開戦の決定

ドイツ側が創意工夫の無い戦争計画を捨て、マンシュタインによるドイツ参謀本部伝統の高速機動による包囲殲滅戦を採用するに至るまでを既に見ました。

ただしドイツ軍の詳細な記録は1945年4月のポツダム空襲でライヒ文書館(Reichsarchiv)が焼け、さらにその前に行われた書類の避難先がドイツ東部だったため、戦中にソ連軍が没収して行方不明になったものが多く、実は正式な記録はあまり残ってません。よってヒトラーがいつ決断を下し、ドイツ側が正式に開戦の準備を始めたのかは良く判りませぬ(筆者が資料を見つけられなかっただけ、という可能性は否定できないが)。ただし総統指令 改訂第10号が1940年2月24日付で出され、さらにグデーリアン将軍が3月15日にヒトラーに対する作戦説明が行われた、としてる点から、3月中に5月には開戦、という方針が決定していたと思われます。

ちなみにその一月前の4月9日にドイツ軍はデンマークに侵攻、これを世界記録の速攻で攻略すると(先に述べたように開戦から数時間で終戦)、続いてノルウェーにも侵攻、低地諸国&フランス戦の開戦段階でまだ戦闘は続いてました。

戦いは数だよ、兄貴
 
さて、そんな感じに決定した対フランス戦ですが、開戦前のドイツと連合軍(イギリス&フランス、そしてメレヘン事件で巻き込まれる事が判明して中立を捨てたベルギー、ルクセンブルク、オランダ)の戦力を比較してみると、絶望的なまでにドイツ側が不利でした。この辺りの状況はドイツ側も判っていたのに、ヒトラーの暴走で開戦に至るわけです。その圧倒的に不利な状況を覆すために考えられたのが、マンシュタインによる高速機動による包囲殲滅戦だった、とも言えます。ただしそれに加えてフランス側があまりに呑気だった、という部分が極めて大きく、軍が馬鹿だと国が亡ぶ第二位の座を安泰なものにしています(一位は不動の我らが大日本帝国である)。

まずは実際、どこまで不利だったのか、という点を数字で見て置きましょう。ただし先に述べた理由でドイツ側の公式な記録は不明点が多いのですが(特に航空戦力)、この点は「電撃戦という幻」の中でかなり丹念に調査されているので、その数字を基本として見てゆきます。ちなみに前回も述べたように筆者が一度自説を述べると、以後、事実関係を無視してこれを展開するという悪癖が「電撃戦という幻」にはあるんですが、単純な事実関係に関しては信頼が置けると言っていい研究なので信頼して大丈夫でしょう。とりあえず陸戦の主要な三部門、兵員、戦車、野砲の数でドイツ側が優位だったものは一つもなく、野砲と戦車の差はほぼ二倍にもなっていました。普通に考えたら戦争になりませぬ。この数字で開戦しようと思うんですけど…と孫子(初代の方)先生の所に報告に行ったら独歩頂膝から鉄山靠を食らってノックアウトされるってな位の数字なのですが、それでもドイツ軍は勝ってしまったのです。電撃戦恐るべしでしょう。まあ何度も繰り返すようにフランス軍が愚かだった、というのも事実ですが。

ちなみに英語圏の史料、とくに1980年代以前の古いものだと電撃戦時のドイツ軍は英仏軍を質量ともに上回っていた、とか平気で書いてますが、間違いなく作戦的な失敗、知恵による敗北を隠蔽するための嘘です。この辺りは例のイギリス側の公刊戦記、THE WAR IN FRANCE AND FLANDERSが出どころだと思いますが、まあ英語圏の史料を鵜呑みにしちゃダメよ、といういい例の一つになってます。参考までに同書では、
By concentrating for the offensive larger and better furnished forces than France and Great Britain could muster at that time, German ensured some initial success, but the spectacular pace at which three countries were conquered, while partly due to this preponderance of German forces, owed much to good planning and to the skill with which their operations were conducted.
という無駄に長くて判りにくい表現で、「まあドイツの連中の作戦立案と遂行の能力は確かに凄かったしそれに負けたんだけどさあ、でもね、それだけじゃなくて兵数と装備の質でも上だったんだよ、ドイツ軍の連中はさあ」と述べてます。そんなワケねえよ、君たちは純粋に知恵と勇気だけで負けたんだよ、というのを見て行きましょう。


●両軍の陸戦兵力(1940年5月10日、開戦時)

   ドイツ陸軍  連合軍
 兵員   420万(軍410万+親衛隊10万)  550万(仏)+39.5万(英)+105万(オ・ベ)=694.5万
 戦車  2439両  4204(仏)+310(英)+310(オ・ベ)=4824両
 野砲  7378門  10700(仏)+1280(英)+1994=13974門
*イギリスの兵数のみイギリス側の事実上の公刊戦記であるTHE WAR IN FRANCE AND FLANDERS による。以下同。


連合軍のオ・ベという表記はオランダ&ベルギー軍の総計です。実際はルクセンブルクの軍も居たのですが数字が残って無いのでここでは取り上げません。ちなみにオランダ、ベルギー、両共軍に速攻でドイツに突破されて崩壊したので無きに等しい扱いをされる事が多いですが、実はそれなりの兵力を持ってはいたのでした。

ちなみにグデーリアンもその回顧録で戦車の数はドイツが2200両、連合軍が4800両としていますから、この数字に近い情報は早い段階からドイツ側も知っていた可能性が高いです。それでも開戦しちゃったんですよ、ヒトラーは。

ただし幾つか注意点があり。まず両軍ともその総数であり、今回の低地諸国&フランス北部戦線に投入されたのはその一部である事。全土が巻き込まれたオランダ&ベルギーを別にすると、電撃戦の現場で戦った戦力はこれより少数です。特に兵員に関してはドイツはノルウェーでも戦闘中、フランスは南のマジノ線周辺にも兵力を割いていた事、そしてイギリスの数字には輸送や基地建設、そして各種後方支援の隊員(戦闘訓練が行われてない)なども含むので、今回の戦闘地区に限った兵員数は以下のような数字になります。

フランス&低地諸国の戦いにおける兵員数

 ドイツ陸軍  連合軍
 300万+(親衛隊の数が不明)  224万(仏)+24万(英)+105万(オ・ベ)=353万

ドイツ軍が不利なのは変わりませんが、それでも先に見た数字、約1.65倍に比べると約1.2倍とかなり差は縮まるのです。これはフランス軍の数字の影響が大きく、見れば判るように全軍の内半数以下しかこの戦域に投入してません。アフリカの植民地に居た兵とかは仕方ないでしょうが、それ以外にも無用の長物なるマジノ線などにも多数の兵力を割いた結果でした。今回の作戦に全財産をポンと賭けて来たドイツと、それが出来なかったフランスの差が出たとも言えます。この点、いくつかフランス軍に同情の余地もあるのですが、それでも兵力が少なすぎた、という批判は避けれませぬ。そして同じ過ちをフランスは航空戦でもやるのでした。

ちなみに戦車の数に関しては、ドイツは恐らく全車両をここに投入したので変わりませんが、フランスはやはり全土に分散配備していたので数が減ります。ただしイギリス軍は開戦後に330両の戦車を送り込み、5月中には全てフランスに到着した、とされるので、こちらは逆に数が増える事になります。その点を考慮すると、

フランス&低地諸国の戦いにおける戦車数

 ドイツ陸軍  連合軍
 2439両(上記の表と変わらず)  3254(仏)+640(英)+310(オ・ベ)=4204

こちらはフランス軍も一定の数を集中しており、さらにイギリス側の追加配備もあって、それほど大きく比率は変わらず、全体で約2倍だったのが1.7倍になったに留まります。数の上では圧倒的に優位だったのです。ただしこの戦争における「戦車」にはちょっと注意が要ります。後に独ソ戦が佳境に入ったあたりからティーガーだパンターだ、T-34/85だと無敵の鋼鉄の塊、という印象がある戦車ですが、この時期はまだまだ旧式戦車が戦闘に投入されており、皆でワーッと言ってひっくり返しちゃえば勝てるんじゃね?という車両がかなりあったのです。これらは戦車に求められる「速度」は満たしていても「火力」ではかなり劣る、というかそこらの歩兵小隊相手でも苦戦しかねないモノでした。よって必ずしも数字の印象から受ける「破壊力」を両軍が持っていた訳ではないのです。この戦争における戦車 、特にドイツ側のそれは、快速性を活かした神出鬼没の行動で後方部隊へ与える恐怖がキモだったという部分があります。

なので両軍の主力打撃力を担う戦車事情について、もう少し詳しく見て置きましょう。


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