■開戦

ようやく今回から対フランス&低地諸国戦、いわゆる西方電撃戦が開始された後の展開を見てゆきます。その記事を始めるに辺り、基本中の基本、この戦争はどういった戦争だったのか、マンシュタイン案によってドイツ軍は何をしようとしたのかを再度確認して置きましょう。



何度か書いているように、この作戦におけるドイツ軍の基本的な考え方はドイツ軍参謀本部お得意の包囲殲滅、そしてそれを成すための高速機動戦です。

すなわち北側、海岸線沿いの低地部でB軍集団が大暴れして囮になり敵の注意を引き付けます。これに対応するため連合軍は主力であるフランス第一軍集団(第1、第2、第9軍)とイギリス遠征軍、そして予備戦力ながら引っ張り出された第7軍をこの一帯に進めて来るはずです。ところがここは北を英仏海峡、南はアルデンヌ高地に囲まれた逃げ場の無い土地なのです。近代的な重装備の大軍が移動できるのは左右方向、すなわち東西方向のみですが、その東側は囮のドイツB軍集団が塞いでしまっています。この状態で西側、連合軍のケツを塞いでしまえば連合軍側は袋のネズミとなり、一方的に包囲殲滅される事になります。そのためにA軍集団は高速機動が可能な戦車や自動車化歩兵(トラックに乗って高速移動できる歩兵部隊)を先頭にアルデンヌ高地を密かに高速突破、連合軍主力とは逆方向に向かう形でケツ側に回り、その出口を塞いでしまう事を目指します。

この作戦の基本的な目的は包囲殲滅です。軍隊には攻撃火力が集中する進行方向という物があり、後方からの攻撃に弱い、もし反撃しても火力が分散されるため不利になる(対して包囲する側は常に正面中心方向の敵に対し全火力を集中できる)、というのは最初に見た通りです。



この状態ですね。包囲が完成すると敵の火力はその中心部に全て向けて集中されます。タコ殴り状態なわけです。
対して自軍の攻撃方向は正面に限定されてしまいます。よって正面の敵は撃破できるかもしれませんが、その間に周囲からの集中砲火で殲滅されてしまいます。かといって全方位に火力を分散すると各方面の火力は1/10まで低下するのに対し、敵は全火力を中心部に向けて集中し続ければいいので、一方的に優位なままです。結局、その火力差によって殲滅される事になるでしょう。こうなったら逃げ出すしか無いのですが、その逃げ道も塞がれてしまって居るのです。即ち殲滅されるしかなく、これがいわゆる包囲殲滅戦の恐ろしさとなります。

今回の作戦の場合、上下は地形を利用して逃げ場を無くし、左右から挟撃という形になりますが、それでもその優位は変わりません。反撃のためには敵は火力を1/2ずつに分散するしか無いのですが、それでは勝てませぬ。そもそも近代戦の装備では攻撃方向を180度変換する機動はかなりの時間と手間がかかります。強力な敵に背後を突かれたら、反撃は間に合わないと思っていいでしょう。

ただしマンシュタイン案の内容は特に奇抜でも独創的でもなく、純粋にドイツ軍参謀本部の伝統的な戦法を採用したにすぎません。それ以前のヒトラー&ハルダー率いる参謀本部案がお粗末過ぎただけなのです。実際、最終的に電撃戦の主役となる高速移動と奇襲は包囲殲滅戦のための手段に過ぎず、その主役ではなかったのです。この二段階構造、包囲殲滅戦とそのための高速機動と奇襲、という作戦構造を理解しないと電撃戦は理解できません。そして理解されてないまま解説されていたのが従来の電撃戦の説明でした。それらは全て無意味と思っていいでしょう。

実際の電撃戦の恐ろしさは当初の包囲殲滅作戦に無かった部分、高速移動と奇襲にありました。すなわちドイツ軍の高速進撃によるOODAループの高速回転にフランス側が全くついて来れず、指揮系統の麻痺からパニックが発生、戦わずして崩壊して行く点にあったのです。これはマンシュタインどころか現地のグデーリアンですら予想しておらず、戦後もなんでそうなったのか誰も論理的に説明できませんでした(リデル・ハートなどが回転ドア理論とかトンチンカンな解説をしてるが)。この点を完全に理解するにはボイドのOODAループ理論の登場を待つしか無かったのです。そして幸いにして、私たちはそれを知っています。

5月10日

対フランス&低地諸国戦の開戦は1940年5月10日の早朝、5時35分でした(ただし囮部隊、B軍集団の一部は5時30分に戦闘を開始したらしい)。ちなみに既にフランス&イギリスとは交戦状態でしたが、この戦闘で侵攻する事になった三国、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクには宣戦布告無しで攻め込んでいます。

この点は急遽決定された様子があり、実際、ヒトラーは開戦に関する正式な総統指令を出していません。主力のA軍集団のエース部隊だったクライスト装甲集団、その中でも先頭を走る事になっていたグデーリアンですら前日の9日の昼過ぎ、13時30分に緊急招集を受けて指揮所に向かったとしていますから、何かあわただしい物を感じる部分です。この時期はまだ直前に始めたノルウェー侵攻作戦が終わってませんでしたから、何かその辺りとの絡みがあったのかもしれません。

ちなみに囮部隊となったB軍集団側にはナチス党親衛隊隊、SS将校のクルト・マイヤー(最終階級は親衛隊少将、連合軍の捕虜となって終戦を向かえ、1954年に釈放された)が居ました。戦後1957年になって彼が発表した手記、「擲弾兵(Grenadiere)」によると9日に彼の部隊は臨戦態勢を命じられ、同日の夜、20時5分に開戦を意味する暗号、「ダンチヒ(Danzig )」を受け取ったとしています。

この点、意外な事に隠密に動いていた南のA軍集団だけでなく、囮として派手にオランダに向け進撃を開始したB軍集団まで奇襲に成功してしまいます。ドイツ側が明らかに戦争準備を進めていたの対し、中立を宣言して独自の立場を維持しようとしていたオランダは完全に油断していたのです。さらに連合軍全体でもやや不意を突かれた部分があったように見えます。実際、当時イギリス首相だったチャーチルが戦後に執筆した「第二次世界大戦」における電撃戦の記述はかなり適当で、イギリス側の総責任者でもこの程度しか状況を理解して無かったのか、というのが良く判る記述になってます。この本、ノーベル文学賞を受賞してるんですが、彼自身が関わった事象以外の記述はかなり適当なので要注意です。

ちなみにそのチャーチルが直にオランダ首相から聞いた話として、ウチは低地だからね、水門を開いて土地を水没させちゃえばオシマイ、これすなわち洪水戦法なりと言ってたけどあっさり失敗した、と述べてます。この辺りもチャーチルの記述は適当で判りにくいのですが、奇襲になって水門を開けるヒマも無かったのと、ドイツ側も馬鹿では無かったので水門や運河に掛かる橋、そしてその制御部を優先的に攻撃した結果のようです。ちなみにこの戦術、かなり古くから使われており、17世紀の対フランス戦争の時は実際、役に立っています。ただ20世紀の戦争にはちょっと無理があったわけです。

■オランダの不幸

ここで再度、5月10日の開戦時における両軍の配置を地図で確認して置きましょう。
今回の作戦で囮を務めるB軍集団は第18軍と第6軍に分かれていました。北の第18軍はヒトラーが主張したオランダ海岸線地区の占領、すなわちイギリスとの連絡を断つための作戦に投じられ、南の第6軍が敵主力を抑え込む部隊として西に向かう事になっていました。ただしどちらもオランダ国境を突破する経路で侵攻する事に注意してください。そして、このB軍集団の侵攻に対し、オランダ軍は完全な奇襲を許してしまいます。ドイツ側の協力者などから侵攻近し、の情報が入っていたのに、です。この点は完全に油断していたと言わざるを得ない部分があります。



南の第6軍は最初から連合軍の待ち構えるダイル線への到達を目指していたと思われ、オランダ国内の狭い一帯を通過するだけでした。よってあっさりとこれを突破、ベルギー領に入ってしまいます(ちなみに後に独ソ戦中、スターリングラード攻防戦で壊滅するのがこの第6軍)。よって主要な戦闘は北からロッテルダム&ハーグを目指した第18軍が担当、それに加えて独立した戦力としてエバン・エマール要塞戦(Fort Eben-Emael)、ロッテルダム急襲作戦などを遂行した航空急襲部隊がありました。

航空機による強襲は陸軍の空挺部隊(Luftlande-Division)と空軍の降下猟兵部隊(Fallschirmjäger)の混成部隊による作戦で、空軍の地上戦闘部隊というややこしい存在が出て来るのが「皆さまの国家元帥」こと衝撃の白いデブ、ドイツ空軍の最高司令官ゲーリングがいるドイツならではでしょう。ちなみにイギリスのSAS、Special Air Serviceはその名にも関わらず陸軍の所属です。

これら航空機を使い先行して侵攻した急襲部隊は一部で大損害を被るものの、ロッテルダム急襲、エバン・エマール戦などでは戦果を上げ、後にやって来た第18軍、第6軍の部隊と合流する事になります。

ちなみにややこしいので最初に確認して置くと、憲法で定められたオランダの首都はアムステルダムですが、実際の首都機能はハーグにあり、その南にある都市、ロッテルダムが政府機関に最も近い大都市となります。ドイツ軍がアムステルダムをほとんど無視して、その西にあるハーグとロッテルダムの攻略に集中したのはそのためです。この辺りを理解して無いとオランダ戦はよく理解できないと思いますので、ご注意あれ。


NEXT