■鉄砲のお話

さて、お次は鉄砲のお話を。
この戦いで織田・徳川連合軍が大量の鉄砲を投入したのは間違いなく事実ですし、
織田軍などは最後の追撃戦に入るまでは、鉄砲足軽だけで戦ったと見ていいようです。
(対して血の気の多い(笑)徳川軍は売られたケンカは買うため、
鉄砲足軽以外の武者も柵から出て戦ってる)



織田・徳川連合がどんな火縄銃を使ってたかはさっぱり判りませんが、
とりあえず当時の火縄銃に近いであろう、というモノたちはこんな感じ。
国立歴史民俗博物館に展示されてた国産火縄銃で、上が国友筒、下が堺筒です。
これらの発射の段取りは結構複雑なんですが、訓練すれば1分で1発以上は撃てたようです。

といっても私は火縄銃はよう知らんので、当たると痛いし、
ヘタすりゃ死ぬ、というくらいしか書くこと無いんですが。

ちなみに信長がいつから鉄砲に興味を持ち始めたのかはよくわかりませんが、
信長公記に最初に鉄砲の記述が出てくるのは、彼がまだ青年で15、6歳のころから
鉄砲の訓練をしていた、という話からです。
これは天文18(1549)年ごろの話なので、種子島への伝来から10年足らずで
すでに尾張にまで火縄銃が入っていた事になります。
が、この後鉄砲の話が出てくるのは、義理の父である斎藤道三の面会の場に
鉄砲部隊を連れて行った、とか、今川の軍と村木の城で戦った時に使った、
という尾張の国統一以前の話ばかりで、その後、美濃併合、浅井、朝倉との戦い
などではほとんどその記述がありません。

ようやく登場するのは、永禄12年(1569)年9月の
大河内城攻めからで、長篠の戦いの約6年前の事となります。
この時は信長本陣の警護の中に鉄砲衆が居たと書かれてる他、
城攻めの時、雨が降ってしまったので鉄砲が使えなくなった、という記述が見られます。

その翌年、元亀元年(1570年)8月に大阪で本願寺勢力と戦った
摂津野田・福島攻めで、おそらく初めて、本格的な鉄砲戦が展開されました。
この時は敵に回った根来、雑賀衆が鉄砲を陣地に3000丁も持ち込んだようです。

対する織田軍の鉄砲の数の記述が無いのですが、
翌年の浅井攻めの撤退戦で500丁の鉄砲を使った、とあるので、
少なくとも織田軍自前では3000丁には遠く及ばない数だったと思われます。
この時は、昼夜を通じて撃ち合う銃声がすさまじく続いた、との事ですから、
織田軍も、別の鉄砲集団を抱えて、これに対抗した可能性もあるでしょう。

すなわち、長篠の戦いが最初に大量の鉄砲が使用された戦、
というわけではないのも、覚えておいてください。
長篠戦で織田軍が持ち込んだ鉄砲は記録にある数字だと1500丁に過ぎません。

ところが不思議なことに、その直前に起きた、浅井、朝倉相手の合戦、
姉川の戦いでは、ほとんど鉄砲の話が出て来ません。
元亀元年(1570年)の6月に、浅井の小谷城を攻めた後、撤退戦に入ってから、
500丁の鉄砲でこれを援護した、という話があるだけです。

それ以降も、浅井・朝倉相手の戦闘で鉄砲の話は一切出ず、
次に登場するのは長篠の2年前、天正元年(1573年)の伊勢長島からの撤退戦と、
翌年、天正二年(1574年)に行われたその報復戦の話からで、
それまでの約5年間、鉄砲をどうしていたのか、全く記述がありません。

どうも当初の鉄砲は信長自前ではなく、雇い入れた連中の持ち物で、
その威力に驚いた信長が、以後、数年かけて自前でそろえたのか、
という感じもしますが、この辺りは資料が無く、断言はできません。

まあ、とりあえず、天正三年(1575年)5月の長篠の戦に、
大量の鉄砲を織田軍が持ち込んだのだけは、間違いなのない事実です。

甲陽軍鑑によれば、長篠城攻めの段階で、既に武田軍は鉄砲に苦しめられてたようで
長篠城があそこまで持ちこたえたのは、この辺りの影響もあるのかもしれません。
さらに合戦本番では武田側の侍大将、
すなわち指揮官級の多くが「鉄砲に当たり死する」とされてます。
なので鉄砲の大量投入という戦術に武田軍が悩まされたのは事実のようです。

この辺り、新兵器の有無で戦闘の行方がある程度決定づけられており、
日本の戦闘における近代戦の幕開け、ともいえるかもしれません。
(ただし鉄砲が無くても戦術の差、兵力の差で織田・徳川が勝ってたろう)

では織田・徳川軍は、実際にどの程度の鉄砲を持っていたのかを
それぞれの資料から、判る範囲で見て置きましょう。
ちなみに三河物語には鉄砲の数量に関する記述は一切ないので、
数字は全て甲陽軍鑑と信長公記によります。

■長篠城籠城兵及び酒井奇襲部隊

長篠城内に恐らく500丁前後(甲陽軍鑑)

酒井奇襲部隊の織田軍に500丁(信長公記)
徳川軍も持って行ったのは間違いないが数量不明

■織田・徳川連合軍本隊

織田軍団の鉄砲部隊に1000丁
(信長公記。ただし写本によっては100丁と書かれてるものがあるらしいが未確認。
が、100丁はどう考えても少なすぎるので、ここでは無視する)
徳川側の装備数は不明


長篠城内の鉄砲500丁に関しては、
城攻めにに手こずった馬場信治が軍議の席で、
城内の鉄砲の数はこの位だろう、と推測したとされる数字。
ただし本人、戦死してますから、ホントにそう言ったのかはわからず。
さらにあくまで武田側の推測でして、根拠はやや弱いです。

一方で、これと合流した酒井の奇襲部隊には最低でも織田軍の鉄砲500丁があったとされ、
さらに装備数は記述が無いものの、そこに徳川軍の鉄砲が加わります。
よって長篠城奪回後、武田主力軍の背後に
少なくとも1000丁以上となる織田・徳川軍の鉄砲が集結した、と考えてよいと思います。

2年半前の三方ヶ原の戦いの時、徳川軍は惨敗した腹いせに
夜中にこっそり武田の陣地に近寄って鉄砲ぶっぱなっして逃げ帰る、
というイヤガラセのような夜襲をやってます。
三河物語によると、この夜襲の時、三方ヶ原から逃げ帰った諸隊から
とにかく鉄砲をかき集めたが100丁前後だった、とされます。

となると1000丁というのは、当時としては相当な火力です。
後で見るように奇襲部隊は長篠城解放後、
武田本隊に対し、後ろから攻撃を仕掛けたようにも見えるのですが、
これだけの火力があって指揮官が酒井なら、やったんじゃないかなあ、と思います。

対して本隊に関しては、織田軍の1000丁以外、
一切資料に数字が無く、総数はよく判りません。
徳川側も鉄砲は持っていたはずですし、少なくとも本隊に1000丁しか残らない条件で
奇襲部隊に500丁も出さないでしょうから、織田軍には予備の鉄砲部隊も居たんじゃないでしょうか。

ちなみに例の四戦紀聞では本隊の鉄砲隊は3000人とされてますが、
例によって(笑)信憑性が微妙なので、ここでは取り上げません。
ちなみに“近年の資料”ではこの3000丁説が無批判に受け入れてる事が多いですが、
明確な根拠のない数字であり、無視した方が無難です。

とりあえず本隊には最低でも1500丁(織田軍が1000、徳川がその半分で500)くらいの
鉄砲はあったと考えておけば、ほぼ問題はないでしょう。
 
対する武田側ついては、ほとんどの資料で鉄砲に関しては全く触れられてません。
例外はまた130年後の(笑)四戦紀聞で、鳶ヶ巣山の砦を酒井奇襲部隊が襲った時、
本多康重が左脚に鉄砲の弾を受け負傷したという記述があり、
長篠城を包囲してた武田側に鉄砲があった可能性を示してます。
ただし、先にも書いたように、ここに居たのは武田の正規軍ではないので、
個人で持ち込んだものの可能性が高いです。
ただしこれ、織田・徳川軍の流れ弾じゃないの、という気もします。

いずれにせよ、それ以外は一切、武田側の鉄砲についての記述はありません。
ちなみに2年半前の三方ヶ原の戦いのときは、武田側の先陣として投石部隊が登場しており、
この時は、ほぼ間違いなく、鉄砲部隊は居なかったと思われます。
(少数の鉄砲を個人所有で持っていた可能性は捨てきれないが)

とにかく武田側に、戦力と呼べるほどの鉄砲は無かった、と見て問題ないでしょう。

それに対し、織田・徳川軍の鉄砲部隊はどう戦ったのかを
それぞれの資料ごとに見て置きましょう。

●信長公記

佐々成政、前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政の五人を鉄砲奉行とし、
その下に1000人の鉄砲足軽を付けた。
単純計算だと200人ずつの5部隊となる。
信長はこれを柵の外に出して、敵と十分に接近して戦わせ(近々と足軽を懸けられ)、
引いたり押したりして随時撃ちまくる、という戦法を取った。
(おそらく柵の中に一時的に退避したり、また出たりして戦った事を指してる)

一度だけあったらしい武田軍の騎馬突撃に対しては、身を隠して待ちうけ、
鉄砲隊だけで過半数以上撃ち倒してしまった。
(溝に隠れながらの射撃、すなわち塹壕戦をやったのか、
あるいは柵の後ろに隠れたのか、どちらかは判らない)
とにかく鉄砲足軽だけで、突撃して来たほとんどの敵を倒してしまったとされる。

余談だが、この鉄砲奉行五人の内、野々村正成、福富秀勝の二人は
後に本能寺の変に巻き込まれて命を落とすことになる。

●三河物語

織田軍は鉄砲足軽だけが柵の外に出て戦った。
ただし鉄砲足軽も柵の間際でのみ戦い、危なくなると中に引き上げた。

対して徳川では鉄砲足軽だけでなく、
大久保忠世、忠佐兄弟などが柵の外に積極的に打って出て戦った。
その間、武田側の主な名を知られた武将は
雨あられのような鉄砲の攻撃で討ち死にしてしまった。

●甲陽軍鑑

長篠城の敵の鉄砲は500丁はあると思われると馬場が述べたとされる。
その後、山県昌影は長篠の合戦中に鉄砲で撃ち抜かれて戦死、
その他にも「大将ども尽きて鉄砲にあたり死する」という状況に追い込まれる。

といった感じで、鉄砲大活躍、というのはどの資料も共通してる部分で、
その破壊力は絶大だった、と見ていいでしょう。


ちなみに長篠において織田・徳川連合は次弾の装填に時間がかかる
火縄銃の欠点を補うため、鉄砲足軽を3組に分けた、という話があります。
最初の組が撃った後、残りの2組が順番に射撃、
その間に最初の組が装填終了、間隔を開けずに次々と射撃を行った、というものですね。
これ、私が学生の頃は学校でもそう習ったような記憶があるんですが、
上の基本三資料にそんな描写はありません。

それに近い説明があるのは例によって(笑)四戦紀聞だけです。
信長は3000人の鉄砲隊を三隊に分け、1000丁ごとに立ち替わり撃て
(千丁宛立替々々発すべし)と命じられたと書かれてます。
ちなみに、この記述は、娯楽読み物と言っていい、甫安の信長記からの
丸写しと思われ、やはり四戦紀聞は資料としては微妙な部分がありますね…。

ただしこれも一斉に撃つな、それぞれが立ち替わりながら撃て、と言ってるだけであり、
装填速度を速めて連射、なんていう話は書かれてません。
次の敵に備えて、一度に全弾を使い切るな、と言ってるだけにも見えます。

そもそも鉄砲隊3000人説を取るなら(先に見たように私は取らないが)
幅2q程度の前線に、全員を一斉に並べて撃たせる事なんてできません(笑)。
よって、単にその対処方を指示してるだけにも見えます。
(1人1mの幅で密集配備させても、最大で2000人しか前線に並べない。
実際は地形などで配置不可能な場所もあるはずで、せいぜい1800人程度が限度だろう)
なのでこの文章だけから、3組が交代で装填、射撃を行って発射速度を上げた、
と結論づけるには、結構な想像力が要るような気もします。

興味深い事に、例の陸軍参謀本部がまとめた長篠戦史にも、
菊池寛の日本合戦譚にも、この三段早撃ちシステムの話は全く出て来ません。
どうも太平洋戦争以前は、この三段早撃ちシステムの話は無かったんじゃないでしょうか。

いずれにせよ、信長公記によれば鉄砲奉行は5人ですから、
1000人ごとに三隊に分ける、という段階ですでに話は破綻してます。
ヨタ話、と思っておいてほぼ間違いないでしょうね。


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