■オーストリアからブラジル経由で来て歴史を造った男

さて、もう一人の重要人物が、言わずと知れたエドガー・シュムードです。
ムスタングの設計責任者(Chief designer)となった彼の略歴は、
すでに最初の導入編で少しだけ触れました。
ちなみに彼の愛称は単純にエドで、特にひねりはありませぬ(笑)。

参考までに実際の機体設計までシュムードが行った戦闘機は
P-51ムスタング、そして実際はほとんど別の機体であった
軽量型P-51とツインムスタングだけでした。
後は例のペルーとタイに売りつけた怪しい戦闘機、P-64が
彼の設計だった、という話もあるんですが、確認できず。

とりあえず以後のFJ-1フューリーとF-86セイバー&F-86Dセイバードッグ
では総責任者、プロデューサーのような立場であり、
実際の設計にはほとんどタッチしてないようです。
F-100の設計段階でも、監督する立場だったようですが、
彼はこの機体に関してはやや否定的で、どこまで関わったのかよくわかりませぬ。

それ以前だと、例のO-47観測機で設計責任者をやってた可能性がある他は、
ノースアメリカン社がアメリカ参戦前に自主開発し、
結局不採用に終わった初等練習機、NA-35くらいが彼が自ら設計した機体でしょうか。
シュムード、実はそれほど多くの機体設計をしてるわけではないのです。

ただしモロー ヴィクトリー練習機(Morrow Victory Trainer)という機体を1941年春ごろから
すなわちムスタング I A 辺りと並行しながら設計してます。
これは西海岸ではちょっと有名だったらしいMorrow's Nut House という
菓子屋チェーンのオーナー、モローが航空機産業に進出したれ、
と開発を依頼して来た初等練習機でした。

となると、ノースアメリカン社の仕事ではないのですが、
キンデルバーガーもこの仕事に一枚噛んでたらしいので、
なにか裏ではいろいろあったようです。
一説には陸軍航空軍の一番偉い人、アーノルド将軍も計画に関わってたらしいですし。
ただし、初飛行まではしたものの、
結局これも軍からは採用されないで終わってます。

ついでに機体設計ではありませんが、シュムードはそれとほぼ同時進行で、
素材試験用の主翼設計と飛行試験を担当してました。
これはアメリカ参戦後に不足が予測された
アルミニウムの使用量を減らすため、自動車用の安価な低炭素鋼(low carbon steel)、
を翼の外板などに使用する、というもので、T-6を使って開発試験をやってました。

アルミニウム合金であるジュラルミンより炭素入りの鉄、
強度の高い鋼(はがね)は、はるかに重いですから、
機体全部をこれで作ってしまっては空に浮きません。
そこで主翼や尾翼などの外板だけを低炭素鋼に置き換えるだけにします。
ただし鋼ですから溶接が簡単で、このため重量物である固定用のリベットを廃止、
溶接で固定し、その重量増を補う、というものでした。

これ、565sのジュラルミン製パーツを鋼製に置き換えたものの、
リベットの廃止などにより約68s、約12%の重量増に収まり、
練習機としてなら十分な性能を維持できると考えられました。
試験飛行も極めて順調だったとされるのですが、
実は安くて入手容易な素材と思ってた低炭素鋼が
1.7%ほどニッケルを含んでおり、これが希少資源とみなされ、
あっさり開発中止となってしまいます…。



ムスタングに続いてアメリカの空の主力となったジェット戦闘機、F-86セイバー。
写真はA型。
これも傑作機と言っていい機体ですが(性能的にはややMig-15に劣るのだだが)、
シュムードは全体責任者のような立場での参加で、直接設計はしてないようです。

ただし、彼はドイツ語が読めたので、この機体を作るに当たり、
大量に参考にされた敗戦国ドイツからの後退翼を始めとする実験データの分析に
何らかの貢献があったような気がしますが、その辺りに付いては確認できず。



1952年夏、F-100の開発中にシュムードはノースアメリカン社を去る事になります。
その後、ノースロップ本人が去ってしまった後のノースロップ社に、
技術部門担当の副社長(Vice President of Engineering)として招かれる事になるのです。

そこで彼が主導したのが自社開発の軽量戦闘機計画、N156で、
これが後のT-38練習機、そして写真のF-5A戦闘機に発展して行くわけです。
ただし、こちらも直接の設計には関わってません。

安価で軽量、というのは彼がP-51依頼、こだわり続けたコンセプトで、
その完成型がこの機体なのかもしれません。
…あと20年現役だったら、彼、ボイドと意気投合したんじゃないでしょうかね。

なのでシュムードはP-51、F-86、T-38&F-5Aという、
これまたアメリカの航空史を彩る多彩な機体の誕生に関わっていた事になります。

そんな彼は1899年、ドイツの地方都市、
ツヴァイブリュッケン(zweibrucken)郊外で生まれました。
ただし先にも書いたように国籍はオーストリアで、
これはシュムードの父親がオーストリア人だったためです(母はドイツ人)。
どっちにしろドイツ語圏に生まれ育ったわけで、彼の母国語はドイツ語でした。

このため、第一次大戦にはドイツ軍に徴集されず、オーストリア人として、
航空部隊の整備兵として参戦していたようですが、詳しい事はわかりません。

その後、ブラジルに一時移民してたのは書きましたが、
当然、あの国の言語はポルトガル語なわけで、
後にアメリカで英語も身に付けたのですから、相当な語学力があったのかもしれません。
まあ、どっちも欧州系言語ですから、文法は同じで、日本人が英語、ポルトガル語を
学習するのとは難易度がケタ一つ少ないと思いますが。

さらにちなみに移民直後、すなわち最初のフォッカー アメリカ航空機に就職した後、
彼は1930年の10月から31年の5月まで約半年、91回の英語学校の授業を受けてます。
これだけで“就労に十分な英語力を持つ”という認定を受けてますから、
やはり生まれついての語学力はあったのでしょう。
ただし、戦後まで彼のドイツ語なまりは消えなかった、とされるので、
そこら辺り、限度はあったみたいですが。

ついでに前にも書きましたが、彼はまともな専門教育を受けてないので、
この英語学校の卒業証明書が彼が持っていた唯一の学業証明書だったとされます。

せっかくだから、さらに脱線しておきましょう。
実は大戦期の欧米戦闘機の設計者でシュムードのような
専門教育を受けてない人は結構、多かったりします。

例えばスピットファイアの設計者、ミッチェルも
働きながら夜学で必要な数学を学んだ苦労人の独学の人ですし、
P-47の設計者、カートヴェリ(Kartveli)もフランスまで留学してますが、大学出ではないですね。
対してドイツは比較的インテリ層が多いのですが、
それでもMe-109の開発の中心人物だったローベルト・ルッサーは
若いころの経歴についてはよくわからないところがあり、
この人も、どうも独学のような感じがします。



実は英米の主力戦闘機は、共に独学の技術者によって設計された、という不思議な共通点があります。
ついでにスピットファイアの設計者ミッチェルとシュムードは、
共に結構年の離れた姉さん女房だった、という妙な共通点もあります(笑)。
ちなみにミッチェルは11歳年上、シュムードは9歳年上の相手との結婚でした。
(シュムードは後で見るように3回も結婚してるので、初婚の相手だけの話だが)




まあ、Me109の共同設計者メッサーシュミット、Fw190のクルト・タンク、
P-38の“ケリー”・ジョンソンなどは大学出なので、
必ずしも、戦闘機の設計家は独学がいいというわけでは無いんですが。
(厳密にはタンクが出たベルリン工科大学は戦前は大学ではなかったが。
ちなみにここにはロケットの父、フォン・ブラウンも通ってたはず)
それでも当時も今も一流とされた大学に行ってたのは
メッサーシュミットとタンクくらいなのです。

この辺り、ドイツのハインケルが、航空機の設計で重要なのはセンスだ、
と言ってましたが、まさにそういった感じがします。
(ちなみにハインケル本人はシュトゥトガルト工科大学を“飛行機が造りたくて”中退)

対して日本は中島の小島悌が東北大学、三菱の堀越二郎は東京大学、
川崎の土井武夫も東京大学出の全員超エリートであり、
彼らの造った戦闘機で戦って、日本は戦争で惨敗しました。
もっとも日本の戦闘機の場合、エンジン性能、さらに品質管理いう
致命的な弱点があったので、この辺りは彼らばかりの責任ではありませんが、
それでも何か考えさせられるものはありますね。


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