアメリカン社だったと考えていいでしょう。
それを成し遂げたのは間違いなくキンデルバーガーの力でした。

さらに戦後、いち早くロケットエンジンと超音速飛行技術の開発に
目を向けたのもキンデルバーガーで、
会社の施設としてロケットエンジンの試験所を1946年に設立、
さらに超音速用の実験風洞まで自腹で作ってしまってます。

これが同社の超音速機、そしてアポロ司令船を始めとする宇宙部門の
基礎となったのですが、彼自身は、少数生産に過ぎないX-15や
宇宙船開発には、あまり乗り気ではなかったようです。
本来なら超音速爆撃機や弾道ミサイルをガンガン造りたかったのかもしれません。

ちなみにアトウッドが1960年に会社の経営責任者になると、
より大きく宇宙及び実験機に会社の経営資産をつぎ込むのですが、
これが後の会社の消滅につながったのかどうか、その判断は難しいところですね。
まあ、少なくとも長期的にはプラスにはなってなかったように見えますが…。

ついでにキンデルバーガーは航空関係者に多い、妙なニックネームの持ち主でもあり、
その愛称はダッチ(Dutch)、すなわちオランダ人でした。
が、すでに書いたように彼は生粋のアメリカ人でさらにドイツ系で、
その名はジェームズ キンデルバーガーです。

ウィリアムの愛称がビルになる、という変なニックネームも多い英語圏ですが、
どう考えてもジェームズのニックネームは普通ジム、ジミーという辺りで、
オランダ人に変身する事はありませぬ。
(なのでビル・ゲイツもビル・クリントンも本当の名前はウィリアム。
愛称を公式に使ってしまうのがアメリカという国の不思議さの一つだ)

この辺り、本人の回想によると、学生時代、クラスメートにダッチと呼ばれる男がいたのだが、
彼が転校してしまい、以後、名前が似てた彼がダッチと呼ばれるようになった、
とわかったような、わからないような説明をしています(笑)。
まあ、どうでもいい話、ではありますが…。


NEXT