今回はまず、決戦の場になった桶狭間の地理について、再度、明治期の低湿地地図を使って確認して行きましょう。大高城、鳴海城の周辺の青い部分は当時まだ海だったのは前回見たとおり。

まずは最も重要な大軍を動かすのに必要な街道と各城の位置関係の図から。
ただし街道は時代によって移動しており、以下の地図に描きこんだ当時の経路はあくまで凡その推定で、厳密なものでは無いことを断っておきます。もっとも、一帯は丘陵地帯で、街道はその平坦部および川沿いを走ってるのは間違いなく、大筋で大きくは間違えてないはずですが。ちなみに前回見たように、那古屋城〜鳴海城が直線距離で約12qとなります。

 
国土地理院サイト 明治期の低湿地図を基に情報を追加(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html


まず重要な大前提として、この時代、鳴海から池鯉鮒(ちりう/現 知立市)の間には東西に二本の街道筋がありました。
一つが古代東海道をそのまま利用した鎌倉街道(鎌倉往還)です。これは現在の名古屋市内を斜めに横切り、鳴海から東に向かって二村山(ふたむらやま)の麓を通り沓掛(くつかけ)経由で池鯉鮒に向かうのものです。元々はこれが古代東海道であり、更級日記で作者が通ったのもこの経路でした。ちなみに沓掛城の北西にある二村山が、古くから歌枕の一つとなってる地、ふたむらの山です。

もう一本の道が、ほぼ現在の国道1号の経路と同じ場所を通過する西側の道、新しい東海道です。近世以降で東海道といえばこちらを指します。古代東海道が平坦地を選んでぐるっと大回りしていたのに対し、こちらの道は丘陵部の川沿いを強行突破する最短経路となっています。

日本電気協会中部支部のサイトで、池田誠一さんが連載していた「なごやの鎌倉古道をさがす」第10回において、戦国末期に東海道が新道へ移行したため鳴海の街全体が大きく動いてる、という指摘が出ており、桶狭間の段階ではこの新道がほぼ形になっていたと考えていいと思われます。実際、この新しい東海道の存在を前提にしないと桶狭間の戦いは理解できないのです。記事では便宜上、旧街道を鎌倉街道、新街道を東海道と表記します。

その新旧二つの東海道が合流し、海際の狭い場所を通過する横に建つのが鳴海城であり、交通の要所を抑えた城なのが見て判ると思います。ちなみに東海道は江戸期以降、埋め立てられ地続きになった側を通るようになりますが、この時代は前回見た干潮時に干上がった磯を突破する経路と、満潮時にこれを回避する内陸路に別れていたと思われます。ちなみにこの鳴海の干潟も歌枕の一つで、鳴海潟、とされるのがここです。

古代の東海道として京都に至る主要街道だった鎌倉街道は極めて重要な街道であり、このため織田家の那古屋城、そして当時の信長の居城である清州城、どちらも鎌倉街道沿いに位置するのに注意してください。桶狭間の戦いの日、早朝に清州城を出た信長は熱田神宮を経由して鳴海城下まで一気に20q近い距離を移動していますが、これが可能だったのは鎌倉街道が使えたからです。後に織田軍の軍勢が素早く信長を追って集結できたのも同じ理由でしょう。

ちなみに信長の生涯の居城は、那古屋、清洲、岐阜、安土とジワジワと京都に近づいて行くのですが、基本的には鎌倉街道、古代東海道沿いに移動してます。信長といえば鎌倉街道なのです。

■織田側の状況

ここで織田側の地理的条件を整理すると、この時期の信長の居城となっていたのが清洲城、その東南に信長の織田弾正忠家がかつての本拠地としていた那古屋城があります。那古屋城の真南に位置するのが日本を代表する古社の一つであり、三種の神器の一つ、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を祭る事で知られる熱田神宮です(剣本体(形代)は一度平家が壇ノ浦に沈めてしまい、二代目となる剣は皇居にあるため、神としての神霊のみここに残って居る、という設定になってる。ただしこの時代は恐らく二代目の剣(形代)もここにあったはず)。

そして前回も述べたように、織田軍団はこの周辺で何度も戦っているため、一帯の地理勘があったことにも注意が要るでしょう。信長公記によると、桶狭間周辺は丘陵と谷、さらに湿地と田が入り組んだ、極めて複雑な地形であったとされ、地元の人間でなければ自由に動き回れるような一帯では無かったからです。

ただし、この後、見て行くように実際の戦場になったのは織田側の砦があった大高周辺であり、その横にある「桶狭間山」と呼ばれていた丘陵地でした。この点は「信長公記」「三河物語」を丁寧に読めばすぐに気が付く所ですが、従来はほとんど無視されていたので、注意してください。

桶狭間の戦いという名前から、桶狭間一帯が戦場となったように誤解されていますが、それは最後の最後に潰走した今川軍が追い込まれた土地の名前なのです。この戦いは今川軍による大高周辺の砦攻めの中で発生した奇襲戦闘だったのに注意が要ります(すなわち包囲された城に対する後詰(救援、応援)部隊と織田軍主力の戦いである)。

■今川側の地理的事情

対して今川軍の展開はどうだったのか。
今川側は鳴海、大高、そして少し離れた場所に位置する沓掛の三つの城を抑えていたのは既に説明した通りです。沓掛は東海道から外れた辺鄙な場所にあり、現在の地図で見ると不思議な印象を受けますが、ここは鎌倉街道、古代東海道の横にあり、かつては交通の要衝を抑える城の一つだったのです。ちなみにこの時代、すでに街道筋は新東海道に移っていたため、沓掛城は桶狭間をめぐる戦いでも蚊帳の外に置かれます。そして義元が討ち取られると、今川軍は全く戦わないまま潰走、そのまま放棄されてしまいました(この点は三河物語による)。

これに対し、知多郡北部(南部は同盟関係にあった水野氏の支配地区)の奪還を目指す織田信長は海沿いの鳴海、大高城に対し攻城用の砦を築いて包囲、兵糧攻めに入りました。この砦の構築がいつなのかは信長公記に記述が無く不明ですが、義元が到着した段階でまだ城が持ちこたえていた事を考えるとそこまで長期間は経ってなかったと思われます。

ただし三河物語によると桶狭間の戦いよりニ年前の永禄元年(1558年)に松平元康(家康)は大高城への物資補給作戦を義元に命じられ、織田軍との戦闘を巧みに避けてこれを成功させた事になっています。この記述が事実なら二年越しの包囲作戦だったことになるので、詳細は不明としておきましょう。

その両城を救援するため、今川軍は5月16日前後に東海道経由で岡崎城から池鯉鮒(ちりう/知立)城に到着したと思われます。そして最初に救援するのを大高城と決め、その周囲の織田軍の砦を潰すために北上を開始しました。
池鯉鮒から先は、東に回れば沓掛城を経由する鎌倉街道、西に回れば桶狭間付近経由の新しい東海道に分かれます。両街道の間隔は最も広いところで3km前後、その間には丘陵と深い谷が広がっており、往来は困難でした。よって、どちらからの道を選んで大高城救援に向け北上する事になります。

そして、この点に関して「信長公記」と「三河物語」では記述が別れるのです。
まず「信長公記」では「今川義元 沓掛へ参陣」と最初に書かれています。その後の義元は「桶狭間山」に居たとされるので、普通に考えれば東の古い街道筋、鎌倉街道沿いを通って沓掛城を経由して大高地区に向かった、という事です(着陣前の一文に五月十七日の日付もあるがこの点は後で見るように怪しい部分がある)

ところが今川軍に参加していた松平(徳川)側の記録である「三河物語」では「義元池鯉鮒に着き給ふ」とあり、その後、「永禄三年庚申五月十九日に、義元は池鯉鮒より段々に押して大高へ行き」とされ、沓掛城を経由せずに池鯉鮒から大軍を率いて直接、大高城解放に向かったことになっています(三河物語の名物、誤字、当て字は修正、カナは平仮名にした)。当然、これができるのは新しい東海道沿いの経路を選択した場合のみで、この場合、沓掛城は蚊帳の外に置かれ、その行動は信長公記とは全く異なる事になります。

ちなみに三河物語では池鯉鮒としかしてませんが、ここにも城があり、これも今川軍の支配下に入ってました。普通に考えて今川義元はそこに入ったと考えるべきしょう。池鯉鮒城(知立城)は現在、全く遺構が残って無いのでほとんど知られてませんが、これも街道沿いの重要な城でした。ちなみに信長公記によると桶狭間の戦の後、織田軍が今川軍から奪った城として、鳴海、大高、沓掛の三つだけでなく、この池鯉鮒城、さらにはその西にあった鴫原(重原)城まで手に入れたとされます。

■池鯉鮒(知立)出立説

この点については信長公記の記述に沿って、義元は沓掛城から桶狭間山(桶狭間ではない。両者の違いは後述)に向かったとされる事が多く、江戸期の書物や、明治に入ってから陸軍参謀本部がまとめた合戦記でもそうなってます。

が、この記事では「三河物語」の記述、すなわち義元は池鯉鮒城に入った後、そのまま東海道筋沿いに北上した説を取り、沓掛城の存在は無視します。理由はいくつかあるのですが、とりあえず、

●今川軍が大高城救援に向かう場合、池鯉鮒城から最短距離となるのは新東海道経由の場合である。
  約12q、大軍でも半日足らずで移動できるが、沓掛城経由だと16qを超える遠回りになる上、
 改めて沓掛に陣を置く事で、さらに一日無駄になる可能性が高い。

●主街道を外れる沓掛城から大高城に至る経路は地理勘の無い今川軍にとっては不案内で大軍での移動は難しい。

●後に決戦場となった大高城から桶狭間一帯もまた新東海道沿いの土地である。

●迎え撃つ信長もまた鳴海城下で中島砦(後述)に入り、鎌倉街道から外れて新東海道に入る経路を取っている。


の四点を上げておきます。
ちなみに大正時代の測量地図で沓掛城のすぐ南から新東海道沿い、現在の前後駅付近に抜ける道が確認でき、おそらく江戸期には沓掛から新東海道に抜ける道はあったようです。この道が当時からあったのかは確認できませんが、いずれにせよ南に大回りになって無駄に遠回りとなる、街道では無い以上、大軍の進軍には向かない、という点で今川軍がわざわざこの経路を取ることは無いように思われます。

ただし、後で見るように2万人を軽く超える軍団だったと思われる今川軍は目的地の大高に集結するまで分散進撃し、義元本陣は軍団とは別行動を取っていた、と三河物語にあります。よって東海道だけでは渋滞してしまって移動が困難になるため、一部の軍団、あるいは義元本陣のみが一度、沓掛城を経由し先に見た道から東海道に抜けた可能性は否定しません。が、いずれにせよ、主力の軍勢は池鯉鮒から東海道沿いに北上した、と見ていいでしょう。

■地形図で確認する桶狭間

ここで、国土地理院には足を向けて寝られぬ、というありがたい機能、地図の3D化で池鯉鮒(知立)から見た北側の地形を確認しておきましょう。

標高を10倍に強調して表示した画面なので実際はここまで峻険な地形ではありませんが、海抜10m前後の池鯉鮒に対し、桶狭間周辺は最高で海抜55m近くあり、手前の低地に比べると10階建てビル程度の高低差が林立する丘陵となっています。難所、と見ていいでしょう。



国土地理院サイト 3D地図を基に情報を追加(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html


そのやっかいな丘陵部、桶狭間から大高周辺を避け、東側の小川沿いに北の勅使池まで凸凹の少ない土地を通過し鳴海に至るのが青線で示した鎌倉街道でした(つまり川が掘削した窪地沿いに進む)。ちなみに矢印の辺りに沓掛城があります。

一方、男らしく最短距離で鳴海まで目指すのが赤線で示した現国道1号、すなわち新東海道で、御覧のように西の丘陵部に真っすぐ突入する結果、地形に隠れてしまって先が見えません。
ただしこちらも川沿いの低地を通過するのは同じで、手越川沿いに途中から出て、後は川沿いに大高、鳴海方面に向かう道となります。鳴海城下でその手越川が扇川に合流する地点にあったのが中島砦で、ここが信長が決戦に向け出撃した陣地でした。



桶狭間周辺の立体図。桶狭間の向こう側に今回の戦いの舞台となった大高地区があり、桶狭間山の推定地である(後述)大高緑地の一部も見えてます。ちなみに、これも実際の標高を10倍に強調してあります。

桶狭間の手前で手越川沿いに出る東海道は以後、谷底を縫うように走り、街道沿いの土地は海抜20m前後、対して周辺の丘陵部は最高地点で50m、低いところでも30m前後、さらに谷間には湿地帯と深田が広がっていた一帯です。よって本来なら大軍の展開には向かない土地であり、できれば素早く鳴海方面まで抜けるべきでした。が、義元は大高城解放戦のためにこの一帯にその軍勢の主力を展開してしまうのです。これが破滅への第一歩となります。

ちなみに後でまた見ますが、これだけ狭い街道沿いに万単位の今川の大軍が展開して休息するとなると一定の開けた土地が必要です。しかも梅雨の只中ですから、田んぼは泥の海で休憩には使えません。どこにそんな大軍を展開したのだろうと考えながら地図を見たら、広大な台地があっさり見つかり、ああここか、と思ったんですがそれは中京競馬場でした…。

ここは競馬場を造るために谷を埋めて造成してますから、恐らく違う気もしますが、今になってしまうと、実際はどんな場所だったか全く知りようが無いので、誰だこんな場所に競馬場造ったヤツ、と思っております。

まあ、いずれにせよ戦いの舞台はもっと西側なので、それほど重要な問題にはならないのですけども。


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