■本能寺後の混乱

フロイスの「日本史」によると本能寺の変の後、岐阜から京都、大坂に至る当時の日本の中枢部は大混乱に陥りました。治安は一気に悪化し、街道中に山賊、物取りが横行、さらに各地で反織田勢力の動きが活発になります。

この混乱は織田信長と同時に嫡男の信忠も討たれてしまった事が原因でした(形の上では既に信忠が織田家当主)。
残された信忠の嫡男、三法師はまだ2歳であり、事実上、織田家の当主が不在になってしまったのです。そもそも信長、信忠の二人がそろって丸腰で京都に居たからこそ光秀は襲ったわけです。誰もが認める信長の継承者であり、すでに十分な経験を積んでいた信忠が生き残ってしまったら光秀に最初から勝ち目はありませぬ。ついでに信長から遊びに来いよ、と誘われて安土、京、堺を見学に来ていた信長の舎弟同盟者、徳川家康は僅か数日の差で京を離れ助かってます。

この光秀の反乱を撃破してしまったのが当時、備中高松城(岡山市)で毛利軍と対決中だった羽柴秀吉でした。
本能寺の変の翌日、6月3日の夜半にその報告を受けた秀吉は速攻で毛利と終戦交渉をまとめ、6日の午後早くに撤退を開始します(毛利側は本能寺の変を知らなかった。その知らせが来たのは7日になってから)。翌7日には中国地方攻略の前線基地だった姫路に到着(天正記による。豊鑑だと6日着だがこれは無理だろう)、8日(豊鑑による)にはここから明智軍迎撃のため出撃しました。
以後の羽柴軍の行動を追いかけると次の地図のようになります。赤の点線が秀吉の、黒がその他の主な武将の動きです。

ちなみに琵琶湖南岸で経路が別れるのは秀吉は三井寺、坂本経由で船で安土に向かったのに対し兵は陸路で移動したから。

 

この時の秀吉による迅速な行動がいわゆる「中国大返し」と呼ばれるものです。
予想外の秀吉の出現に、あわてて準備不足のまま迎え撃った明智軍は13日に都の南西、山崎の地で撃破されてしまいます。合戦後に光秀は戦場から逃走、琵琶湖岸の本拠地坂本城を目指しますが途中で落ち武者狩りに会って殺され、これであっさりその反乱は終わってしまうのです。

秀吉の幸運はこの段階で織田家でも最大規模の軍勢を抱えていた事、同時に明智軍との決戦の手前で、織田信長の第三子、信孝と合流出来た事でした。信孝は神戸氏に養子に入って家督を継いでたので既に織田家の人間ではありませんでしたが、信長の実子であり、そのお気に入りでした。その信孝と合流する事で秀吉は「信長の敵討ちのための正統な織田軍」となりました。さらに山崎の合戦に勝ったことで織田家中で一気に有利な立場に就きます。ただしその後、この二人は深刻な対立関係に入り、翌年には信孝は秀吉の指金で殺されてしまいます。

さらにこの時、信孝の四国遠征副官だった織田家の有力家臣、丹羽(にわ)長秀とも合流出来ました。両者の関係は対浅井家戦の時代から良好だったのでその後援を得る事が出来、織田家の家臣団の中でも秀吉は優位に立ちます。

山崎の合戦で勝利した後、秀吉の軍団は明智の本拠地、琵琶湖岸の坂本城を落とし(この途中で落ち武者狩りで討たれた光秀の首を確認)、さらに織田家の総本山安土城も奪回します。そのすぐ北が秀吉の本拠地、長浜城(姫路を拠点に戦っていた間も本拠地は長浜のまま。妻の北の方はここに居たと豊鑑にはある)も奪回し、最終的に織田信忠の本拠地だった岐阜に入ります。ここに突如織田家の当主となってしまった2歳の幼児、三法師が居たからでしょう(前ページの各資料から秀吉の岐阜入城は確認できないが織田信勝から岐阜城に居る秀吉に宛てた手紙が残って居る)。

秀吉軍団の到着でとにかく織田家領内の安定は計られました。
ただし既に見たように、その家督相続するべき三法師はまだ2歳であり、織田家は事実上の当主不在状態でした。すなわち誰に何の権利があるのかウヤムヤのままなのです。これでは何もできませぬ。よって、まずはこれを解決する必要があります。

そしてこの段階で北陸の北庄城(きたのしょう/福井城)から織田家生え抜きの有力者、柴田勝家がようやく到着、さらに北畠に養子に出されてその家督を継いでいた信長の第二子、信雄も伊勢(三重)から出て来たため、これを一堂に集め、織田信長の最初の拠点だった清須城で話し合いが持たれる事になります。ただし関東方面軍担当の軍団長だった滝川一益だけは会議に間に合わず、以後、その権力闘争から脱落してしまいました。

この時開かれたのが、いわゆる「清須会議」で、その開催は信長と信忠の死から25日後の事でした。この間、織田家の権力構造は完全に空白地帯だった事になります。

■徳川家康

ちなみに堺から命からがら地元浜松に逃げ帰った家康は本能寺の変から二日後の4日に岡崎城に、翌5日には浜松城に帰り着いてました。この時は織田家の状況が判らなかったからか、名古屋周辺を避け、知多半島を船で回って大浜の港(現在の碧南市)に上陸してます。

その家康は、浜松に戻った5日に出陣準備の召集を掛けています。そして12日に出陣、13日に岡崎、14日には昔懐かし、桶狭間戦の舞台になった鳴海城に入りました。ここで出陣決定から実際に城を出るまで一週間かかっている事に注意してください。さあ決戦だ、明日の朝にはレッツゴーなんて感じに簡単には戦争はできないのです。兵を集め、補給物資を集め、街道を進む順番を決め…とちょっと考えただけでも、相当な時間が必要な事は想像がつくかと思います。この点、秀吉は高松城で既に臨戦態勢にあった軍勢を率いて取って返せたのでした。

とりあず鳴海に入った翌15日に家康は山崎の合戦で光秀軍が敗北したとの報を受けるのですが17日には清洲の直ぐ西にある津嶋にまで進出します。津嶋には織田家の勝幡城があったのでそこに入ったのだと思われます。そこで秀吉から全て終わったから帰って頂戴ませ、との手紙を受けてようやく撤収を決意、鳴海経由で浜松に戻るのです(ここまで家康の家臣、松平家忠の日記による)。

以上は家康が織田家の地元に上がりこんでいた事を意味しますが、これが織田家と合意の上なのか、それを防ぐ力が尾張の織田家には無く家康が織田領を強行突破しようとしていたのかは不明です。そんな家康の行動に秀吉は何らかの野心を感じ、さっさと帰れ、織田家の問題に首を突っ込むな、と警告してるわけです。岐阜では無く、家康が進出して来たすぐ側の清洲で会議を開いたのは、徳川への牽制の意味もあったのかもしれません。

実際、この速やかな家康の進軍は信長の盟友として明智を討つ事で覇権の後継者となろうとした、というのが定説です。既に信州や甲斐で反織田&徳川の動きが活発になりつつあった中での強行軍は余程の理由があったはずで、確かに天下を取ったる、という考えはその原動力になり得ます。
ただし個人的にはヤング家康(当時39歳)の頭に血が上りやすい性格、明智の野郎、ちょっと二枚目で学があるからっていい気になりやがって、ぶっ殺してやる!という怒りが理由だったんじゃないかなあ、と思っております。この段階ではまだ明智軍がどれほどの戦力を持つのか、尾張、美濃は既に明智軍が抑えてるのか、といった情報はほとんど無いままの出撃だったはずですし、勝ったところで織田家の有力軍団長たち、秀吉、柴田、滝川を抑え込める保証は無かったのですから。



三方ヶ原の戦いといい今回の出陣といい、とにかく頭に血が上りやすかった印象があるヤング家康。写真は浜松城にあるマイ タンバリンとマイ マイクを持ってカラオケに向かうヤング家康像。以後、熱唱であったろうと想像されるもの。

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