最後に戦場となった桶狭間と、織田側が攻城戦のために築いた各砦の位置関係をこれまた明治期の低湿地地図を利用して確認しておきます。天白川周辺で当時は入海だったろう、という場所は例によって青く重ね塗りしてあります。

 

国土地理院サイト 明治期の低湿地図を基に情報を追加(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html


この地図のありがたいところは黄色で低湿地が、白色で地盤の高い土地が示されてる点です。
一帯は丘陵地帯なのが見て取れ、この凸凹な土地をもっとも効率よく通過するには川が削って造った谷、凹部を通るのが一番効率的だ、と考えれば、古い街道がどこを通っていたか、ほぼ見当が付きます。これはホントにありがたい情報です。
同時に、それぞれの城砦は見晴らしが効き、攻めにくい高台に築かれているのも判るでしょう(後で見るように中島砦だけは別)。

ちなみに大高城と桶狭間の間にある聞きなれない土地、大高緑地が今回の決戦の舞台となった一帯です。現在は公園となっている丘陵地帯で、従来の桶狭間の戦記ではほぼ無視されて来た土地ですが、信長公記、三河物語をキチンと読んで理詰めで考えてゆくと、ほとんどの動きはこの一帯に集中していたと考えるのが自然だ、という辺りは次回から見てゆきます。

■今川の城

この戦いの原因となった鳴海城は何度か説明してるように、東海道を抑える水辺の位置にありました。古代東海道、鎌倉街道は鳴海城のやや東を通過していますが、以前はこちら沿いに鳴海の街があり、現在、古鳴海という地名が残ってます。城はすでに新東海道沿いにあったので、やはりこの時代、すでに主要な街道筋は新東海道の方に移っていたと見ていいでしょう。

ちなみに城下の入海は黒末川と呼ばれていた、と信長公記にはあるので、入海というよりは満潮時には大河になっていた、という方が実態に近い可能性もあります。ちなみに、この一帯は干潮になると干潟が広がり、一気に行動の自由が増えます。決戦の日は午後14時ごろから利用できたはずで、義元はそれを狙っていたのではないか、なのでのんびりとしていたのではないか、という辺りもまた後で見て行きましょう。

また、信長公記にも三河物語にもそういった記述はありませんが、この立地から海からの補給と救援は出来たはずで、城攻めの最中に行われた可能性はあります。実際、伊勢湾を挟んで対岸の弥富に拠点を構えていた服部友定は信長と対立関係にあったため、今川の着陣に合わせて武者船を出し、大高城の城下の海上に配置していた、という記述が信長公記にあります。ただし何も出来ずに終わったそうで、服部の軍は帰りがけに熱田に上陸、街に火を放とうとしたら町民に追い返されて逃げ帰ったのだとか。

その鳴海城と入海を挟んで対岸の南側に位置していたのが大高城、この戦いの鍵となった城です。この城も合戦の段階では今川軍の直轄となっていました。池鯉鮒から新東海道沿いに北上する形になった義元はまずこの大高城の救援を決め、織田側の包囲陣地を潰しにかかるのです。そして、この厄介な役割を連れて来ていた松平元康、すなわち家康の軍勢に担当させています。そして周辺の砦を攻め潰した後、家康はこの城に入ったため、今川軍の壊滅に巻き込まれるのを避けれたのです。

織田の攻城陣地

その今川軍の海沿いの二つの城を攻め落とすため、信長が周囲に築いた砦は合計五つ、鳴海城に対して三つ、大高城に対して二つでした。鳴海城に対しては北に丹下砦を、東に善照寺砦を、そして南東、新東海道が城下に入る位置に中島(南中島)砦を築き、これらが今回の戦いにおける織田軍の拠点となります。

その対岸の大高城には北東に鷲津砦を、ほぼ真東に丸根砦を築いています。この二つの砦周辺に元康(家康)率いる外様の松平軍団と今川軍の主力がいたはずですが、この点はまた後で。

織田軍の砦は基本的に今川の城と同じような高台に位置していたのですが、中島砦だけは例外で、これは扇川と手越川が合流する付近の三角州の集落横に造ったものでした。先にも指摘したように、場所からして新東海道から鳴海城への往来を抑えるためのものでしょう。後に信長は、ここから最後の決戦にに向けて出撃する事になります。

といった辺りが、合戦前における両軍の配置と地理的な関係となります。これを見ると、新東海道を南東の池鯉鮒から上がってきた今川軍と、熱田経由で鳴海城側から南下した織田軍が大高周辺で激突した、というのがよく理解できると思います。この戦いもまた、街道をめぐる戦いの一つだったわけです。

■両軍の軍勢

さて、予備知識の最後に、両軍の戦力を確認して置きましょう。

 今川軍  織田軍本隊
 
 4万5千人(信長公記) 
 2000人(信長公記)
 3000人(三河物語)

ただし、この数字はいくつかの注意が必要です。

まず古くから指摘されてるように、今川軍の人数は当時の軍の規模としては明らかに過剰な数字である、という問題。
確かにその通りで、この15年後、絶頂期とも言える織田・徳川連合軍が長篠に展開した人数が3万人前後ですから、4万5千の数字は過大でしょう。後に明治期に陸軍参謀本部が今川領の石高から2万5000人前後であろう、と計算してますが、おそらくその辺りが妥当な可能性が高いです。

ただし、明確な資料が無い以上、絶対に間違いとも言い切れないので、ここではとりあえず信長公記の数字をそのまま採用します。ちなみにこの人数の中には、松平元康(家康)の手勢も含まれます。おそらく1000〜1500人前後だと思われますが、確証は無し。いずれにせよ、今川軍本隊は織田軍の奇襲を受けてまともに戦闘にならないまま敗退してますから、正確な人数を求めてもあまり意味はないでしょう。

対して織田軍の数字は今川軍の1/10といった所になりますが、これはあくまで信長率いる本隊、奇襲部隊だけの数字です。
この他に信長の本隊と別行動を取って今川軍に一蹴された佐々勝通、千秋四郎の部隊300人(信長公記による)があり、さらに五つの砦の守兵がいたわけですから、実体は少なくともあと1500人以上は居たと思われます。

もっとも、今川軍に蹴散らされた織田軍も全滅したわけではなく、最終的に信長の本隊に合流して奇襲部隊に加わった者もあったと思われます。よって、これも正確な数字の推測は不能なのですが、とりあえず奇襲部隊は多くて3000人程度の部隊だったのはほぼ間違いないでしょう。最高司令官である信長個人だけで指揮できるギリギリの人数だったはずです。

さて、これらを抑えた上で、次回はいよいよ両者の決戦を見てゆきます。とりあえず、今回はここまで。


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