■ドイツ第18軍の侵攻

北の第18軍に連隊長として属していたマイヤーのよる手記によると(部隊は第10軍所属のまま参戦、開戦直後に18軍の指揮下に編入された。この辺りもドイツ側の行動に何かドタバタしたものを感じる)、10日朝のデ・ポッペ(De Poppe)の国境突破時には全く抵抗を受けず、国境から約18kmの距離にある交通の要衝、ヘンゲロー(Hengelo)まで一切の戦闘無しで進出したと述べています(ちなみにこの時の侵出経路は現在の欧州自動車道路(International E-road network)のE30号線に沿った形になる)。その後、北西に進路を変更、午前11時30分、開戦から6時間で首都アムステルダムの東約80qにあるズウォレ(Zwolle)に先頭部隊が到達してしまうのです。移動距離で約70qほどですから、敵地の中を時速11.6km、ほぼ快調に飛ばして到着したと見ていいでしょう。実際、マイヤーの手記のよれば途中で受けた抵抗は運河にかかる橋を爆破して落とすくらいだったとされます。ただしオランダの運河は幅の狭いものが多いため、応急処置で簡単に渡れるようになってしまい、効果は薄かったようです。念のため、再度地図を掲載して置きます。




マイヤーによるとズウォレ市内のオランダ軍兵士はドイツ側の侵攻に気が付いておらず、対戦車トーチカの上で食事や日光浴の最中だった、とされます。このため速攻で銃撃に斃れるか捕虜になるかでオランダ兵は掃討され、あっさり防衛線は突破されてしまう事に。ズウォレ市内の入り口にはバリケードが築かれ、さらに対戦車トーチカ陣地までありながら役に立たなかったのです。さらに僅かな兵を率いて市内に突入したマイヤー達一行が市内中心部の敵司令部に乗り込み占拠、そのまま市内のオランダ兵を武装解除し、ほぼ戦わずに占領する事に成功します。狙ってやったわけでは無いですが、これも敵のOODAループが一切回らない内に行動、何もさせないままに降伏に追い込む戦術だったと見ていいでしょう。すなわちB軍集団の戦いも電撃戦的な内容を伴うものだった事になります。このように本来の包囲殲滅戦とは別の形、すなわち奇襲と高速行動によってこの戦いはドイツ側に決定的に有利に展開する事になるのです。

この後、既に述べたようにアムステルダムは無視され、マイヤーの部隊はそのままロッテルダムへ向かい、最期はハーグを目指せとの命令を受けます。ロッテルダム周辺までも快調に進むのですが、さすがに首都に至る最期の要衝ロッテルダムの守りは固く、以後三日間に渡りドイツ軍の侵攻を食い止めました。

最終的に兵の損害が大きい市街戦をドイツ側が嫌ったため、ドイツ空軍が5月14日にロッテルダムを爆撃、これによってロッテルダムの守備部隊は降伏します。そして翌日、開戦から僅か6日目の5月15にオランダはドイツに降伏し(ただし前日14日の段階で既に戦闘中止命令が出されている)、その政府と王室はイギリスに脱出する事になるのでした(その後、さらにカナダに移る)。


■Photo:Federal Archives 

ドイツ軍の爆撃を受けて燃えるロッテルダムの街。

損失の大きい市街戦を避けたかったドイツ軍は早い段階で航空攻撃でこれを叩くことを考えていたと思われます。当初は周囲での戦闘が終わった5月13日に降伏勧告&爆撃を予定していたものの準備が間に合わず、14日になってから降伏か爆撃かを選べとオランダ軍司令官に通告しています。ただし交渉がゴタゴタしてる間に、「皆さまの国家元帥」ことゲーリング空軍最高司令官が爆撃命令を出し、さらに現地からの爆撃延期要請が基地司令官のケッセルリンクに届けられなかったため(ただし本当に届いていなかったのかは怪しいところがあり、戦後のニュルンベルク裁判で争点になった)、爆撃は強行されます。このため完全な不意討ちとなり、約900人の市民が死亡しました。後のアメリカによる戦略爆撃に比べれば小さな数字で済んだのは開戦から爆撃当日までの数日間で多くの市民が疎開していたからだと言われています。それでも当時の常識としてはかなりの数の非戦闘員、市民が犠牲になった事、さらにもっと多数の市民が犠牲になったと思われていた事(連合軍側の政治的な宣伝、プロパガンダでもあるが当初は3万人が犠牲になったとされた)などからオランダ側は強い衝撃を受けます。

さらにドイツ軍が次はユトレヒト市を爆撃すると通告したことで、オランダ側は完全に戦意を喪失、降伏を決断する大きな理由となりました。この点は史上数少ない無差別爆撃による戦意喪失からの降伏の例と言えます(ほぼ唯一だろう)。ドゥーエの戦略爆撃万能論は、わずか900人の死者だったオランダでは有効だったのです。十万単位の犠牲を出しても降伏しなかった日本とドイツとは対照的な部分でしょう。それはなぜか、というのは興味深い部分ですが、本稿の主題とはズレるので今回は踏み込みませぬ。ちなみにこの「間違った成功体験」がゲーリング閣下による「ドイツ空軍だけでイギリスに勝てるよ、ゲッシシッシ」思考に大きな影響を与えたと筆者は考えております。

■空挺作戦

B軍集団の戦術に関してはもう一点、世界で初めてと思われる大規模な空挺作戦も触れて置きましょう。とにかく空軍を活躍させたい衝撃の白いデブ、ゲーリングの思惑と、とにかく敵の注意を引きたい事もあり、B軍集団は敵の飛行場や要塞に強行着陸して占領する、という派手な作戦を展開しました。一部は成功したものの、結果的にはかなりの損害を受けてしまい、この手の空挺作戦が容易ではない、というかむしろ危険すぎて実用に適さない事を証明する形になりました。

まずは開戦と同時にドイツ空軍はオランダ領内の主要な飛行場を爆撃、敵の航空戦力の多くを無力化します(一度飛び去って海峡に向かい、これは対イギリス戦だとオランダ側を油断させた、という話もあり)。ここまでは順調でした。そしてその後、約430機のJu-52輸送機による空挺部隊がオランダの事実上の首都、ハーグ周辺に殺到するのです。



ドイツの空飛ぶ軍馬、三発エンジンのJu-52輸送機。本来は輸送機であり、空挺部隊の投下が限度、強襲着陸作戦に使えるような頑丈な機体ではありませぬ。最高速度も260q/h前後と鈍足であり、空挺作戦で低空を飛行する場合、地上からの対空砲火のいい的になってしまいます。ところがドイツ空軍はオランダ戦でこの機体を空港に強行着陸させ、当然のように散々な目に会う事になるのでした。

特にハーグ近郊にあったイペンブルク(Ypenburg)飛行場の制圧は悲惨でした。先行して降下した空挺部隊が空港の制圧に失敗した所に強行着陸したため反撃を受け、さらに着陸に失敗した機体が滑走路を塞いでしまいます。続く多くの機体が着陸に失敗、さらに強行着陸を試みた機体は湿地で脚を取られるなどして、次々に失われる事に。そこにオランダ側の反撃を受け、ドイツ軍部隊は空港から撤退する状況にまで追い込まれるのです。

この点に関してはオランダの研究家、J.N. Fernhoutさんがドイツ側の研究を基にした、"Het verband tussen de Luftwaffe-verliezen in mei '40 en de Duitse invasieplannen voor Engeland"という記事をMilitaire Spectator誌 1992年8月号(161号)に発表しています(本来の主題はその損失が後の英国の戦いに与えた影響だが)。それによるとオランダ戦におけるドイツ軍の戦闘機、爆撃機の損失は5%前後で軽微だった。ただし輸送機のJu-52だけは話が違い、オランダのハーグ周辺に投入された約430機の内、224機の損失が報告されている、としています。実に損失率52%、5割以上の機体が失われた事になります。大失敗だったと言っていい数字でしょう。



■Photo:Federal Archives 

事実上の首都、ハーグの南に位置するイペンブルク飛行場で、オランダ側の反撃により、着陸後に破壊されたJu-52。ちなみにドイツ側の資料ではデルフト(Delft)飛行場と述べられている事がありますので注意。

ただし全てが失敗したわけでは無く、成功した作戦もありました。航空機による飛行場の制圧ではなく、He-59水上機によって部隊を送り込んだロッテルダム周辺では空挺部隊の投入が見事に成功しています。市の南側を流れるニューウェ・マース川に着水した機体から降り立った部隊は、市内中心部に向かうウィレムスブルク橋を無傷で占拠し一帯の敵を掃討、ロッテルダムを孤立化させる事に成功したのです。

もう一つの成功がオランダとベルギーの国境付近にあったエバン・エマール要塞(Fort Eben-Emael)の攻略でした。ただし、こちらも人的損失は大きなものになってしまうのですが。まずはその位置を地図で確認して置きましょう。



エバン・エマール要塞は第6軍がポーランド南部の狭い地帯を突破しベルギー領に侵攻する途上、両国国境に位置しています。ベルギー軍が守る要塞で、第6軍の進撃に置いて最大の障害になると思われていた防衛拠点でした。



■Photo:Federal Archives 

写真の左側がエバン・エマール要塞。運河沿いの切り立った立地にありました。画面右手の奥に運河と平行するようにマース川が流れており、それがオランダとの国境となっています。要塞の強力な火砲は一帯の運河、さらにはマース川に架かる橋を射程内に収めていたので、運河に架かる三つの橋を経由してベルギーへの侵攻を計画していたドイツ軍にとって脅威となりました。

ただしベルギー軍は徹底抗戦を想定しておらず、先にも述べたように全軍を素早くブリュッセル周辺の防衛に集結させる予定でした。よってドイツ軍が来たら運河に架かる橋を爆破してさっさと撤退する段取りとなっており、これを防ぐためにドイツ側の作戦は開戦直後の速攻が求められたのです(ドイツ側がベルギーの作戦を知っていた可能性は低いが、ベルギーが戦力で劣る以上、まずは橋を落としてドイツ軍の足止めを狙うのは定石の戦法として想定されたはず)。よって三つの橋の確保が主目的であり、要塞の占領はそれを妨害させないための支援作戦だったとも言えます。

御覧のように右手のオランダ側から運河を渡河しての攻略は切り立った崖によって不可能に近いのですが、要塞の屋上部が平坦な土地になってる点にドイツ側は目を付けました。すなわちここに航空機で強行着陸、空挺部隊によって上から要塞を制圧してしまえ、と考えたのです。このため開戦直後の5月10日早朝からグライダーで国境を越えて突入、三つの橋と合わせて一気に占拠してしまう作戦に出ます(グライダーを採用したのはベルギー軍にレーダーは無く音さえ聞こえなければ完全な奇襲が出来ると考えられたため。ただし実際はあっさり発見されて対空砲火を受け、少なくとも2機が撃墜されている)。

結果的にこの奇襲は成功、要塞は攻略され、三つの橋の内、一つは爆破されたしまったものの、残り二本は確保され、オランダ領を突破して来た第6軍の進撃を助ける事になります。ただしこの作戦も損失は小さくなく、約500人(資料によって数字が異なり、正確な所は判らない)が三つの橋と要塞の奇襲に参加していますが、死者は約50人(撃墜されたグライダーに乗っていた人数が判らない。ちなみに英語圏の資料で良く見る、わずかに6人が戦死という数字は要塞戦のみのもので、三つの橋の戦死者を含んでいない)、負傷者は100人を超えていると見られます(撃墜されたグライダーに乗っていた兵を含む)。即ち約500人の兵の内、戦死が10%、負傷者が20%、両者を合わせると三割を超える兵員が戦闘不能に追い込まれており、事実上、壊滅に近い損失を受けています。敵地への空挺部隊による奇襲は効果も大きいですが、損失もまた大きいのです。

実際、後のノルマンディー作戦では逆に連合軍側がグライダーによる空挺部隊による強襲をやっていますが、大きな損失の割には(第82空挺は最終的に46%の死傷率を記録した)ほとんどまともな戦果を上げれずに終わっています(ちなみにアメリカ陸軍のエリート部隊、101空挺部隊の空挺作戦デビュー戦で、指揮官はあのベトナムの悪夢、テイラー。ついでに82空挺部隊の空挺作戦デビュー戦でもあり、こちらの指揮官は朝鮮戦争の奇跡、恐らくアメリカの産んだ最強の軍人の一人、リッジウェイ。ただしリッジウェイは初期の作戦には参加していない。さらに言えば両人とも後に陸軍参謀長になっている)。

オランダの終わり

このように本来なら囮部隊に過ぎなかったB軍集団は予想以上の戦果をオランダで収め、開戦から6日目、15日にはこれを降伏にまで追い込んでしまいます(主要な戦闘だけなら13日中にほぼ終わっている)。そしてその中にはいくつかのOODAループ的な「戦わずして勝った」勝利が含まれました。

そもそも戦力的にオランダが勝てる可能性はほぼ無かったのですが、それでもここまであっさり負けてしまったのはオランダ側の油断があった事は否めませぬ。そして、それにはいくつかの理由がありました。まず第一次世界大戦の時の経験。ドイツ軍は中立を宣言していたオランダを迂回してベルギー領からフランスに向かったため、今回も同じ事になるのでは無いか、という楽観論があった事。この点はドイツ側が1939年の10月の段階で、オランダの中立宣言を尊重すると宣言していた事でさらに楽観視されたようです。さすがに1940年に入った後はオランダも無策ではなく、いくつかの手は打ったのですが、時すでに遅く全て無駄に終わったわけです。

この点、メヘレンの不時着事件によって確実にドイツ軍が侵攻して来ると知っていたベルギーに比べ、かなり楽観的な空気があったと思われます。さらにそのベルギーは連合国側の作戦に合わせた行動を基本としたため、オランダ軍との共闘がほぼできませんでした(戦前に何度か話し合いが行われたが物別れに終わっている)。ちなみにベルギー側の反応は素早く、イギリスの公刊戦史、例の「THE WAR IN FRANCE AND FLANDERS」によると前日、9日夜の段階でベルギーはドイツ側の動きに気付いており、開戦前の早朝4時の段階でイギリス大使を呼び出し、本国に支援を求めるように要請しています。

ちなみに戦前のオランダの状況を見たフランス軍総司令官ガムランは不安を感じ、このため予備戦力だった例の第7軍をオランダ国境線に最も近い北端に配置する決断をした、と見られています。よってオランダの油断が連合国の主力全てが罠にかかる結果を産んだ面もあるワケです。

こうして「囮部隊」であるB軍集団は快速で進撃を続け、そのままベルギーに侵攻、連合軍の主力が待ち構えるダイル川沿い(南はマース川沿い)の防衛線、ダイル防衛線目指して進むことになるのです。といった感じで今回はここまで。次回は開戦直後の連合軍側の動きなどを見て行きましょう。


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