■あいつの名前はフレッチャー

今回は最初にまた少し脱線して、珊瑚海海戦の時のアメリカ側の司令官、
フレッチャー(Frank Jack Fletcher)中将(Vice admiral)について簡単に見ておきましょう。

日米を通じて、1942年の空母決戦の中心に常に居続けた指揮官がこのフレッチャーでした。
最後の南太平洋海戦だけは負傷によって参加してませんが、
それ以外のアメリカ空母による大規模作戦において、ほぼ全て指揮を執っていたのが彼です。
空母航空戦の専門家と言っていい彼が、ミッドウェイ、南太平洋と指揮を執ったのは
アメリカにとって大きなプラスだったと思われます。
ちょっと強気すぎ、という部分もあるんですけどね(笑)。

ただしスプールアンス、ハルゼーなどに比べるとやや印象が薄い指揮官なのは、
太平洋戦争開戦から8ヶ月で早くも負傷によって第一線を退く結果になったからでしょう。
後で見るように、これが左遷なのか負傷療養のためなのか、微妙なんですが…。

1942年のフレッチャーはUSSヨークタウンを旗艦に第17機動部隊を率い、
3月10日のラエ・サラモア空襲を皮切りに、
5月に珊瑚海海戦、6月にミッドウェイ海戦、最後は8月に第二次ソロモン海戦と、
1942年におけるアメリカの主な空母航空戦のほとんどを指揮しています。
ここらあたりは、真珠湾から第二次ソロモンまで、次々と指揮官が変わった上に、
そもそも空母機動部隊指揮官が全艦隊の指揮官ではない、
という日本とは対照的な部分です。

なのでミッドウェイの時の日本は、空母戦のベテラン、しかも直前に
人類初の空母決戦、珊瑚海海戦で貴重な経験を積んだ指揮官と戦う事になったわけです。
(先手必勝、索敵の重要性、そして一度戦ったら無傷では済まない、という
日本側が全て生かせなかった空母戦の教訓を、彼はすべて知った上でミッドウェイに臨んでる)
ちなみに彼が参加した空母決戦は、全て戦略的には勝利しており、
戦術的に見ても、一方的な完敗はありません。
(珊瑚海開戦を別にすれば戦術的にもほぼ勝ってるとみていい)

対するミッドウェイ海戦時の日本側の空母部隊指揮官たちは
敵基地への空襲経験は積んでるものの、珊瑚海海戦の経験者は無く、
特に空母対空母の戦闘の恐ろしさを知る人物は居ませんでした。
(珊瑚海で空母機動部隊の指揮官だった(笑)巡洋艦の第五艦隊(妙高、羽黒)
指揮官 高木中将がミッドウェイにも居たが、特に助言した様子はない)



第二次大戦時にアメリカで大量生産されたのがフレッチャー級の駆逐艦です。

これは太平洋戦争のフレッチャー海軍大将(admiral)ではなく(海軍大将になったのは戦後だが)、
第一次大戦の時の海軍大将の方の名を取った艦で、二人は叔父と甥っ子の関係になります。
アメリカには軍人一家が多く、陸軍のマッカーサーなんかも同じような(父子だが)境遇でした。


ちなみに、陸軍と違って、イギリス側のお偉い軍人さんと共同作戦を執る必要はほとんどなかった
アメリカ海軍ですが、戦争末期には陸軍に合わせ、海軍元帥が置かれました。
(元帥は本来アメリカ軍にはないのに、イギリス陸軍に存在したため、
ヨーロッパ方面最高指揮官のアイゼンハワーの指揮権確保のために後から置かれた。
これも一連のイギリス軍とモントゴメリー“元帥”のイヤガラの一部だ(笑)。
この結果、アイゼンハワーの先任であるマーシャルとマッカーサーまで元帥になってしまう。

ちなみにイギリス側の名称はField marshal。
余談ながら大正天皇と昭和天皇はイギリス陸軍元帥の称号を贈られており、
よってモントゴメリーと同格となる(笑)
ただし日本が参戦後、昭和天皇のイギリス陸軍元帥階級ははく奪されてますが…)

海軍の場合は海軍大将の上に海軍元帥(Fleet admiral)が置かれます。
直訳すると艦隊提督なんですが、日本海軍の呼称に合わせたほうが
わかりやすいと思うので、この表記を使います。
ちなみに、日本海軍のトップは海軍大将で英語ならAdmiral ですから、
本来なら提督、と訳したいんですけどね…。

ちなみに海軍元帥に任命されたのは
リーヒ(統合参謀本部の議長)、キング(海軍作戦部長、つまり海軍で一番偉い人)、
そしてニミッツとハルゼーの4人だけです。
(ハルゼーは終戦後に昇進。なんでハルゼー?と思いますけどね(笑))



そんなフレッチャーが前線から引退することになったキッカケが
激戦の空母決戦ではなく、不意打ちともいえる潜水艦からの雷撃、
という当たりが歴史の皮肉、という部分でしょうか。

フレッチャーの乗艦、USSヨークタウンはご存知のようにミッドウェイ海戦で沈むのですが、
最後に日本の潜水艦 伊168号に不意打ちを食らうまで浮いてましたから、
この時は彼は無事に退艦しています。

でもってそのあとに乗り換えたのが、海に浮かぶ不運ことUSSサラトガでした(涙)。
とりあえず8月の第二次ソロモン海戦は、やや優勢勝ちで乗り切ったものの、
その直後に日本の潜水艦、伊26号に雷撃されまてしまいます。
この時の二度目の雷撃で、USSサラトガが
再度長期ドック入りになるのは以前に説明したと通りです。

この時の雷撃はUSSサラトガ艦橋部のすぐ後ろに命中したため、
機動部隊指揮官であるフレッチャーも
頭部に重傷を負い、このため、長期入院を余儀なくされるのです。

その後、彼は11月ごろには退院はするのですが、艦隊指令官に復帰する事はなく、
海軍管轄戦域でもっとも何もない、といっていい
北太平洋戦域の司令官に任命されて、そちらの指揮を執ることになります。

北太平洋戦域は例の北海道(津軽海峡)から北の領域であり、
本来ならニミッツが中央太平洋と兼務で指揮するはずの地域でした。
アッツ、キスカなどがあるものの、主戦場とは言い難く、
その戦域司令官で形の上では栄転ですが、事実上の左遷、と見れなくもないです。

フレッチャーは攻撃的な性格で、ずいぶん無茶な作戦をやっており、
さらに8月から始まったアメリカの反撃、ガダルカナル上陸戦では
その航空援護をするべき空母部隊を率いながら、
ラバウル、ブカ周辺からの日本機の反撃を恐れ、作戦中に勝手に海域から後退してしまいました。
(燃料不足もあって、安全な後方地域で補給をしたかったともされる。
先に書いてるように空母は補給中、離着艦ができなくなるからだ)

ところがこの行動の結果、上陸用艦艇を率いてガダルカナルと
ツラギで物資の陸揚げ中だったターナー海軍中将の輸送部隊が
航空援護なしで現地に取り残される事になります。

驚いたターナーが予定を繰り上げ、こちらも艦隊を引き上げた結果、
一部の物資は揚陸できないままとなったようです。
(ガダルカナルのヘンダーソン飛行場が活動に入るのは第二次ソロモン海戦の後で、
上陸直後から使用可能だったわけではない。空母が頼りなのだ)
ガダルカナル、なんだか日本の補給の困難ばかり記録に出てきますが、
当初はアメリカも相当、厳しかったんですよ。

ここで空母の安全を確保した結果、その直後の第二次ソロモン海海戦で
フレッチャー率いる空母機動部隊は戦略的勝利、
そして僅差ながら戦術的に勝利する事になったのも事実です。
が、ガダルカナル上陸作戦中のフレッチャーの空母機動部隊撤収は
置き去りにされたターナーをはじめ、多くの人間から不評を買い、
この結果、負傷を口実に左遷された、という見方もできるのです。

ただし、この時のフレッチャーの負傷はかなり深刻で、
とても前線指揮が執れるような状態ではなかった、という話もあり、
大怪我ゆえに体の負担が小さい役職に就いた、という見方もできるようです。

まあ、これも正解はよくわからない、としておきましょう。


とりあえず、フレッチャーという指揮官の存在は覚えておいてください。


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