■第八章 F-16への道


■B-1を巡るドタバタ

引退を決めたボイドはまだ48歳でしたが、勤続年数が24年を超えているため、既に軍人年金をもらう資格はありました。よって退役後も天下りなどをせず、それで生活するつもりだったようです。同時に引退を決意したスプレイは、6月の年度終了とともにペンタゴンを去り民間のコンサルタント会社へと移って行きます。

ところが最後の最後でボイドは別の問題に巻き込まれ、8月末まで退役は2ヶ月ほど引き延ばされてしまいました。戦略司令部(SAC)の最後の遺産ともいえるB-1超音速爆撃機計画がもめにもめたからです。このB-1の迷走をもって、アメリカ空軍における戦略司令部(SAC)の支配は終わりを告げることになるので、まさにボイドの時代とルメイの時代の入れ替わりを象徴する事件とも言えますから少し詳しく見て置きましょう。

 

ロックウェルのB-1B爆撃機。写真は後にレーガン政権で復活したB型ですが、当初計画されていたB-1のA型より多くのコスト削減、すなわち性能低下を受け入れ、ほぼ別の機体になってます。 ここで少し遠回りになりますが大型超音速核爆撃機のルーツ、XB-70にも少し触れておきましょう。詳しくはこっちにも書いたので興味のある人は見て置いてください。

1954年、当時はまだ戦略司令部(SAC)のボスだったルメイ閣下がB-52の後継戦略爆撃機の計画をスタートさせたところから話は始まります。これは当時ソ連で開発が進んでいた地対空ミサイルで迎撃不可能な、マッハ3で飛行する高高度爆撃機を開発する、という野心的な計画で1958年にノースアメリカン社が受注を勝ち取り、これが有名なXB-70 ヴァルキリーとなります。

 

ところがこの受注決定の1958年というのは、あのスプートニクショックの翌年なのです。
つまり、この段階ですでに核兵器の主力は弾道ミサイルへと移行しつつあり、既に時代に取り残されていました。さらに機体の性能不足も判明し例によってコストも膨大になってしまいます。このためヴァルキリーは実験機で終了、さらに悪い事に事故でその1機が失われ、もう超音速爆撃機は造られないだろうと思われました。この頃にはすでにルメイも既に空軍から居なくなってましたしね。

ところが1970年に意外なところから再び超音速爆撃機の開発がスタートします。1969年に大統領に就任、後に史上唯一の自己都合退職をした大統領となるニクソンが核戦略にも多くの選択肢を求め、核弾道ミサイルとB-52だけではなく、目標への高速爆撃を遂行する、一種の戦術核爆撃機の採用を求めたからです。そんなのF-111で十分だろう、と私なんかは思ってしまうんですが、なぜかニクソンは納得せず、新しい爆撃機の研究が始まります。

この結果、1970年1月に要求仕様が出され、1970年の夏にノースアメリカン・ロックウェル案が採用となりました。ちなみにロックウェルはコングロマリット(複合企業)の総合ブランドで、その航空部門は経営危機に陥って買収されたノースアメリカン社そのものであり、実態は経営危機に陥った同社が名前を変えたものでした。なのでB-1はXB-70の正当な後継機とも言えます。

余談ながら同社は1950年代後半からは超高速機に注力しており、海軍の高速機核爆撃機A-5ビジランティ、そしてXB-70、このB-1、さらに究極の超高速機、スペースシャトルの軌道船(orbiter/オービター)の製造までが彼らによります(ただしスペースシャトル軌道船の基本設計はNASAによる)。

こうして生み出されたのが可変翼による超音速爆撃機、B-1でした。なんでB-52からB-1にまで番号が先祖帰りしたのか、というと例のマクナマラによる空軍&海軍の呼称統一後、初めて計画された爆撃機だからです。つまりこの機体まで、一切、爆撃機の計画なんて動いてなかったのです。
さて、この機体に求められた性能は、XB-70よりは低速なものの、それでも高高度ではマッハ2、実際に目標に接近して低空飛行に入った後でも最大マッハ1.2を要求されました。この結果、あらゆる高度で、さまざまな速度に対応するため可変翼の採用が決まります。そして、それがコスト増に直結して機体開発の致命傷の一つとなります…。

ちなみに低空飛行性能の要求は、空軍の戦術変化によるものでした。それまでは迎撃機やミサイルの届かない高高度を高速で飛べば安全と考えられていたのですが、ベトナム戦後はソ連の地対空ミサイル技術が一挙に進化、すでに安全とは言えなくなりつつあったのです。なので、相手のレーダー探知をかいくぐれる低空進入が新しい戦術として浮かびあがります。
高度150m以下なら、山や地平線の限界によって地上レーダーサイトの電波は遮られて遠距離からはまず見つかりません。そしてアメリカ空軍は、ソ連のレーダーサイトの場所はほぼ調べをつけてましたから、そこから電波障害物のあるルートを割り出すのは困難ではありませんでした。

さらに高度が低いと、敵の航空機搭載レーダーの脅威も減ります。
レーダーは敵に反射されて戻ってきた電波(パルス波)で相手を見つけます。ところが地上や水面もレーダーの電波を反射してしまうので下方向にレーダーを向けるとパルス波が全て反射されて戻ってきてしまい何もわからない事になります。このためレーダーは下方向の探索に弱く、1960年代にはまだ完全に有効な対策がありませんでした。
なので低空を飛行すれば、地上からの反射波の中に潜り込んで極めて発見しにくい目標となります。これだ!とアメリカ空軍は思ったわけです。ただし後で見るようにソ連はその上を行ってしまっていたのですが…。

こうして誕生する事になるB-1爆撃機はあまりに欲張った性能要求のため開発は難航と迷走を重ね、ようやく初飛行した段階で恐ろしいまでの高コスト機となってしまいました。この問題が議会にバレると開発計画が中止になる恐れがあり空軍上層部はこの事実を隠し続けます。

そんな1973年春、ボイドがタイから帰国します。
そして部下の若い士官にB-1開発計画の現状調査を命じた事から全ては始まりました。開発計画部門の責任者であったボイドですが、既に動き始めていた計画に関してはどこまで権限を持っていたのは謎でして、正直、なんで彼がこの調査を始めたのはわかりません。とりあえず、直感的になにか怪しい、と感じたようです。
この結果、議会が認めていた調達価格は1機あたり2500万ドルだったのに実際はその倍、5000万ドルを超える事が判明します。驚いたボイドがさらなる調査を命じ8月になって最終的なレポートが提出されると予定通りの240機の調達では、1機あたり6800万ドルになる事が指摘されます。機種が違うので単純比較はできませんが、同時期のF-15Aの価格が1500万ドル、まだ開発中だったYF-16が460万ドル(後に600万ドル)でしたから、ベラボーな金額なのが判るでしょう。

このレポートに一番ショックを受けたのは空軍上層部で、彼らはすぐさま、これを機密扱いにして情報の封印を計ります。
以前に書いた話、ボイドの部下が将軍連中から、「我々の仕事は契約企業に回る金が止まらないよう面倒を見る事なんだ」と警告されたのがこの時です。
ここら辺りから、ボイドはB-1爆撃機の開発続行に反対する立場を取るようになるのですが、それでもA-10とF-16の開発と量産がキチンと認められたため、それほど深入りはしてませんでした。 ところが、やがて議会がこのコスト高騰をかぎつけ、空軍に説明を要求します。これを受けて空軍上層部は当時、議会でも名が知られつつあったボイドに、B-1を擁護する技術レポートの提出を求めます。が、既に退職する気満々で怖いものなんて無くなっていたボイドはこれを拒否、上層部を激怒させますが、退職後の天下り、再就職斡旋も断ったボイドに対しては軍の権力構造を利用した脅しはもはや通じませんでした。
そこで妥協案として、当時ソ連が開発していた超音速核爆撃機、バックファイアについての技術的レポートを提出させ、この脅威に対抗するために必要だ、という論法で行くことにします。これにはボイドも応じるのですが、彼がまとめたバックファイアのレポートは、“可変翼で太って重くて役に立たない、F-111の劣化コピー”といった内容で、空軍上層部はこの提出を諦めることになります。

■B-1と空軍の黄昏

この結果、1975年の夏ごろにはB-1は議会から眼の敵にされる計画となってしまうのです。そんな中、もうこれ以上は付き合えない、と宣言したボイドは予告どおり、8月いっぱいで空軍から退役してしまうのでした。

そしてこの問題に関しては意外なところから最後の一撃が文字通り“飛んで”来る事になります。 ボイドが引退した翌年1976年の9月、後にカーターが当選する大統領選挙の真っ只中、日本の北海道に当時のソ連の最高機密、ミグ25が飛んで来てしまったのです。いわゆるベレンコ亡命事件ですが、パイロットのベレンコは次の新型機(ミグ31)ではレーダーの下方探索能力、いわゆるルックダウン能力が備わっている、と証言しアメリカ空軍の関係者を驚かせました。
となると、B-1の戦術の大前提、低空での高速進入は安全ではありません。迎撃機にそういったレーダーが搭載されたら身動きのとれない低空飛行はいいカモになってしまうのです。

ちなみに低空飛行では常に地面との衝突の危険が伴うため、対地形レーダーで地形を見ながら飛びます。ところが、このレーダー波は低い高度から地面にぶつけられるため広範囲に拡散し、F-111が積んでいた対地レーダーは300q以上先から探知できたと言われています。すなわち相手のレーダー波を受けなくても、自ら盛大にレーダー波をまき散らしながら飛ぶことになって、その進入はあらかじめ探知されてしまい、意味が無いのです。このためステルス機F-117は対地形レーダーを積んでませんでした(すなわち全天候型爆撃機ではないのだ)。そしてそのステルス技術が1976年ごろには実用化のメドが立ちつつありました。だったら低空侵入なんて何の意味も無いのです。
事がここに至ってはもはやB-1の存在意味は全く無く、空軍も計画への関心を失い、さらに当時の大統領選の中で民主党のカーターがB-1の開発中止を公約にしてしまいます。そして選挙ではカーターが当選し、ここにB-1の運命は終わりを告げるのでした。

そんな感じで終焉を迎えたB-1計画ですが、次の大統領であるレーガンゆかりの地、カリフォルニアにロックウェルの工場があったため、彼は選挙公約としてこれの復活を宣言します。そしてこの選挙ではレーガンが勝ってしまったため、究極の政治的な機体としてB-1は復活、性能とコストをダウンさせたB型が100機だけ生産される事に決定され、B-1Bとして1986年から配備される事になります。おそらくこれはレーガンがやった最大の失敗の一つでしょう。

そういったトラブルの中、ボイドはペンタゴンを去ります。この結果、ボイドによるアメリカの空の進化はここまでとなるのです。そして以後のアメリカ空軍はF-22を最後の制空戦闘機としてエネルギー機動性理論に近い型で完成させますが、F-35においてはその考えを完全に捨ててしまうことになります。

21世紀のアメリカ空軍は再び混とんに陥りつつあるのです。

BACK