■ユンカース Ju-87B2 スツーカ 



■急降下爆撃機という機体

急降下爆撃、というジャンルの軍用機がかつてありました。
爆弾を単に投下するのではなく、目標に向けて突っ込んで行きながら切り離せば、より命中率が高まる、という考え方から生まれたものです。
ただし照準システムが進化し、さらに爆弾が誘導式になった結果、水平爆撃でも十分な命中率が期待できる現代航空戦では絶滅済みの機種です。

で、その急降下爆撃の代名詞、と言えるほど有名なのが、ドイツのユンカース Ju87スツーカとなります。
(そもそもスツーカはドイツ語の急降下爆撃機Sturzkampfflugzeugの略

ナチスによるドイツ軍の再軍備が始まった半年後、1935年9月に初飛行(つまり軍備禁止時代から設計は始まっていた)、以後、第二次大戦初期に大活躍をした機体です。
重砲や対戦車砲が満足に揃わなかったドイツ陸軍の地上支援で絶大な効果を上げました。
特に対フランス&低地諸国相手の西方電撃戦ではより強力なフランス戦車に苦戦するドイツの機甲部隊の支援に大活躍を見せます。
この機体がなければ、西方電撃戦におけるグデーリアン、そしてロンメルの機甲部隊による高速突破、戦線崩壊戦術はとん挫していたでしょう。ドイツは空飛ぶ砲兵としてこれを活用したわけです。

この辺りはイギリス側の公刊戦記HISTORY OF THE SECOND WORLD WARにおいても「ドイツ空軍は砲兵の代わりを務め地上部隊を支援した(took the place of artillery in support of German ground forces)」とやや驚きを持って述べられています。
当時、中途半端に戦略空軍だったイギリスにはこういった用兵の発想は無く、やや衝撃的に受け止められたようです。ただしそれでもイギリス空軍は改めて急降下爆撃を開発はせず、二線級の戦闘機、ハリケーン、タイフーン、最後はテンペストなどを地上攻撃に投入して対応します。
まあそれが実は正解でもあったのですが。後で見るようにドイツ空軍も途中からFw-190を戦闘爆撃機に切り替えて、このJu-87の代わりとしてますから。

Ju-87の活躍は開戦から2年目、1940年5月の西方電撃戦あたりまでが限界で、その後、強力な戦闘機部隊を抱えた敵とまみえる事になるイギリス本土、北アフリカ戦線では凄惨なまでの損害を受けました。
鈍足なJu-87は制空権の無い戦場では極めて脆弱な機体であり、もはや活躍は不可能だったのです。この結果、以後は徐々に第一線から引き上げられ、その跡を継ぐのが戦闘爆撃機に生まれ変わったFw-190となります。

ただしドイツ側が一定の制空権を握っていた1941年からの東部戦線、すなわち対ソ連戦線では以後も一定の活躍をしたとされますが、それでも1944年初頭ごろまでが限度で、あのドイツの急降下爆撃の鬼、ルーデル(Hans-Ulrich Rudel)も最後はFw-190に乗り換えてます。

■そのルーツ

急降下爆撃機という分野の機体を最初に実戦で使い、進化させたのはアメリカ海兵隊の航空部隊です。
(イギリス人は例によって(笑)イギリス空軍が世界初説を唱えてる事が多いが誤りである)

1910年代からハイチやらニカラグアといった中南米の国々に、アメリカは軍事進駐を強行、実質的に占領すると言う乱暴な外交を連発するのですが、この時のアメリカ側の主戦力だった海兵隊は現地のゲリラ部隊対策に手を焼きました。
その結果、視界の広い空から探し出し、地上の敵に確実に打撃を加える攻撃手段として開発されたのが急降下爆撃だったのです。
やがて陸軍、そして海軍もこれに興味を持つ事になりますが、1930年代に入りすでにボンバーマフィアの巣窟になりつつあったアメリカ陸軍航空軍は地上部隊のパシリみたいなジャンルの機体に興味を失ってしまい、急速にその流れから外れて行きます。

一方、アメリカ海軍は事情が違いました。
なにせ、広い海の中で高速移動(時速60q近くは出る)する目標が相手ですから、確実に爆弾を当てる手段があるならこれは見逃せないわけです。
実際、ノルデン爆撃照準器の原型となった水平爆撃用の精密照準器はアメリカ海軍が開発したもので、いかに空から確実に目標に爆弾をぶつけるか、は海軍飛行隊に取り第二次大戦戦を通じて最大の関心事項の一つで在り続けます。
この結果、急降下爆撃機は、アメリカ海軍艦載機の主要なジャンルとなっていたのです。

そして世界初の急降下爆撃を始めた海兵隊では、以後も伝統的に、地上部隊の火力支援は大砲よりも航空戦力が担うようになってました。
砲弾を大砲で空に飛ばそうが、爆弾の形で飛行機で運んで行こうが、そこから地上に落下した後の結果は同じ事です。
ならば敵の砲火にさらされて重砲陣地なんてつくれない戦場でも火力支援が得られる航空機は、敵前上陸を任務とする海兵隊にとって理想的な火力支援手段となっていったのです。
当然、当初は空母から飛来しますが、その後、島嶼戦ではとにかく最初に飛行場を抑え、これを活用して戦うことになります。これはガダルカナルから沖縄まで、常にアメリカ軍の戦術として行われ続けました。

■ドイツの事情

そしてヨーロッパにも急降下爆撃にハートを直撃されてしまった空軍がありました。
ハイテンションなチョビヒゲ率いる、あのナチスドイツ空軍です。ここで重要な働きをしたのがウーデット(Ernst Udet )でした。
後にドイツ帝国航空省(RLM)で航空機開発の責任者となる彼ですが、ナチスが独裁政権を取るまでは、第一次大戦のエースパイロットの肩書きを使ってスタント飛行や映画出演で食ってました。
この結果、ドイツの国民的ヒーローともいえる存在になっていたそうで、その人気をバックに、1933年に映画の仕事でアメリカに渡る事になります。

映画の仕事ですから、ハリウッド、つまり西海岸のロサンゼルスに彼は行ったわけです。
そしてたまたま、この年のナショナル エア レースが、いつものオハイオ州クリーブランドではなく、ロサンゼルスのマインフィールド(Mine Field)飛行場(現在のLAX、ロスアンゼルス国際空港)で開催されました。
そして現地滞在中のウーデットは、ドイツの有名パイロットとしてそこに招待されたのです(彼も仕事で飛んだ、という話もあり)。

この時、レースの間の飛行展示として、カーチス ホーク(初代ヘルダイヴァー)を使って海兵隊が急降下爆撃のデモをやって見せました。で、これを見たウーデッドは、心の底からこれにシビレてしまったのでした。
そしてドイツ帰国後、彼の人気に目をつけたナチスから、軍用機の技術開発部局長就任の誘いを受けると、以後その在任中、急降下爆撃まっしぐら、という方針を取る事になります。
すなわち一部で有名なドイツ空軍の急降下爆撃好きは、彼が原因です。重爆撃機にまでこれを求めた辺り、完全に狂ってましたが…。

そんな流れの中で生まれたのが、この機体、Ju-87スツーカなのでした。
なので、Ju87の初期のコンセプトは、アメリカ海兵隊と同じく、確実に敵地上部隊に打撃を与える、だったのですが、やがて独ソ戦では対戦車攻撃という新たな任務が加わって行きます(西方電撃戦でもやってはいたが)。
正面からの攻撃にはメッポウ強い戦車も、装甲の薄い上方向からの攻撃は想定外であり、航空機ならその戦車の装甲の弱い部分を狙い撃ちに出来るのです。
やがて戦車の最大の敵は航空機、という事になってゆき、東部戦線では、Ju-87は主に戦車狩に投入されて行く事になります(このための主翼下に37o対戦車機関砲を搭載するG型が生まれる。上面装甲なら世界最強のソ連戦車でもこれで撃ち抜けた)。

今回紹介する機体はシカゴにある産業科学博物館(Museum of Science and Industry)の展示機となります。
世界中で2機しかないまともな現存機の内の一機で、初期型のJu-87としては唯一のものです。
(もう一機はロンドンのRAF博物館にある後期型のG型)

ついでながら、ここでJu-87のバリエーションを簡単に見て置きましょう。

A型 
最初の量産タイプ。ただし生産数300機以下。

B/R型
事実上最初の量産型がB型、その燃料搭載量を増やして長距離飛行を可能としたのがR型。巨大なアゴ型ラジエターがあるゴツイ機首部が特徴。
(今回紹介する機体はB型)
いわゆる初期型で、西方電撃戦やバトル オブ ブリテン時の機体。初期の北アフリカ戦線、東部戦線にも投入。

C型
艦載型だが、そもそも空母が完成しなかったので試作でオシマイ。

D/G型
ここから後期型。
エンジンをより高出力のモノに変換、それに伴いゴチャゴチャした機首を再設計してキレイにまとめ直し、空気抵抗を大幅に減らしたのがD型。
(ただし重量増もあって20km/h前後しか高速にならず…)
それを対戦車戦用に特化させ、主翼下に37mm機関砲のガンポッドを搭載できるようにしたタイプがG型。
ただしG型は新規の生産ではなく、全て既存のD型から改造したようです。



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