清州会議

清洲会議では生き残った織田家の一族の処遇、そして有力家臣団による織田家の統治機構の設立が決められます。
ちなみに確認できる範囲内でこの会議に参加した信長の息子は第二子の信雄と第三子の信孝だけでした。第四子(天正記では五男とされるが後の一人が誰か不明)の秀勝は羽柴秀吉の養子だったのですがこの段階でまだ13歳で参加せず(後に病死)、それ以下は問題外とされてしまったようです。

とりあえずこの会議の結果を理解するには参加者、不参加者、それぞれがどういった人物だったのかを知る必要があります。よってこの辺りをざっと表にしてみましょう。

信長の息子たち

 信雄  
 織田信長の第二子。本能寺の変の段階で24歳。
 伊勢(三重)中部を支配した北畠家に養子に入り、乗っ取るような形で家督を継いでいる。
 よって本能寺の変の段階では北畠家の当主だった。本能寺の変の後、織田家に戻る。
 秀吉に利用するだけ利用され、家康に迷惑を掛け、最後は江戸期の小規模な大名の一人となる。

 フロイスの日本史では明確に「ふつうより知恵が劣っていた」(中公文庫版翻訳)と書かれている人物。
 ただしフロイスの記述は非キリスト教徒に厳しいので一定の注意は居るのだが、その場合でも
 悪魔、残酷、悪徳を行うだのという評価が普通であり、知恵が劣ってる、といった記述はまず無い。
 よって単純に馬鹿だったと思っていいだろう。
 
 信孝とは極めて仲が悪かった。ちなみに織田三兄弟は全員、異母兄弟である。

 清洲会議では織田家の尾張領(愛知)を相続する。

 信孝  
 信長の第三子。ただし信雄とは同年齢の24歳。
 こちらは伊勢(三重)北部を支配していた神戸家の養子に入り、これも家督を簒奪している。
 本能寺の変の後、織田家に戻ったのも同じ。

 四国征伐の司令官に任命され、堺で今まさに四国に渡ろうとしていた時に本能寺の変が起きた。
 この段階で光秀の軍勢に最も近い位置に居た軍団の指揮官だったが信長、信忠の死を知った
 寄せ集めの軍勢は四散、副官の丹羽長秀の軍勢と合わせても明智に対抗できないと判断した。
 このため毛利と和睦して引き上げて来た秀吉と合流、山崎の合戦に参加する。
 ただしこの辺り、信長本人なら、多少兵数が少なかろうと明智相手に負ける故なし、
 (先手を取って主導権を握れば、常にOODAループの回転で先行できる)
 と速攻で坂本めがけて北上したはずで、この辺りがこの人の限界なのだろう。

 それでも信長の息子の中では最も優秀であり、人望もあったらしい。
 信長のお気に入りであり、優秀な人材である、この信孝をキリシタンにできれば
 キリスト教徒の大支柱になったろう、とフロイスは述べている。

 実際、唯一人、後に秀吉によって殺された織田家の有力者でもあった。
 秀吉にとって恐れねばならないだけの人材だったのだろう。
 (形の上では次男の信勝が切腹を命じたが、当然、秀吉の指金である)
 その他の織田家の有力者、信雄も三法師(秀信)も皆、殺されずに江戸期まで生き長らえたので、
 信孝の死は唯一の例外であり、それだけの理由があったと見るべきだろう。

 ただし織田家の家督争い中、秀吉がその実権を握ってい行く過程の行動を見る限り
 ややお粗末であり、所詮は信長の息子の中ではマシな方、程度の人材だった可能性も高い。
 地獄のタヌキ親父だらけの織田家臣団の敵では無かったと思う。
 
 ついでに言えば、本能寺の変の段階で堺に居たとフロイスは述べている。
 事実なら家康と同じ場所に居たのに、家康はこれを頼らず命懸けの脱出を選んだ事になる。
 家康と一緒に居た穴山梅雪(武田家から織田側に寝返った有力武将)も同じ。
 さらに四国遠征軍で副官として付けられていた丹羽長秀も後にあっさり彼の元を離れるので、
 どうも人望が無かったのでは…という疑惑は残る。
  
 そして当然、信雄とは極めて仲が悪かった。
 
 清洲会議では織田家の美濃領(岐阜)を相続、居城を岐阜城として嫡男の三法師を引き取る。


●家臣団

この時期の織田家は軍団長型組織の運用で全国制覇を狙っていました。この点はこちらの記事を参照してください。
織田家の中で有力な地位にあり、軍事力も把握していた軍団長六人の内、この段階では佐久間信盛は失脚して不在、光秀は反乱を起こした張本人ですから、残るのは秀吉、丹羽長秀、滝川一益、そして柴田勝家の四人となります。

この四人が織田家の家臣団を統べる事になる、というのが自然の流れなのですが、最も遠くに居た関東方面担当の滝川一益は、距離がある上にそもそも織田家に反感が強い土地だったため、身動きが取れなくなります。
さらに北条氏と一戦を交えて敗北してしまったため、その軍勢の多くも失ってしまいました。軍事力による背景を失った滝川は発言力も削がれたらしく、清洲体制とでもいうべき四家老、宿老から外されてしまいます。

対してそこに割って入ったのが池田恒興(つねおき)でした。
誰だそれ、という感じの人物であり、実際、政治的な駆け引きで政治の表舞台に引っ張り出された人物と見るべきでしょう。信長の乳母であった養徳院の息子だったため、信長とは縁が深い人物でした。ただしそれだけであり本能寺の変の段階では単に大坂北部の摂津を守っていた人物です。

これが本能寺の変の後に秀吉と合流、山崎の合戦に参加したことで清洲会議にまで呼び出されます。山崎の合戦での縁、そして以後の行動などから見ても秀吉派であり、おそらく秀吉がこの池田を引っ張り出したのだと筆者は推測しています。実際、以前から秀吉と仲が良かった丹羽と合わせ、宿老の内、三人が秀吉派となり、以後、織田家の政治を牛耳ります。まあ半年も持たずにこの体制は崩壊しちゃうんですけども。

ちなみに、やはり人間には分と言うものがあるようで、池田は歴史の表舞台に跳び出した直後、二年後に起こる小牧長久手の戦いで嫡男と共に戦死してしまいます。ただし次男の池田輝政(てるまさ)が家督を引継ぎ、後に江戸期まで生き残って播磨姫路藩の初代藩主となりました。姫路城を現在みられるような形にした人ですね。

とりあえずざっと、この辺りの紹介もして置きましょう。

 羽柴秀吉  
 言わずと知れたナニワの大将、後の豊臣秀吉である。
 織田家の有力な武将である軍団長の一人で織田家の外部から入って来た人物。

 本能寺の変の時には毛利が覇権を握る中国地方攻略の軍団長として備中(岡山)に居た。
 この段階で織田家の最大級の軍団を預かっており、既に戦闘態勢にあった事で、
 いち早く光秀討伐に成功する。
 ただしこの点は柴田もほぼ一緒の条件であり、純粋に秀吉の凄みであろう。

 柴田勝家  
 佐久間信盛の失脚後、六軍団長の中で唯一、織田家の生え抜きだった古参家老。
 北陸方面の戦線を担当し、本能寺の変の翌日、
 3日には越中(富山)小津(魚津)城の攻防戦に決着が着いていた。
 
 すなわち軍勢は臨戦態勢にあり、しかも戦いは終わっていたのに秀吉に後れを取った事になる。
 ちなみに小津(魚津)城から明智の本拠地坂本までは街道沿いに約290q、
 秀吉の居た高松城からだと約220qでやや遠いが、秀吉は講和に三日かかってから動いてる。
 やはり動きが遅いと見ていい。
 
 その率いる軍団も、前田利家、佐々成政など織田家生え抜きの人材を家臣団としており、
 よって本能寺の変の報を受け勝手に四散するような心配も無かった。
 条件からすると最も有利な位置に居たのだが、それを活かせない人物でもあったのだろう。
 
 秀吉とは以前から仲が悪い。
 1577(天正5)年に柴田が大将として対上杉の加賀攻めを行った時、配下の秀吉はこれと対立、
 勝手に陣を払って退却してしまった。当然、信長は秀吉の勝手な行動に激怒する(信長公記)。
 信長をあれほど恐れていた秀吉がこのような行動に出たのだから余程ウマが会わなかったのだろう。
 両者の対立は必然であった。
 
 丹羽長秀  
 織田信長の懐刀、という印象が強く、あらゆる戦場に投入されているが特定の地域を担当しなかった。
 本拠地は安土の隣の佐和山城であり、これは信長の本拠地を守る最後の砦でもある。
 他に琵琶湖の対岸、敦賀一帯も配下に置いていたが、
 他の軍団長に比べるとその支配地区はかなり狭い。

 このため六人の軍団長の中でも手持ちの兵力は少なく、山崎の合戦の後、秀吉の下で動く事になる。
 ただしそれ以前、対浅井家戦の頃から秀吉とは関係が良かったと思われる。
 その居城、佐和山城は秀吉の長浜城の隣でもある(北から長浜、佐和山、安土の順で並ぶ)。
 (後に石田三成が入るが江戸期に取り壊され、ひこにゃんの彦根城がすぐ横に建てられた)

 この人物も外様だが、その経歴は秀吉よりも古い。

 滝川一益  
 軍団長の中で最も早くから一地方、具体的には伊勢長島方面を受け持って戦っていた。
 恐ろしく資料が無い人物で謎も多いが、外様の軍団長の中では最初に信長公記に名が出て来る古参。
 
 清洲会議では宿老から外され、自らの地元である伊勢長島に帰ったが、
 後に柴田、信孝と組んで秀吉と対立する。ただし柴田、信孝は秀吉に殺されたが
 滝川だけは許されて生き残り、後に秀吉のために働いている。

 この辺りも含めて謎の多い人物である。

 池田恒興  
 すでに書いたように、山崎の合戦で歴史の表舞台に登場、そのまま清洲会議で宿老の一人とされた。
 ただしホントにそれだけの人物で、以後、特に何も活躍しない。よって特に書くことも無い。


この会議によって嫡男の三法師は岐阜城の信孝の元に置かれる事になりました。
これは事実上、信孝が織田家の頭領代理である、という事を意味するはずでした。はずでした、というのは速攻でこの清洲体制は崩壊してしまい、ほとんど政治体制として機能しなかったからです。

また明確な記録は無いのですが、この会議で秀吉は北陸に帰る柴田への譲歩として、自らの地元、長浜城を譲り渡したと思われます。実際、この直後に柴田の養子である柴田勝豊が長浜城に入るのです。これは賤ケ岳一帯を含む北陸への道を柴田側が確保した、すなわち安土、岐阜、そして京への通行路を確保したことを意味します。秀吉としては大幅な譲歩でした。ところが秀吉は速攻で勝豊を凋落、長浜城を取り戻します。この結果、琵琶湖方面への出口を塞がれた柴田軍団がこれを突破しようとして発生するのが賤ケ岳の戦いなのです。

ちなみにこの清須会議で柴田勝家が三男の信孝を織田家の家督相続者に推したのに秀吉が反対、幼い三法師を推して会議は紛糾、最後は秀吉の駆け引き勝ちで自分の思うがままにできるようにした、という良く見る話は俗説です。

前記の資料の内、川角太閤記にのみ見られる記述ですが、この本では会議が岐阜城で開かれた事になって居たり、そもそも三法師の名前を吉法師(信長の幼名である)と間違えていたりと筆者の勘違いと創作が入り込んでます。それ以外の資料には三法師が嫡男として織田家を相続する事に関して議論になった、という話は微塵も登場しませぬ。よって俗説として切って捨てていいでしょう。

はい、なんだか本人も驚愕の長い前フリになってしまいましたが、今回はここまで。

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