■国民とカブトムシと夏の空

さて、では黒いハイテンションことヒトラーことチョゲの方に目を転じて見よう。
彼の反ユダヤ主義がどこら辺にルーツを持つのかは正直、わからない。

が、彼がナチス党に加わったのが1919年末、
最初に「シオン長老たちの議定書」について触れるのが
1921年夏の演説だと思われるので、反ユダヤについては
アメリカのヘンリーの方が半周くらい先を行っていた。

ヘンリー、何らかの影響はヒトラーに与えていたろう。

ヒトラーの執務室にはヘンリーの写真が飾られていたし、
シカゴトリビューン紙とのインタビューで、
当時噂のあったヘンリーの大統領選出馬について聞かれると、
「我々の突撃隊をアメリカの都市に送り、手助けができればよかったのだが」
とまで言っていることを考えると、
ヒトラーはヘンリーの強い影響下にあったのは疑いない。
(ただし、当時のナチスは地方政党にすぎないから、これはハッタリ)

ヒトラーが反ユダヤ主義に至ったのは、さまざまな要因があるだろうが、
ヘンリーが大きな影響を与えていた、という可能性はかなり高いのである。
ちなみにヒトラーの生活費の源(笑)
「我が闘争」にヘンリー フォードはアメリカ人として、
唯一登場しているのだが、現在日本で手に入る邦訳版にはその名はないらしい。
理由は不明。

で、ヘンリーとアドルフの「男の絆」はこれだけではない。
もう一つが、「フォルクスワーゲン ビートル」ことタイプ1である。

いわゆるフォルクスワーゲンのカブトムシで、第二次大戦直前、
ヒトラーの発案によって、ポルシェ博士殿下が設計したことを知ってる人は多いだろう。
安価で、一定基準の性能を持った、ドイツ国民のための自家用車を造ろうと思ったわけだ。




21世紀現在においても、世界でもっとも有名な車の一つだと思われるビートル。
日本では単にフォルクス ワーゲンと呼び、アメリカではビートルと呼ばれた。
ちなみにブラジルではゴキブリと呼ばれたらしい(涙)。

正式名称はTyp1(ティープ ワン)で、1号車、最初の製品、といった意味。
英語だとType 1。
約2150万台も造られ、これはフォードのT型を超えて世界最大記録となった。
が、こっちはなんだかんだで60年近く製造が続いてたので、
やはり20年前後で1500万台のT型はスゲエです。
とはいえ、実はTyp1はフォードT型の門弟みたいなもんだったりします。

ビートル、実際には量産開始直前に戦争となってしまい、
その生産施設は戦時用のキューベルワーゲンに転換されてしまうのだが、
戦後、改めて生産が始まったタイプ1は、輸出先のアメリカでも大ヒット、
戦後ドイツの経済復興の原動力になった。

このヒトラーの「国民自動車(ドイツ語でフォルクス ワーゲン)」構想が、
フォードT型の大量生産にヒントを得ていることは、ほぼ疑う余地がない。
自動車を国民の誰でもが手に入れる事ができる、というアイデアは、
アメリカの自動車社会をひとつの理想としているのだ。
ヒトラー自身がこの点について認めている、という話もあるのだが、未確認。

実際、フォルクスワーゲンの設計開発段階で、開発者のポルシェはおそらく2回、
アメリカに渡っており、ヘンリーと何度か会って、そのアドバイスを仰いだ。
車自体の設計に影響はなかったろうが、
その生産システムにはフォードが強い影響を与えている。

1936年の訪問時には、フォード工場でのノウハウを持つ、ドイツ系アメリカ人を数人、
スカウトしてドイツ本国に連れ帰ったりもしてるらしい。
これによってポルシェは、フォード式大量生産システムに、かなり精通していたはずで、
ドイツにそれを持ち込んだ人間の一人だろう。

よって、ドイツにもイギリス同様、フォードの大量生産システムが、持ち込まれていた。
フォード自身の工場の進出(後述)だけでなく、フォルクスワーゲンの量産準備で、
ドイツ人自身が学習していたことは、注目しておきたい。

師匠筋のフォードが30万台近くのジープを造ってしまったのに比べると寂しいが、
それでもキューベル、シュビム、両ワーゲンをあわせて6万台以上生産した。
ほとんど量産車の経験がなかったポルシェがこれをやってしまえたのは、
この時の経験が大きいだろう。
まあポルシェ閣下は途中で趣味の電気戦車製作に走ってしまうので、
どこまで量産化システムの構築かかわったのか、わからないが…

ちなみに、1938年7月、ヘンリーはドイツから、
外国人が受けられる勲章としては最高位の
Grand Cross of the German Eagle(ドイツ鷲の偉大な十字?)勲章を
授与されているのだが、これは主に
「大量生産システムへの貢献」が大きな理由の一つと思われる。
(後にGMのヨーロッパ方面責任者ムーニーにも授与)

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