■ドイツ軍の戦車事情



■Photo:Federal Archives

第一次世界大戦で負け、武装解除されていたドイツ軍が再軍備を開始したのはナチス党が政権を獲った後、1935年からであり、すなわち僅か5年前の事でした。よってまだまだその装備は貧弱で、1935年に生産が開始された豆戦車、I号戦車(Panzerkampfwagen I)すら未だに現役でした。武装は7.92o機関銃×2で、下手な装甲車両より貧弱、正面装甲でも13oしかなく、歩兵小隊相手でも勝てないんじゃないのか、これ、という戦車でした。ただし歩兵小隊よりは圧倒的に速く移動できたので、それだけが取り柄だったとも言えます。さすがに主力部隊となったクライスト装甲集団にはほとんど配備されて居なかったようですが、それでも全軍では523両が現役であり、すなわち「ドイツ戦車軍団」2439両の内、1/5、20%近くは無いよりはマシ程度のI号戦車で占められていたのです。ちなみに写真はポーランド戦の時のもの。乗員と比べれば極めて小さい戦車であることが見て取れるでしょう。



■Photo:Federal Archives

さらにI号戦車よりはマシだったとはいえ、主砲は20o機関砲に過ぎないII号戦車(Panzerkampfwagen II)も955両が投入されており、両者を合わせると実に1478両、何とステキドイツ戦車軍団の全体の60%が「それを君は戦車と呼ぶのかね」という戦車だったのでした。それでも勝っちゃうのが電撃戦なんですが。 逆に言えば快速性だけでもかなりの武器になる、という証明でもあります。



■Photo:Federal Archives

ただし、両軍とも虎の子と言っていい新世代の強力な戦車を僅かながら持っていました。ドイツ側は1939年に配備が開始されたIII号戦車(Panzerkampfwagen III)を349両、この戦闘に投入て来ます。恐らく完成していたほとんどの数だと思われます。フランス戦車の多くと同じ37o砲が主砲でしたが、より長砲身で破壊力は上回りました(そもそも対戦車砲を改造して搭載した)。かつ大型で当時としてはかなりの重装甲の戦車でした。後に独ソ戦が始まるとあっという間に旧式化してしまうんですけどね。これも写真はポーランド戦の時のもの。


■Photo:Federal Archives


後にドイツ軍の戦車として最大数の生産がなされ、終戦までこき使われる事になる戦車、IV(4)号も278両ほど投入されました。III号、IV(4)号は同時に開発が始まった戦車なので、IV(4)号の方が最新型という訳では無いのに注意。本来ならより軽量で小回りの利くIII号が主力戦車で、IV(4)号は対要塞戦のような強力な火力が求められる戦闘支援用の車両でした。このため当初から75oという強力な主砲を搭載しており、今回の戦闘ではドイツの戦車軍団の切り札とも言える存在になって行きます。よって、そのほとんどがグデーリアンの配下に入っていたと思われます。ただし威力の劣る短砲身であり、基本は敵陣地を砲撃する支援戦車で、対戦車戦には向きませぬ。

ちなみに写真は生産開始直後の1938年の10月に行われたパレードのモノなのでA型かと思ったんですが、何かいろいろ妙なので、ひょっとして試作車?

この両戦車計627両だけが、ドイツ軍における火力と速力を兼ね備えた本格的な「戦車」だったと言っていいでしょう。
ただしドイツ軍には両者の中間とも言えるチェコスロバキア製の38(t)戦車という存在があり、これが228両程配備されていました。これは主に第四軍配下の第15装甲集団に配備されたようです。すなわちあのロンメル軍団が使った戦車、という事になります。

対戦車砲としての8.8cmFLAK

さらにドイツ側の特殊事情と言うか、電撃戦を通じて誕生した必殺兵器と言うべき存在に触れて置く必要があります。
8.8cmFlak、すなわちアハトアハト(Acht-acht ドイツ語で88)の対空砲です。本来は高速進撃する機甲部隊を守る対空砲として牽引車に引かれて投入されたのがこの8.8cmFlakでした。ところが後で見るように強力な装甲を持つ連合軍の戦車に手を焼いたドイツ軍は、この強力な砲で対戦車戦闘を開始、誰も予想しなかった戦果を上げて行きます。

以後、本来なら対空砲だったのにその優秀な性能から対戦車砲としても活躍、それどころかドイツの伝説戦車ティーガーのI&IIの主砲として搭載される事になるのです(ただし前者は36型、後者は43型を搭載。ちなみに43型はエレファントとヤクトパンターにも採用されている)。

ちなみにポーランド戦の時も反撃して来た敵地上部隊相手に撃たれた例がありますが、対戦車戦闘に投入されたのは電撃戦が初めてでした。



写真は37型ですが、こちらからは良く見えない射撃管制装置など以外は電撃戦に投入された初期型、18型と大きく変わりませぬ。中央付近に立っているマネキンドイツ兵と比べてその大きさが判るかと。前後に移動用の車輪ユニットを取り付ける事ができ、これを牽引車で引っ張って運用してました(ハーフトラックの後部に搭載された自走式もあるが電撃戦時に投入されていたかは不明)。ちなみに大きな迎角を取らない限り、すなわち大きく上に向けない限り輸送用車輪を付けたまま射撃が可能です。すなわち対戦車戦闘なら車輪をつけたまま戦闘に入れました。

そもそもフランスの戦車シャール B1bis、イギリスの戦車マチルダ IIの正面装甲をぶち抜ける戦車も対戦車砲もドイツ軍には存在せず(37o戦車砲か短砲身で破壊力の低い75o砲しか無かった)、もしこの「対空砲」が無かったら電撃戦は成功してなかったでしょう。特にロンメルの暴走には大きな助けになっていました。8.8cmFlakは最終的に152両の戦車を撃破したとされます(電撃戦後に行われた掃討戦の期間も含む。数字は「Flak: German Anti-aircraft Defenses 1914–1945. Modern War Studies/Edward B. Westermann/2005.9刊」より)。ただしグデーリアンの主力部隊の戦果は13両のみとされるので、その多くは他の部隊、主にクライスト装甲集団の北を守っていた第15装甲軍によるものだったと思われます。さらに後に掃討戦に入った時、マジノ線のような要塞相手の戦闘にも投入され、多くのコンクリート製塹壕を撃破しています。

隠れた主役と言っていいのがこの兵器なのです。ちなみに後の連合軍によるドイツ本土への戦略爆撃を迎え撃ったのもこの砲であり、ある意味、もっとも恐れられたドイツ兵器とも言えるでしょう。



■Photo:Federal Archives


ちょっとだけ脱線。筆者が確認した範囲で、8.8cmFlakが対戦車戦闘に投入されている最も古い写真。撮影日時は電撃戦開始から5日目の1940年5月15日。

画面中央付近で畑の中に車輪を付けたまま配置された8.8cmFlakは牽引車が外されているので戦闘状態、砲身は水平を向いてるので恐らく対戦車戦を行っています。撮影場所はベルギーのシャンブル―(Gembloux)、そして左に見えてるドイツ戦車は中型の38(t)か35(t)だと思われるので、恐らくこれクライスト装甲集団の北側で護衛を担当していた第15装甲軍団の第5師団です。

その同じ第15装甲軍団に所属していたのがロンメル率いる第7師団でした。でもってこの日の朝、ベルギーのフラヴィオン(Flavion)を中心とした直径4qの範囲に集結中だったフランス最強の機甲部隊、第1戦車師団をロンメルはウッカリ急襲、相手が燃料補給中だったのをいい事に好き放題撃ちまくって大混乱に陥れ、気が済んだらスタコラサッサさと逃げ去ってしまいます。

気の毒だったのが後続の第5師団で、燃料補給も終わり、あの野郎、人が動け無いのをいい事に好き勝手やりやがって、と怒りに燃えて待ち構えたフランス第一戦車師団のど真ん中に突っ込んでしまう事になるのです。当然、壮絶な戦車戦が展開されるのですが、この時、初めて8.8cm砲が本格的な対戦車戦に投入されたのだと思われます。写真は恐らくその大乱戦中のもの。ちなみに第5師団はそれでもフランス第1戦車師団を撃破できず、後に航空支援を受ける事によってようやく危機を脱するのです。その間、第1戦車師団に最初にちょっかい出したロンメルは遥か西方、ベルギー・フランス国境線の手前に到達しておりました。そういう人なのよ、ロンメル。

この辺りはまた後で少し詳しく見る事になるでしょう。

連合軍側の戦車事情

ただし連合軍側も似たような面はあり。フランスの大戦車軍団にも豆戦車と言っていい車両が結構な数ありました。



■Photo:Federal Archives

写真の小さい戦車は1935年からフランス降伏直前まで生産が続いたソミュア(Somua)35(分類としては歩兵支援に当たる騎兵戦車/ cavalry tank。おそらく移動中に撃破されたため走行状態で砲身を後ろに向けている)。この後ろから近付いて皆で袋叩きにしちゃえば千葉のヤンキー集団でも勝てそうな戦車は300両が、すなわちフランス軍の戦車の内1割弱の数が現地に配備されていました。ただしこの戦車は小型ながらも47o砲を搭載してるだけマシで、第一世界大戦世代の生き残り、ルノーFTも315両、やはり全体の約1割ほどの台数が実戦投入されています。ルノーFTは37o速射砲を搭載出来たとはいえ、短砲身で貫通力は低く、最終型でも最大装甲は22oでしたから、やはり戦力的にはほとんど期待出来ませぬ。

フランス戦車の中で最大の900両が投入されたルノー35戦車はもう少しマシでしたが、それでも主砲は短砲身の37oであり(反動が小さいので小型の砲塔でも積めるが貫通力、射程距離、どちらも貧弱である)、対戦車などではほとんど役に立ちませんでした。


■Photo:Federal Archives


対してフランスの切り札となったの戦車がシャールB1、中でもその改良型のB1ビス(bis)でした。ちなみにフランス占領後、ドイツ軍が接収して使用した時はB2の名前になっていたため、そちらの呼称が使われる事もありますが、正しくはB1 bisです。

写真は電撃戦中にベルギーで撮影された車両。手前のドイツ兵と比べればその巨大さが良く判ると思います。47o砲を搭載した砲塔を後ろに向けてるのでこれも移動中に撃破された可能性が高いと思われます。よく見れば車体の正面にも75o砲が搭載されているのが見えます。車体に大型砲を積んじゃうのはアメリカのM3戦車などもやっていた設計で、対要塞戦闘など動かない重装甲の敵を攻撃するためのモノです。というかこの戦車の場合、当初、車体の75o砲だけしか無い、一種の自走砲として開発されていました。対戦車戦闘が可能な長砲身の47o砲を積んだ砲塔部は後から追加されたものです。その辺りから判るように開発は迷走を重ねており、1920年代初頭に開発が始まりながら、最終的に採用されたB1の生産が開始されたのは実に1937年に入ってからで、極めて高価な戦車となってしまいました。生産にも手こずり、フランス国内の複数の会社で生産されたのにも関わらず、最終生産型、写真のB1ビスの総生産台数は僅か369台だったと言われています。この内274両が電撃戦に投入されたのでした。

この戦車は旧式な車体に中途半端な主砲を二門積んだ珍戦車といった扱いを受けてる事が多いのですが、電撃戦に置いてはドイツの戦車軍団をかなり苦しめました。ほとんどの車両は単独運用され各個撃破される、さらに酷い場合は移動中に戦争が終わってしまうという状態だったのですが、戦闘に参加した車両は徹底的にドイツ軍を苦しめました。特に後に見るストンヌ攻防戦ではドイツ軍を恐怖のズン底に突き落とす活躍を見せ、このため現在もストンヌの街にはこの戦車が飾られておりまする。



そしてドイツ、フランス、イギリスの三軍の中で、最も強力な戦車部隊を持っていたのがイギリス軍でした。

電撃戦とロンメルとのアフリカ戦があったものの、以後、1944年のノルマンディ上陸戦までまともな陸上戦をやって無かったイギリス軍は印象が薄いですが、この時期まではソ連と並んで最もバランスの良い、強力な戦車を持っていたのです。イギリスがフランスに送り込んでいたのが確認できる戦車は三種類、2号巡航戦車(Cruiser Mk II, A10)、3号巡航戦車(Cruiser MK III, A13 MK I)、そして写真の2号歩兵戦車( Infantry Tank Mark II)、すなわちマチルダ IIでした。どの戦車も長砲身の2ポンド砲(40o)を搭載、これも元々は対戦車砲だったのでその貫通力は当時としては強力でした。

そして高速移動のために装甲を削った巡航戦車と違い、重装甲の歩兵戦車であるこのマチルダIIはドイツ軍にとっても極めて手強い敵となったのです。特に電撃戦終盤最大の激戦となったアラスの戦いでは、マチルダIIを装備したイギリス戦車部隊によってロンメ率いる第7装甲師団は壊滅寸前に追い込まれます。ドイツ側の戦車では歯が立たず、ロンメルの超必殺技88m砲を引っ張り出して来て、ようやくこれを撃退しました。この辺りはロンメルでなければ三回は全滅してたな、という戦闘だったと言えます。まあ、そこまでピンチになったのはロンメルの暴走が原因なので、ロンメルでなければこんな危機に陥る事は無かった、というのもまた事実なんですが。この辺りは後ほど詳しく見る事になるでしょう。

といった感じで今回はここまで。


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