ウクライナ側 主要人物インタビュー

ウクライナの軍事部門における中心人物四天王、スィルスキー将軍、タルナフスキー将軍、レズニコフ国防長官、ザルジニー参謀総長、の四人のインタビューが揃ったので、一度まとめておきましょう。今回はスィルスキー将軍、タルナフスキー将軍を取り上げます。

ちなみに最初にお断りしておくとウクライナの将官階級はややこしい上に開戦前後に大きく整理され変わっているので(ただし未だに以前の肩書を使っている将軍も多い)、今回の記事では全て“将軍”の呼称で統一します。とりあえず軍の最高指揮官ザルジニー参謀総長以外は、基本的には皆同じと思っていいようですが…。外部からでは正直、良く判らんのです。

今回紹介するスィルスキー将軍は戦闘指揮官としては最高位の司令官だと思われます。それとは別に象徴的な地位として参謀総長が居たのですが、無能だった前任者をクビにしたゼレンスキー大統領によって抜擢されたのが現在のザルジニー将軍。そしてザルジニー将軍以降は参謀総長にかなりの実権が与えられたらしいのですが、詳細はよく判らず。少なくとも人事権を含めた軍の総合指揮系統ではスィルスキー将軍よりもザルジニー将軍が上、ただし実際の作戦、戦術にどこまで口を出せるのかは不明、という所でしょうか。

アレクサンドル・スィルスキー(Олександр Сирський)将軍

まず最初はウクライナ軍の戦闘指揮の最高責任者、スィルスキー将軍へのインタビューから。絶対とは言い切れませんが、初期のキーウ首都防衛戦、そして世界を驚かせた2022年9月のハルキウ電撃戦の作戦立案と指揮官だった可能性が高い軍人さんです。今回の記事は開戦から10カ月経った2022年12月16日に公表されたもの。以下、要訳しておきます。

 

■Photo UKRAINE MILITARY MEDIA CENTER


予定時間から2時間後にウクライナ東部の作戦本部近くの約束の場所に到着した彼は、記者に遅刻を詫び、インタビューが始まった。

「戦争における奇襲の成功というのは、よくあることだ。戦争における不意打ちは珍しくない。全てがうまくいっていると思った直後に、嵐に見舞われるのだ」
オレクサンドル・スィルスキーはハッキリとした話し方で言葉を刻み、その声には緊張が感じられる。ウクライナの血なまぐさい東部戦線での作戦運営のストレスからか、疲れ切っている様子だ。
「しかしロシア人はバカではない。ロシア人を甘く見る者は失敗する運命にある」
(筆者注・敵の不意を突いた奇襲作戦で一気にロシア軍を数十km押し返したハルキウ電撃戦への談話であると同時に、自分達も油断すると同じ目に会う、という事だろう)

綿密な計画にこだわる厳格な男、熱狂的なジム愛好家(司令部に運動器具を設置したほど)と評されるウクライナ軍司令官は現在、ロシア軍が再結集し全力を投じている、ドンバス地方のバフムート市攻防戦に対する指揮官となっている。

「ロシア軍は新しい司令官セルゲイ・スロヴィキン将軍のもとで戦術を変えている。ロシア軍は小規模だが、統制された強襲部隊で攻撃して来ている(筆者注・このロシア軍の戦術変更についてはいずれまた触れます)。これは兵士の命という犠牲を伴うが、ロシアでは人命は最優先事項ではないのだろう。一方、私は、全てのウクライナ軍の犠牲を心の中で感じている」
(筆者注・オネエ系毛髪無しキャラだったスロヴィキン将軍は、この後、速攻で退任に追い込まれた。これは軍人なのに私兵集団ワグネルに近い立場を取るスロヴィキンが軍上層部に嫌われたからである可能性が高い。スィルスキー将軍はこのスロヴィキンが後の悪名高きロシア軍による人海戦術へ戦術変換した犯人だと見ている。一般的にはその後の報道や本人の暴走などからワグネルのボス、プリゴジンが犯人と見られるが、スィルスキー将軍が言うように時期的にはスロヴィキンが一枚噛んでいても不思議はない。いずれにせよ、軍人としては二流である)

将軍はモスクワから200キロ離れたロシアの都市ウラジーミルで生まれたが、1980年代からウクライナに住んでいる。小隊から始まるウクライナ軍のほぼすべてのレベルの部隊を指揮した経験がある。2019年にウクライナ陸軍の最高指令官になる前は、ウクライナ軍統合作戦本部司令官を務め、当時のロシアが介入した内戦に置いて多くの戦闘で重要な役割を果たしている。
(筆者注・内戦中のウクライナ軍、特に2014〜15のウクライナ軍はお粗末で最悪な戦闘を繰り返し、ほぼ一方的に押されまくった。そこでスィルスキー将軍が何をしていたのかは、個人的にちょっと気になっている)

スィルスキー将軍は2021年7月に軍司令官(参謀総長)に就任したよりザルジニー将軍より、当時の指揮系統上ではずっと上の立場だった。このため露骨に両者の緊張をあおろうとする者もいるかもしれない。こうした結束の亀裂は、欧米の軍高官にも懸念されている。だが二人の将軍は、互いを完全に信頼し、政治に関与しないことを望んでいるという。
「軍人は政治からは手を引かねばならない。法がそう定めているのだ」

彼は多くのロシア人指揮官とともに教育を受けたが、これは彼と同世代のウクライナ人にとっては珍しいことではない。モスクワの高等軍事指揮学校を卒業したが、ソ連のウェストポイント(米国陸軍士官学校)に相当する存在だ。ただし彼自身の指揮のスタイルは、ソ連やロシアの封建的、貴族的な階級社会の慣習とは大きく異なっている。彼はNATOの原則である分権的な指揮を公言し、士気の重要性を強調する。彼によれば、現代の指揮官は常に現場と連絡を取り合っている必要がある。彼は毎日300通のメッセージを兵士から受け取っている。
「現場の部隊の状況を感じなければならない」と彼は言う。そして作戦指揮の方針においては、ロシアの火力優位を相殺するため、欺瞞と奇襲の要素を重視している。
(筆者注・この辺りは後で登場するタルナフスキー将軍、そしてザルジニー将軍と驚くほど似た主張になっている。どちらかが影響を与えた、あるいは互いに与えあった可能性が高いだろう。これらは意思決定の分散による集団OODAループの高速化、そして観察段階で敵に欺瞞情報を与えて混乱させる攻撃的なOODAループの運用である。OODAループの概念無しでこの二つが並んで出てくる事は考えにくいので、恐らく彼はそれを知っている)

開戦直後のキーウ近郊でロシア軍はウクライナ軍に対し12対1の数的優位にあったが、彼は軍学校から臨時大隊を編成し、ゲリラ集団を使ってキーウに向かおうとしていた64kmに伸びきった補給輸送隊の車列を攻撃した。彼によると状況は極めて緊迫しており、敵はいつでも目的を達成できる可能性があった。

9月のハルキウ地方の戦い(筆者注・ハルキウ電撃戦の事)では既存の旅団から選抜した小部隊で編成された軽武装の機動部隊を使った。最も野心的な目標であったロシアの重要な物流拠点であるクピャンスクとイジュームの解放は、5日目に達成された。

「もしこの時、さらなる援軍があれば、隣接するルハンスク州の北部一帯、クレミンナ(Кремінна)などでロシア戦線のさらに深刻な敗北が起こっていた可能性は十分にあった(筆者注・親ロシア派の拠点であるルハンスク人民共和国の勢力圏内の事)。しかし、ウクライナ軍は南のリシチャンスコホ(Лисичанського)製油所付近での戦闘に巻き込まれ、さらにロシア軍は新たに動員された数千人の兵士を戦場に投入した結果、攻勢を食い止めてしまった(夏までの激戦地だったセベロドネツクの西にあるリシチャンスコホの街の事。ロシア語名称だとリシチャンシク)。

「兵力はいつも足りない。この戦闘ではほとんど予備役を使って戦った」と将軍は言う。

「現在の緊急の課題は、ウクライナへの武器供給の速度を維持することである。弾薬は第二次世界大戦に匹敵する勢いで消費されている。戦闘は砲弾をいち早く野砲に届けることができた側が勝利するだろう」

勝利とはどのようなものかと問われるとゼレンスキー大統領が常に宣言している言葉を繰り返した。
「敵を壊滅させ我々の本来の国境に立ったとき、ウクライナは勝利する」

当面の間、ウクライナは、「積極的な防衛」を続ける事になるだろうと将軍は言う。もっと野心的なことを考えているのでは、と問うても将軍は控えめな態度で、詳細を明かさない
「ただ一つ言えることは、我々は敵を注意深く研究しているという事だ。すべての毒には解毒剤があるのだから」

https://armyinform.com.ua/2022/12/16/boyeprypasy-vytrachayutsya-zi-shvydkistyu-yaku-mozhna-porivnyaty-z-tiyeyu-shho-bula-v-period-drugoyi-svitovoyi-vijny-oleksandr-syrskyj/

 


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