■始まりの朝

さて、では今回もMO大作戦の流れを見てゆきます。
4月28日から各部隊の動きが始まり、
5月1日に両軍の空母機動部隊が登場するまでを前回は見ました。
今回は作戦5日目、X-8日のの5月2日からです。
このあたりから、徐々に各部隊の動きが活発になり始めます。

■5月2日

まずは北側から見てゆきますよ。



前日の朝にトラックを出た空母機動部隊は、その高速を生かして
早くもビスマルク諸島沖(ラバウル北東約240海里/約445km)に到着、
この日の昼前までに例のラバウル基地向けの輸送ゼロ戦9機を
翔鶴、瑞鶴それぞれから発艦させます。

これにはラバウルまでの誘導と、パイロットの回収のため
(パイロットは五航戦が貸したため、ラバウルから連れ帰る必要があった)
艦攻7機が付いており、その回収のため、空母機動部隊は
一時的に減速して、その帰還を待つことになります。
まあ、ここまでは予定通り。

が、前回書いたように、1日から3日にかけ、この海域の天候は荒れており、
この時もあまりの荒天に危険と判断した編隊はラバウルに向かわず、
途中で引き返して帰艦してしまうのです。さて、どうするか。
ラバウルからは絶対機体を輸送してくれ、との催促、
しかし予定行動に対して1日も予備日を持ってないのがこの機動部隊なのです。

結局、あと1日天候の回復を待って、3日に再空輸という事に決まります。
戦史叢書49巻によると、これは機動部隊司令部自らの判断とされますが、
上の図でMO機動部隊がぐるりと一回転してるのは、このためで、
翌日、同じくらいの時刻に同じ位置に付けるため、この行動に出たのです。
(先にも書いたが停船はできないので低速で移動し続ける)

これはつまり日本側の艦隊で最強の打撃力を持つ主力部隊が、
作戦海域に到達する前に丸一日、意味も無く時間を浪費する事を意味します。
当然、その分の燃料も浪費される事になるわけです。

そんな報告を聞いたら、私なら手近にあったゴミ箱を蹴り倒した上で、
責任者を内モンゴル海軍訓練学校に島流しにしてやりますが、
機動部隊はこの判断にそれほど迷った形跡は無く、さらにその上部組織である
南洋部隊(第四艦隊)司令部も特に疑問を感じていた形跡がありませぬ。
本来なら南洋部隊司令部が介入して、ラバウルの要求を退け、
機動部隊に先を急がせるべきだと思うのですが…。

おそらく皆さん、アメリカ軍相手なら何とかなる、と本気で思っていたんでしょうか。
が、当然、何とかなるはずが無く、この時間と燃料の浪費が
後に日本が戦略的勝利を得られたであろう最大のチャンスを
みすみす逃す原因になって行きます。
この辺り、いかにもミッドウェイの前哨戦だなあ、という感じですね。

さて、ここでもう一度、同じ地図を。
お次はソロモンのツラギ周辺に向かった部隊の動きを見て行きましょう。
ちなみにツラギは単にフロリダ島の横の小さな島だと思ってたんですが、
どうもソロモン諸島を植民地としていたイギリスの
総督府所在地(Capital)で、ソロモン諸島の中心地だったようです。

 

こちらは4月30日に北のトラック泊地を出航していた
重巡洋艦と改造空母による護衛部隊、MO主隊の動きから。

この部隊は5月2日の朝にブーゲンビル島の北東に到達します。
主力の重巡洋艦部隊と艦載機の着艦収容のため、
別行動をしていた護衛空母 祥鳳がここで合流、
そのまま南下してこの日の内にソロモン海に入りました。
(前にも書いたが停泊中に艦載機を収容することは出来ないので出航後に行う)

でもって、その直後にアメリカ側の飛行艇と思われる哨戒機を発見、
これを迎撃するために祥鳳からゼロ戦を発艦させるのですが、
内一機がエンジン不調で墜落して、機体、パイロットともに失われてます。
すなわち8機しかなかったゼロ戦がさらに減って7機になってしまうのです。

ちなみに祥鳳は他に旧式の96式戦闘機5機と艦攻10機を搭載してました。
ただしこの数字は祥鳳の戦闘祥鳳、否、戦闘詳報によります。
戦史叢書の数字だとゼロ戦が1機多いのです。
ここでは、とりあえず祥鳳生存者による戦闘詳報の数字を信用する事にします。

ちなみに“事実上の”公式戦記である戦史叢書は、発刊後、
多くの関係者からいくつもの意義(限りなく間違いに近い)が唱えられており、
資料として参照する場合、注意が要ります。
さらに戦史叢書はアメリカ側のデータを
モリソンの第二次大戦史に頼ってるため、どうも変な部分が少なくありませぬ。
それでも現状、まとまった資料はこれしかないんですが、
そろそろ造りなおしてもいい気がしますよ、あれ。


続いて4月30日に南のラバウルを出ていたツラギ攻略部隊が登場です。
この部隊は、5月2日の夜になってから、ツラギ島付近に到着します。
これは先に書いたように、なぜか先発した哨戒隊と合流の上でした。

で、ツラギにはオーストラリアの守備隊が居たのですが、
直前に沿岸の監視兵がツラギに向かう日本艦隊を発見してました。
さらにこの日、例の援護部隊から飛んできた
水上機による機銃掃射などがあったため、
守備隊もいよいよ日本軍が来る、と気がつくわけです。
その後、多勢に無勢と撤退が決定され、
直前の段階で脱出に成功しています。

この2日夜のツラギ周辺は晴れていたため、月明かりを利用して
日本の上陸部隊は次々と上陸、当然、何の抵抗も無かったため、、
3日の朝までには周辺の小島も含めて制圧を完了、水上機基地の建設を始めます。
ここまでは全く順調で、問題がなかったのですが、
先に見たように、翌日の4日は早くもアメリカ空母USSヨークタウンによる
空襲を受ける事になるわけです。

最後に一番南にいたアメリカ側の行動を見るために、もう一度同じ地図を。
といっても、こっちの動きは単純なんですけどね。



実はアメリカ空母機動部隊は、この日一日をほぼ補給で費やしてます。
前日から始めていたのに、まだ終わらなかったのでした。
空母機動部隊の補給ってのは時間がかかるものでして、これは日本側も条件は同じです。

で、5月2日も遅くなってから、ようやくUSSヨークタウンの補給が終了しますが、
USSレキシントンはまだ時間がかかると見られました。

このため指揮官のフレッチャーは4日に改めて別地点でUSSレキシントンと合流する事にし、
USSヨークタウンを中心とするTF17だけを率いて
とりあえずポートモレスビー攻略部隊が通るであろうルイジアード諸島、
つまり例のデボイネ島があるニューギニア東部沖の地域に向かいます。
ちなみに4日の合流地点には、オーストラリア&アメリカ合同の巡洋艦&駆逐艦艦隊、
第44機動部隊(TF44)も向かう事になっていました。


といったところが5月2日の動きで、ようやく慌しくなってきた、という感じですかね。


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