■長篠前夜祭

さて、そんなわけで武田軍団は長篠城を取り囲み、
対する徳川親子は隣の野田城まで進出、さらに信長も岡崎経由で現地に到着、
いよいよ長篠の戦いの主要登場人物が全員、現地に集合となりました。

ここから日本史上最大最凶、世界史的に見てもまれにみる
大規模な完全包囲殲滅戦、逃げ場を失った1万2千の大軍が
完全包囲網の中で完全に磨り潰され、殲滅される恐るべき戦いが始まるのです。

信長公記によれば信長の野田城到着が17日(城に入らず野営)、
設楽ヶ原の現地着が合戦3日前の18日となってます。
とりあえず、そこから天正三年(1575年)5月21日の合戦当日までの動きを見て置きましょう。
ちなみに日付は旧暦ですから、合戦のあった5月21日は現在の日付だと6月29日辺り、
すなわち梅雨真っ只中です。

この戦いで織田・徳川連合が大量の鉄砲を投入したことはよく知られてますが、
当時の火縄銃は、本格的に雨が降ってる中ではほぼ使えません。
合戦当日の天候について、一切記録が無いのですが、あれだけの鉄砲戦をやった、
という事は梅雨の真っただ中のこの日、雨は降っていなかったはずです。
もし雨だった、あるいは途中から雨になったなら、
鉄砲が使えなくなった織田・徳川連合軍があそこまで圧勝する事は無かったかもしれません。
(兵数、そして戦術の差から負ける事は無かったろうが)

この点、織田信長は、天候に関して恐ろしく運のいい男でした。
奇跡のような展開を見せた桶狭間の戦いのときは、
今川の本陣を襲撃する直前、暴風を伴うにわか雨が降り、
しかも織田軍が風上にいたため、全くその存在を気取られずに奇襲に成功してます。
長篠の戦いで天候に恵まれたのは、二度目の恐るべき天候運なのです。
ただし長篠の場合、後で見るように、信長の側には翌日を決戦とする、
という程度までなら自由に日程を決定できる切り札がありました。
この点はまた後で。

ついでに甲陽軍鑑によると信玄はその死に臨んで、信長の幸運が終わるまで、
勝頼はこれと争ってはならぬ、と遺言したとされます。
戦の勝ち負けにおける、運の良しあしをここまで深く理解してた戦場指揮官は意外に珍しく、
有名どころだと、後はナポレオンくらいかもしれません。
他には山本権兵衛が日露戦争時の連合艦隊指揮官に
東郷平八郎を抜擢したとき、その理由の一つに運の良さをあげた例もありますけども。
まあホントに運だけの人なんですけどね、東郷さんの場合は…。

さて、では合戦直前の状況を見て行きましょう。
まずは今回の戦の争点となった、籠城中の長篠城から。

とりあえず四戦紀聞の三州長篠戦記によれば
5月1日から勝頼率いる武田側は長篠城を囲んで攻城戦に入ってました。
この日付の信憑性は微妙ですが、前後の状況から見て、
ほぼその頃から城攻めが始まったのは間違いないようです。
そして武田軍は予想外の長期戦に巻き込まれてしまう事になります。



現地の案内板から、当時の長篠城の構造を。
ちなみにこの図は下が北になってます。

せいぜい200m四方、という極めて狭い城なのがわかるかと。
追手門の表記が大手門になってる、北東の山裾まで城壁があった事になってる、
など細かい違いはありますが明治31年に陸軍参謀本部が古図を基にまとめた
長篠城概念図ほぼそのままで、おそらくそれを基にした図でしょう。

二つの川が天然の堀になってますが、その川の合流点に野牛門という門があります。
これがロンドン塔の正門のような船着き場の門だったのか、
それとも対岸に橋が架かってたのか、よく判らない部分です。
後の長篠合戦図の屏風絵などではここに橋が描かれてるものもありますが、
先にも書いたように、信憑性はほぼ無いので、参考にはなりません。

ちなみに図にある国道151号がかつての伊奈街道なんですが、これで見ると、
街道を通るには城塞の一部を突っ切る事になってます。
さすがにそれは無いはずで、昔はこの外側を通っていたか、
あるいはこの復元図が間違ってるか、どちらかでしょうね。
陸軍参謀本部は、追っ手門から矢沢までは塀があったがその先は不明、
古図にある線は城の境界を意味するだけではないか、といった推測をしてますが。

***追記
後ほど掲示板にて、現在の国道151号は近年になってバイパス道として
造られたものであり、かつての伊奈街道はここを通ってない、との情報をいただきました。

武田軍に囲まれた時、この城を預かっていたのは先にも書いたように奥平家の一族でした。
ただし例の基本資料三点の中では唯一、甲陽軍鑑に奥平とあるだけで、
具体的に誰が指揮を執っていたのか書かれてません。
ただし、いくつかの状況証拠から、嫡子だった奥平貞昌(のちの信昌)が
ここの責任者として籠城戦の指揮を執っていたと見ていいようです。

四戦紀聞の三州長篠戦記では奥平貞昌が城の大将として入っていたと明記され、
さらに配下には松平影忠、松平家忠、松平親俊(ちかとし)が居た、とされてます。
ただし、これは先にも書いたように130年も後に書かれた記録ですから、
その信憑性は、あまりあてにはできません。
(松平家忠はたぶん、家忠日記の人だろうが三河物語では
徳川本陣から出撃した鳶ヶ巣奇襲部隊(後述)に居た事になってるのだ)

籠城した兵数はこれも一次資料三点には記述はなく、四戦紀聞の三州長篠戦記にのみ
数字が出てくるのですが、それによるとわずか400人だったとされています。
数字の信憑性は判断が付きませんが、この大きさの城なら、千人以下だったのは確かでしょう。

対する武田勢は甲陽軍鑑と信長公記よれば
1万5千前後だったとされますから、その戦力差は圧倒的でした。
ちなみに武田側の兵数は三点の資料中では珍しくバラツキが少なく、
三河物語が2万人としてるものの、甲陽軍鑑、信長公記は1万5千人で一致してます。
とりあえず、1万5千説をこの記事では取っておきます。

が、それでもこの天然の要害ともいえる城は堕ちる事が無く、
20日近く、持ちこたえてしまう事になります。

ここら辺りの攻城戦における攻防については三点の一次資料には一切記述はなく、
逆に四戦紀聞の三州長篠戦記にやけに詳しい記述が残ってます。
が、これも信憑性の判断が付かないので、ここでは一切無視する事にしましょう。


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