■そして賤ケ岳へ

秀吉が安土に帰り着いた直後に、賤ケ岳の北に位置する天神山砦が柴田軍から攻撃を受けました。
長浜城で秀吉側に寝返った柴田勝豊が造ったあの出城です。この時の柴田軍は周囲の村落に放火するだけで撤退してしまったのですが、これを聞いた秀吉はすぐさま安土城から出陣します(天正記)。恐らく伊勢長島から帰還後も動員を解かず、すぐに出撃できるようにしていたのでしょう。安土城に入ったのはそれだけの兵員を収容するのには長浜城では手狭だったからだろうと筆者は想像してます。

この時期の状況を地図にまとめると以下のような状態ですね。 ちなみに勝家、秀吉、両者とも北国(北陸)街道を使って戦場に出ており、この街道を突破する&防御するための戦闘だったわけです。当サイトでは何度も指摘してるように、戦国期の戦いの多くは街道の通行を確保するために発生している、というのがお判りいただけるかと。



雪解けと共に北庄(福井)を出た柴田勝家は北国街道が琵琶湖岸に出る手前、柳ヶ瀬の郷に陣を張ります。ここは当時から北の越前、すなわち柴田の本拠地である福井方面と、西の敦賀、秀吉派の丹羽長秀が抑える土地に向かう街道が分岐する交通の要所だったからでしょう。羽柴軍が築いた天神山砦から約6q前後北の場所になります。
このため、柴田側として参戦した前田利家は一連の戦闘を「柳ケ瀬合戦」と呼んでいます(利家夜話)。

この柳ケ瀬の集落の西、標高491mの内中尾山には玄蕃尾(げんばお)城と呼ばれる山城があります(跡地は国の指定史跡になってる)。天正記にも豊鑑にも利家夜話にも一切の記述が無いのですが、地元の伝承では柴田軍はここを本陣としたとされています。現地の地形とその後の戦闘を見る限り、柴田側がここに陣を構えたのは間違いないですが、本陣だったかはやや微妙で、この点はまた後ほど。
ついでに柴田軍の事実上の指揮官だったと思われる佐久間盛政の通称が「玄蕃」であり、「尾」は山並みを意味するので、佐久間盛政の山城、という意味の名の城となっています。

柴田軍はその玄蕃尾城に着陣すると同時に街道に沿った山脈の尾根伝いに幾つもの砦を築き、周囲を城砦化してしまいます。
すなわち打って出るというよりは迎え撃つ、という体制を取ったのです。個人的になぜそうしたのかは理解出ません。この段階では秀吉はまだ本格的な街道封鎖をしておらず、柴田軍が全力で襲撃すれば天神山砦は突破できたはずです。
高速機動にまさる戦術はありませんので(OODAループで先手を取れる)、わざわざ城砦建築で自ら時間を浪費する理由は無いはずなんですけどね…。とりあえず、この守備的な城砦群が完成した段階で、秀吉を挑発するため天神山砦にちょっかいを出したのでした。城砦群の下の狭い谷間に羽柴軍を誘い込み、包囲殲滅する気だったと思われますが、秀吉も百戦錬磨の大将ですから、そんな誘いには乗らなかったのです。

秀吉第一回出陣

報せを受けた羽柴軍団は秀吉本陣の前に十三段もの陣を構え、柴田と決戦する気満々で安土から出撃しました。
ところが天神山砦付近に到達した秀吉は、十町から十五町(約1200〜1700m)の距離をもって対峙した柴田軍の前衛が妙に貧弱なのに気が付き不審に思うのです。このため僅か六、七の騎兵に混じり密かに偵察に出撃、天神山砦から先の山地は柴田軍によって完全に城砦化されているのを発見します(天正記)。すなわち街道の柴田軍前衛が手薄なのは砦の下の街道筋に誘い込む罠だと秀吉は速攻で見抜きました。同時に砦に籠ってしまった以上、柴田軍は今すぐ決戦する気は無い、という事にも気が付きます。

繰り返しますが、これは柴田軍にとり完全な愚策でした。そもそも素早くここを突破し、岐阜城の織田信孝、そして伊勢長島で頑張ってる滝川一益に合流しなければならないのです。時間が経てばたつほど柴田陣営はじり貧になります。その間に秀吉が各個撃破しちゃうのですから。実際、こここで羽柴軍と対峙してる間に滝川一益が守っていた城の一つ、峯城が落城してます(天正記)。

こうなると無理に戦う必要は無いし、敵の罠に跳びこむ理由も無いので秀吉は決戦を中止、一時撤収を決めます。
ただし以後も街道封鎖によって柴田軍の南下は防がねばなりませぬ。その場合、天神山砦は敵の砦に近すぎるため守り難いと秀吉は判断、約1q南の同木山に新たな砦を築いて前線を後退させます。さらに賤ケ岳周辺に複数の砦を築いた後、現地指揮官として弟の羽柴秀長を置き、秀吉本人は長浜まで撤収してしまうのです(天正記)。

この間、一切の日付の記述が無いのですが、長浜に戻った秀吉が現地の秀長に送った手紙がいくつか現存しており、少なくとも3月末には秀吉は長浜に戻って居たことが確認できます。よって最初の出兵も3月中であり、4月21日の賤ケ岳の戦いまで一か月近く前の段階で最初の接触があった事になります。



賤ケ岳山頂より北側を見る。手前の湖は余呉湖。

写真で見れば判るように天神山砦、そして次に造られた同木山砦、どちらも北陸街道を封鎖する要害になってるのを見てください。ここに城を築いて街道上の動きを封じてしまえば琵琶湖岸には抜けれません。この状況を見て、じゃあ街道を通過せず、山沿いに突破してしまえと考えたのが柴田軍で、これがこの合戦を世界的に見ても極めて珍しい山岳土木戦にしてしまうのでした。この辺りは次回以降、詳しく見ます。

ちなみに北陸方面から琵琶湖岸に抜けるにはここを突破するしか無いのですが、途中で北西の敦賀方面に抜ける道もありました。ただし敦賀は秀吉の同盟者の丹羽長秀の領地ですから、こちらは丹羽が街道を塞いで容易には突破できなくし、柴田軍の動きを封じてしまいます(天正記)。同時に柴田としては正面の秀吉と戦っている間に敦賀方面から出て来た丹羽に背後を突かれる恐れが残ります。このため敦賀方面からの街道が合流する柳ケ瀬に陣を置いて牽制したのでしょう。この辺り、天正記にも豊鑑にも記述はありませんが、丹羽が意外に重要な軍事的な牽制をやっていた可能性があります。とりあえず、これによって秀吉派の中では比較的多くの兵を持っていた丹羽は賤ケ岳の合戦に参加できなくなってしまったのでした。

■再び織田信孝

そして、この両軍対峙の段階で再び動いたのが、柴田派の信長の息子、岐阜に居た織田信孝でした。
秀吉に対し再度、反旗を翻したのです。ちなみに天正記でも豊鑑でも信孝の独自判断で行動したように書かれてますが、普通に考えれば柴田から秀吉軍の背後に新たな戦線を造って、という要請があったと見るべきでしょう。ただし後ほど見ますが、本格的に羽柴軍と事を構えるような行動は無く、岐阜周辺で羽柴派となっていた武将の領地に放火した程度だったのですが、これを秀吉は利用してしまいます。

長浜城に戻って居た秀吉は旧暦4月16日、信孝討伐を宣言し、関ケ原を超えて岐阜城に近い大垣城に入りました(天正記)。ところがここで大雨の増水によって身動きが取れなくなり足止めされた、という事になっています。最終的にほぼ四日、大垣に逗留します。

 

そして秀吉が岐阜に向かった事を知った柴田軍は旧暦4月20日早朝(すぐに動いたわけではないのに注意)、初めて攻勢に出て来るのです。これを持って賤ケ岳の戦いの始まりとなります。まあ、話はそう単純ではないのですけども(笑)。

という感じで、今回はここまで。

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