■武田軍の事情

さて、そんな予想外の長期攻城戦に巻き込まれて足止めを食らってしまった
武田軍ですが、徳川に加えて織田の大軍が押し寄せて来るのがわかっても、
まだ撤収せずに踏ん張っていました。

この辺りの事情は当然、武田側の記録である甲陽軍鑑にあるのみなんですが、
その著者と思われる高坂弾正は現場に居なかった上、
主要な武将は戦死してしまったので、どうしてあんな無謀な戦いを
勝頼がしかける事になったのか、実はよく判りません。

とりあえず、甲陽軍鑑からまとめると、
攻城戦の当初は武田側が押しており、武田四天王の一人、
山県昌影によって長篠城の籠城軍は散々な目にあった、とされてます。
この記述を信じるなら、この攻城戦の指揮官はどうも山県だったようです。
歴戦のツワモノですから、この攻撃に耐えた城主、奥平貞昌は褒められていいでしょう。

この時、後詰(救援)が困難だった家康が、信長に救援を求めたところ、
三回も断られた、という記述があるのですが、これは先にも書いたように、
信長は勝頼にさえビビッて、なかなか出てこなかったんだぜ、
という武田家家臣の著述による甲陽軍鑑のプロパガンダでしょう。
先にも書いたように、この城攻めの直前まで、信長は大阪方面で連戦中だったのです。

が、いよいよ信長の援軍が到着した、となると武田軍の
軍議(勝頼と指揮官たちによる作戦会議)は紛糾したとされます。
この時、この戦は無用、と撤退を主張したのが信玄以来の重臣、
馬場信春、内藤昌豊、山県昌影(この3人と軍艦の筆者とされる高坂弾正が武田四天王)、
小山田信茂、原篤胤の5人で、これを勝頼に進言します。
織田の大軍が出て来て、さらに城も落ちてないのですから、これは正論です。

この時、勝頼はまだ30歳、血気盛んな上に、勝ち戦に慣れてました。
信玄の指揮下に徳川軍団との総力戦となった三方ヶ原の戦いでは、
勝頼の突撃をきっかけに織田・徳川連合軍は総崩れとなり、
信玄亡き後も、高天神城、明智城と連戦連勝、意気は上がりっぱなしだったでしょう。
このため勝頼は一戦を交えることを主張、これを勝頼が重用していた家臣、
長坂光堅(みつかた)、跡部勝資(かつすけ)が支持し、合戦が決まったとされます。

この時、長坂が武田家はかつて敵に背を向けたことが無い、と言った、
あるいは城を先落すか、あるいは信濃に撤退して戦うか、
それとも設楽ヶ原の打って出るかで、馬場と長坂が論争になった、
とも甲陽軍鑑には書かれてますが、この辺りの信憑性も判断がつきませぬ。

さらに最後に注進に行った山県に対して、勝頼が「その年になっても命は惜しいか」
と侮辱した、という話は江戸期以降の記録にのみ見られるもので、事実ではないでしょう。

ついでに甲陽軍鑑の筆者とされる高坂弾正は、
長坂、跡部の二人が死ぬほど嫌いだった、というのが
よく見て取れますので、長坂、跡部がホントにそういった言動をとったのか、
という点についての信憑性にはやや疑問も残ります。
弾正本人は、この軍議には出てませんし、反対したとされる5人も、小山田信茂を除く
4人が戦死してしまってるので、軍議の内容が正しく伝えられてる保証は無いのです。

が、とにかく合戦と決まったのは事実で、勝頼は甲斐源氏に伝わる楯無鎧に
戦の誓いを立ててしまいます。
武田家では、この鎧に誓文を上げると、それが決定事項とされたため、
これにてもはや決戦は避けられなくなりました。



画像提供:東京国立博物館 http://www.tnm.jp/

徳川家康が武田家の隠れファンで、その滅亡後は、
率先してその家臣や兵を取り込んだのは知られてますが、
江戸期にも武田軍団は人気で、こんな武田二十四将図などが
幕末に至るまで描かれてます。
(信玄本人を含めて24人なのに注意)
この図も19世紀、幕末に入ってから描かれたものです。
この手の絵に人気の無い長坂、跡部はまず登場しないですね(笑)




この辺りの点についてはもう少し詳しく見ておきましょう。
甲陽軍鑑によれば、高天神城を落とした後の祝宴で、高坂弾正と内藤昌豊が
あまりの武功の成功ぶりに勝頼が重臣の意見を聞かずに独断で動くようになった、
やがて抑えが効かなくなって武田家は三年以内に滅ぶだろう、と述べ、
勝頼の反感を買った、と書かれてます。

さらにこの時期の成功続きに、これは既に勝頼の運は頂点を迎えており、
この後は大敗に向けて運が傾くだけではないか、
と武田四天王が嘆いた、という話もでてます。

実際、勝頼は自分の武運を頼って長篠の合戦に踏み切り、大敗するわけで、
極度の成功体験ほど危険なものは無いかもしれません。

例えばヒットラーがオーストリアとチェコを英仏と戦争にならないまま併合に成功し
ポーランドも大丈夫だろう、と思って暴走した結果、予定外の第二次大戦に突入、
さらにポーランドとフランス&低地諸国相手に電撃戦が成功したからソ連でも行けるさ、
と思って攻め込んだら、4年後に逆に首都ベルリンまで攻め込まれる結果になるなど、
これ全て先の成功体験におぼれた結果です。
まあ真珠湾とマレー沖で連戦連勝、さらにインド洋で大暴れして天狗になり、
ミッドウェイで大敗した海軍を持つ日本も偉そうなこと言えませんけどね(笑)。

この点、対する信長の凄いところは、全く成功体験におぼれなかったところでした。
少数の兵力で数倍の今川軍を奇襲し圧勝した桶狭間という成功体験を持ちながら、
以後の信長は徹底的に準備して、相手に勝てる兵力が整うまで、決して戦闘はしてません。
少数戦力による奇襲の再現も、オレなら無条件で勝てるといった自惚れも、この男にはなかったのです。
例外は攻め込まれて守勢に回った時くらいでしょう。
天正四年(1576年)石山本願寺攻めの時、
明智光秀などの軍勢が打ち破られたため、急きょ、救援の必要が出て、
わずかな手勢で数で優る敵を迎え撃った例がありましたが、あくまで例外的なものです。

信長は自分から攻撃する時には、決して、そんな無謀はしない男でした。
軍事、外交、物資、人員、あらゆる手配を徹底的にやって、絶対勝てる、という状態になってから、
ようやく攻め込む、という慎重さを彼は最後まで失ってません。
(ただし配下に対しては自分は絶対不可侵な存在だと信じており明智にそのスキを突かれる事になる)
もし信長が勝頼の立場だったら、迷わず真っ先に自分が逃げ出したでしょう(笑)。

といった感じで織田・徳川連合軍と対決することになった武田軍は、
甲陽軍鑑によれば長篠城の周囲に二千人、城の対岸にある要衝、
鳶ヶ巣(鳶ノ巣)山に造られた攻城用の砦に千人、計三千人を長篠城の抑えに残し、
残りの1万2千人で、決戦に臨むことになったとされます。

この城の抑えに残された軍勢全体の指揮は、鳶ヶ巣山にいた
勝頼の叔父にあたる川窪(武田)信実がとったようです。
これが後に徳川側の奇襲で壊滅し、合戦全体の行方にも影響を与える事になります。



長篠城後から見た、鳶ヶ巣山方面。
現在は木が茂ってしまって見えにくいですが、城のあったころは
向こうの山頂に造られた砦から見下ろされる形になり、城攻めには絶好の位置でした。

ただし城と山の間には渓谷ともいえる深い河、宇連川が流れてるため、
あの砦から直接、こちらがわに攻め込むのは困難で、あくまで抑えの砦だったと思われます。
城が丸見えと言っても、攻城砲があるわけでもなし、直接打つ手は無いのです。
そこを抑えただけでは、それほど有利になるわけではありません。

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