■清洲体制の崩壊

さて、前回に見た清洲会議によって、信長亡き後の新たな織田家の体制が固まったはずでしたが、これは速攻で崩壊します。家中で最大の兵力を握る秀吉と柴田の仲が悪かったんですから、当然と言えば当然の展開でした。さらに秀吉もまた、天下簒奪の野心を隠さなくなって来るのです。

まず信長の孫にあたる嫡男、三法師の後見人で織田家の頭領代理である第三子の織田信孝と秀吉が対立しつつありました。天正記によると織田家の嫡男である三法師を信孝の居る岐阜城から安土城に移すように秀吉が要請、これを信孝が拒否したとされます。秀吉側の言い分は信孝が織田家当主の座を奪おうとしている、対して信孝もまた秀吉が天下簒奪の野心を持っているとして対立したようです。この辺り、実はどっともどっちでその通りなんですが…。

ですが神戸家の養子から織田家に戻って来たばかりの信孝には秀吉の軍事力に対抗するだけの兵はありませぬ。織田家の宿老たちも自分の軍団の兵力を割いてまで与えるなんて絶対にしないわけです。そうなると秀吉と敵対関係にあった柴田と接近するのは当然な結果でした。そして詳細は不明ですが、宿老から外された滝川も柴田&信孝陣営に引き込まれます。対して四国遠征で信孝の副官だったはずの丹羽長秀はあっさり秀吉側に付きます。名目上の宿老とは言え、池田も既に見たように、基本的に秀吉陣営に入ってました。そしてお馬鹿さんこと信雄ちゃんは信孝とは犬猿の仲だったと思われるので、自動的にこれが秀吉側に付くわけです。こうして清洲会議後の織田家の情勢は最大の軍事力を握る二人、秀吉派と柴田派に別れて争う事になります。

 羽柴秀吉派

 柴田勝家派

 
 信長第二子 織田信勝(頭弱し)

 丹羽長秀(宿老)
 池田恒興(宿老)
 信長第三子 織田信孝(三法師付き)

 滝川一益(信長時代の六軍団長の一人)

そもそも宿老三人が羽柴派に属するので勝負あった感が強いですが、織田家の嫡男である三法師と、その後見人とされた信孝が柴田派に回ったので、この段階ではまだ、どちらが正統な織田家の継承者化は微妙でした。このため、秀吉にとって以後は三法師の奪還と信孝の後見人の地位からの追放が問題となって来るわけです。

それでも同年旧暦10月(現在の11月)に秀吉の主催により京で信長の葬儀(天正記によると警護の兵だけで三万人動員した)を行うまでは平穏だったのですが、以後、一気に情勢が動きます。ただしこの葬儀には信雄も信孝も参列してないので、羽柴派による政治的な示唆行為とも言え、秀吉が信長の継承者として天下に野心を示した、とも取れます。

その葬儀の後、京都の南西、例の山崎の合戦のあった地に、秀吉が山崎城を完成させた事が柴田陣営を刺激しました(秀吉の手紙から旧暦7月には普請を開始していた事が判るが、その後、一気に完成させてしまったらしい)。
長浜を引き払い遠くの姫路城に移ったはずの秀吉が京に間近な山崎に新たな城を築いてしまったわけですから、これを脅威とするのは当然と言えば当然の話です。

イエスズ会日本年報によると、柴田と信孝が抗議の手紙を送り、城を取り壊さなければ春には攻め込むぞ、と宣言したようです。対して秀吉も、来るなら来い、誰が天下の君になるか決戦でヤンス、と返答したとされ織田家からの権力簒奪の意思を隠そうとしてません。が、春に攻め込むぞと言われて、それを待ってるほど秀吉はお人好しでも馬鹿でもありません。当然、冬の間、雪で北陸に居る柴田が動けない間にどんどん手を打って行くのです。

ちなみに徳川宗家に、この時期、柴田勝家が丹羽長秀に送った書状が伝わっています。9月3日の日付があり、その内容は三法師を安土に移す問題に反対を表明し、その上で秀吉を批判しており、丹羽を何とか自分の側に引き込もうとしてるのが感じられる内容です。だた今更何を言ってるの、という感じでもあり、当然、無視されました。駆け引き下手だなあ、というのが正直なところ。

そして信長の葬儀が終わった直後の旧暦10月末に柴田を除く宿老三人の名で岐阜城の信孝を三法師の後見人から解任、羽柴派の織田信雄に代行させる、という決定が成されます(家康に同意を求める書状が残っている)。

この時は柴田勝家も名指しで織田家に対する謀反を目論んだと断じられており、事実上の宣戦布告に近いものだったと思われます。これによって柴田、そして信孝は織田家にとって公式に敵とされてしまったのです。ちなみにこの段階ではまだ滝川の名が出て来てないので、彼の合流のこの後だと思われます。そして現在の暦なら11月下旬(恐らく20日前後)にこの決定がなされたのは、当然、偶然ではありませぬ。雪で閉ざされ、北庄(福井)に居る柴田が動けなくなる時期を狙ったものだと見るのが自然です。

これで後は三法師を手に入れてしまえば、羽柴派は正統な織田家の後継者となれるわけです。すなわち以後は信孝の岐阜城に置かれた三法師の存在が焦点となります。…なるんですが、柴田も信孝も驚くほど呑気でした。この間、何らかの手を打った形跡は無いのです。秀吉の敵ではない、と言う他ないでしょう。

とりあえず、この時期の状況を地図で確認しておきましょう。赤字が羽柴側、青地が柴田側の居城です。
この段階で安土にはまだ有力武将は入っておらず中立なんですが位置的に羽柴側に飲み込まれてると思っていいでしょう。



遠くの姫路城に居る事になっていた秀吉が山崎城に移ることで、安土、そして柴田側が手に入れたはずの長浜が脅威にさらされる事になるわけです。ちなみに丹羽長秀がどこに居たのかを示す資料が見つからなかったのですが、その居城である佐和山城を動く理由は無いので、ここに居たと思われます。
すなわち元は秀吉の居城だった長浜城と丹羽長秀の佐和山城が両者の最前線となります。ちなみに信長が建てさせた安土城は天守閣などを焼失していたものの、城としての機能は失って無かったようで、以後も秀吉側が利用しています。

そして、この時期になって柴田&信孝陣営に引き込まれた滝川は地元の長島城に立てこもって、秀吉と対立する事を決めたようです。これによって柴田、信孝、滝川の共同戦線が成立するのですが、御覧のように総延長で軽く100kmを超え、典型的な戦力分散が行われてしまっています。そして秀吉の軍勢とまともに正面からぶつかれる戦力は北の果ての柴田だけが持っていたのです。すなわち北陸が雪で閉ざされる冬の間、柴田派の戦力は圧倒的に不利になる、という事でした。当然、秀吉はこの弱点を突いて敵の戦力が集結する前に、高速で各個撃破して行く事にします。いわゆるナポレオン戦法ですが、まあ戦争の天才は皆これをやります。

ただし、この重大な時期、次男でありお馬鹿さんとされていた信勝がどこで何をしていたのか、今一つ、よく判りませぬ。おそらく清洲城に入っていたと思うんですが確証は無し。まあ、正直、どうでもいいでしょう(笑)。

■長浜奪回

こうなると秀吉にとり、かつての本拠地である長浜城の奪回が至上命題になります。
山間の琵琶湖岸にある安土、佐和山から信孝と三法師の居る岐阜城に向かうには関が原の峠を通るしか無く、その入り口を抑えてしまっているのが長浜城だったからです。同時に北から賤ケ岳周辺を通過して来る柴田軍団を抑えるにも長浜城の確保が絶対条件です。そして既に見たように、ここには柴田勝家の養子で次男である勝豊が守っていました。

このため両陣営の決裂が決定的になった後、旧暦12月に入ってから秀吉はすぐさま長浜城攻めに出ます(天正記。豊鑑には長浜攻めの記述は無い)。この1582(天正10)年は特に雪が多かったようで、柴田は本拠地の北庄(福井)から全く出れず、そしてすぐ近所ながら岐阜の信孝に応援に出せる兵力はありません。よって長浜城は完全に孤立無援でした。なんでこの段階で秀吉にケンカ売るかなあ、としか言えない状況で、まあ柴田は逆立ちしても秀吉の敵では無かった、という事でしょう。

この不利な条件に加え、長浜に居た柴田勝豊は家内での扱いが低いことに不満を持っており、あっさり降伏した上に秀吉側に寝返ってしまったとされます(天正記)。この寝返りの後、勝豊は琵琶湖北岸、賤ケ岳の北にある天神山に出城を構築、義父の柴田の本拠地である北庄(福井)に通じる北国(北陸)街道の出入口を塞いでしまいました。これが天神山砦です。

ただし勝豊は既に病を得ていたようで間もなく病死、その家臣団に怪しい動きで出て来るのですが、この点はまた後で。とりあえず、この勝豊の寝返りで交通の要衝である長浜城を秀吉は取り戻し、同時にやがて南下して来るであろう柴田軍の動きも天神山砦で抑え込んでしまったのです。

第一回岐阜城攻め

長浜城を落とした秀吉は、そのまま三万とされる軍勢を率いて織田信孝の居る岐阜城まで乗り込み、これを包囲してしまいます。春まで待ってる馬鹿が居るか、という話ですね。当然、信孝単独でこれに対抗する兵力はありませんから無条件降伏となり、三法師を秀吉に引き渡します。ただし、さすがに旧主君の息子を手に掛けるわけには行かず、この時の秀吉は人質だけを取り、信孝を岐阜城に残し引き上げました。

この信孝の降伏と三法師の奪回後、12月21日の段階で秀吉、丹羽、池田の宿老三人が柴田を無視して、次男の織田信雄に織田家の家督を継がせる事を決定した、という書状が残って居ます。明確に「家督」と書かれてるので頭の弱い信雄さんが織田家の総責任者となった事を意味します。ただし三法師を廃する気なら今回の岐阜攻めは必要無かったわけで、これは三法師の後見人としてその成人まで織田家を仕切る、といった立場と見るべきだと思われます。まあ、どっちにしろ既に秀吉は権力の簒奪を決意してると思われ、そんなに意味はないんですが。

その後、年明けと共に秀吉は姫路まで戻って1583(天正11)年の旧正月を過ごし(太陽暦で2月)、その後、安土城に入って信孝から取り上げた三法師をここに置きます。そしてその後見人として織田信雄を安土に呼び出しました(ここでようやく所在が判明。もはや秀吉の言いなりに近いのに注意)。

その直後、旧暦1月中(太陽暦2月)に今度は長島の滝川を討つ兵を秀吉は起こします。
一度引き上げてからの再出陣なので、どうも滝川の挙兵は岐阜城の戦いが終わった後だったようで、この辺りの連携の悪さも柴田陣営のお粗末さを感じさせる所です。というか、もう少し待てば雪解けで柴田も直ぐに動けたのに、なぜこの時期に挙兵したの、というのは何年考えても理解できませぬ。秀吉側が何か仕掛けたのか、あるいは柴田&滝川コンビはそんな事も考えられない連中だったのか…。

当然、まだ冬の真只中で柴田は動けません。その間に片づけてしまおう、と秀吉は思ったのでしょうが、仮にも織田家の軍団長の一人だった滝川ですから、予想外の大苦戦を強いられます(ここまで天正記)。

打って出る気は全く無かった滝川は本拠地である長島城の他、亀山城(東海道経由で琵琶湖岸から伊勢長島方面に向かう経路の途中にある)、峯城を始めとする多くの城で徹底的に防御を固め、数カ月に渡って秀吉の軍勢をこの地に釘付けにしてしまうのです。この結果、間もなく旧暦3月を向かえる事になり(豊鑑)、雪解けとなった北陸からついに柴田がその軍勢を率いて南下を始めた、との報せが秀吉の元に届きます。念のため、再度この地図で位置関係を見て置いてください。




この段階までに亀山城は落ちてましたが、滝川一益の立てこもる長島城などは頑強に抵抗を続けていました。
ただし打って出るほどの戦力を持たないのは明らかでしたから、秀吉は抑えの兵を残すと安土城に戻り、柴田軍の南下に備えます(天正記)。この時、現地の指揮官として信雄が呼び出されて亀山城に置かれた事になっており、もう完全に秀吉の思うがままでした。家督を継いだ信雄を現地に置くことで織田家による正規軍となり、こういった大義名分は心理戦で意外に効果がありますから、それを狙ったのだと思います。

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