■第八章 F-16への道


今回からは再び軽量戦闘機(LWF)計画に話を戻しましょう。とりあえず試作機制作まで勝ち進んだ、ノースロップとジェネラル ダイナミクスの両者の機体を少し詳しく見て置きます。

■ノースロップ YF-17


■Photo NASA

まずはノースロップ社がF-5E→P-530コブラ(例によって自社開発機)→YF-17コブラと発展させ、後に海軍のF/A-18の原型となった機体、YF-17から。
ノースロップに声がかかったのは先に見たようにF-5の存在が大きかったのですが、当時、同社ではP-530という安価で小型の戦闘爆撃機を例によって自主開発、アメリカ国外での販売を目論んでいました。

ノースロップはF-5シリーズでコストの低い戦闘機をバーンと作ってドーンと世界で売るビジネスを展開、マクナマラ登場後の1960年代の世知辛い軍用機業界を生き抜いていました。それには当時の社長、トーマス・ジョーンズ(Thomas V. Jones)の手腕が大きく、彼は有能なセールスマンとして名を売っていたのと同時に、極めて政治的な動きをする兵器商人としても知られていました。1972年の大統領選で彼はニクソン陣営に違法献金を行っており、後のウォーターゲート事件に関連して有罪判決を受けています。これで形式上は社長を引退するものの、事実上の経営権はジョーンズが握ったままで実に1989年になるまで彼がノースロップを引っ張って行く事になるのです。

とにかく政治的なウサン臭さでは、CIA&ダレスと組んでいたロッキードのスカンクワークスに匹敵するかそれ以上、という面があるのが当時のノースロップ社でした(最終的に軍用機メーカーの生き残りがこの2社になるのは興味深い)。この政治的なウサン臭さから、軍からはだいぶ警戒されていたようで、後に海軍がF/A-18の主契約社に開発元のノースロップでは無く、マグダネル・ダグラスを選んだのは、その影響があったという見方もあります。

さて、F-5での成功体験があったため、1960年代後半に入るとノースロップはその後継機も自分たちで開発して、夢よもう一度という計画を立ち上げます。これがP-530という開発ナンバーを持ちコブラの愛称で呼ばれる戦闘爆撃機でした。例によってアメリカ空軍は無関心ですから(笑)自社開発でスタートさせてます。ただし、さすがに単独開発は無理がある、と思ったノースロップはエンジンメーカーのジェネラル・エレクトリック(GE)に声をかけ、その新型エンジンの採用を前提に計画への参加、出資を求めました。

この段階でGEはF-5シリーズのおかげで大儲けとなっており、こちらも夢よもう一度、という感じでこの話に乗ってきます。アメリカの企業としては極めて堅実で鉄板営業、というGEが山師とすら言える部分があるジョーンズと組むのは意外な感じもしますが、それだけ彼がセールスマンとして優秀だったという事かもしれません。こうしてP-530コブラの開発が1968年ごろにはスタート、1971年夏のパリのエアショーに原寸大モックアップを展示できるまでになるのです。が、残念ながら、当時これに興味を示す国はありませんでした。

そしてその直後、1971年12月に軽量戦闘機計画に試作機製作の予算がつくと、ノースロップはP-530を基にした機体の制作を決定します。ただしP-530はすでに戦闘爆撃機として設計されていたため、ボイドたちの要求に応えるには、ほぼ全面的な設計変更が必要となったようです。
ちなみにこの時期からノースロップはNASAとLERXの共同研究を開始しており、その成果からYF-17では大きく形状が変わっています。その後、最終的に社内開発ナンバーはP-600に、そして空軍からはYF-17と命名され、1974年6月、初飛行に成功となります。

このYF-17はYF-16に比べるといくつかの点で対照的でした。まず操縦系は保守的でフライ・バイ・ワイアは不採用、操縦棹も普通のモノでYF-16に比べる旧態依然とすら言える部分がありました(先に説明したように後にF/A-18はデジタルフライバイワイアを採用するのだが)。
そして既に熟成が進んでいたF-15と同じエンジンを単発で採用したYF-16に対し、新規開発のエンジンを採用した事がYF-17の大きな泣き所となりました。新しいエンジンを選んだ機体の宿命でもあるのですが、F/A-18試作型までを含めると、最低1回のエンジン爆発による墜落、同じく3回以上のエンジン内部の融解による不時着が記録されています。これが大きなマイナス要因として、この機体の落選の一因ともなりました。

海軍とF/A-18

最終的に空軍では不採用に終わるYF-17ですが、よく知られているようにその後、海軍が採用を決定、後のF/A-18の原型となりました。まあ、あくまで原型であり、大幅に改造されてしまって最終的には似てもにつかない重くて高い戦闘爆撃機という、ちょっとアレな機体になってしまうのですが…。


マクダネルダグラスF/A-18B

これはすでに見たように、F-14があまりに高価な上に予想されたほど高性能でもなかったため、議会が空軍の軽量戦闘機計画の採用を海軍にも求めた結果でした。さらに大量引退を控えたF-4ファントムIIの後継機、新たな艦上戦闘爆撃機を採用する必要にも海軍は迫られており、これをF-14で置き換えるには高価過ぎました。

当初は海軍もF-16の採用を迫られるのですが、単発である事、電磁波攻撃に弱いと思われるフライ・バイ・ワイアである事を理由に海軍にはこれを拒否、全く逆と言っていい機体であるYF-17が採用されたのです。ただしこの辺りは海軍が空軍と同じ機体を使用するのを嫌っただけで、全てウソですね(笑)。単発機ならすでにいくらでも艦載機に採用してましたし、F/A-18は最終的にデジタルフライバイワイアにしてしまったのですから(そもそもF-16のフライバイワイアが戦術核レベルの電磁波では問題ないというのは空軍が実験で確認済みだった)。
余談ながら、F/A-18の発艦は完全に自動化されており、むしろ人間が手を出すと危険だそうで、パイロットはカタパルトから打ち出されて空中に浮かぶまで、操縦系から手を離してコクピット横の取っ手を握ってます。

さらに言うなら、この時期、アメリカ海軍も艦隊防空システムをイージス艦に切り替えつつあり、F-14は使い道に困る機体に成り下がる可能性が高かったのです。そもそもF-4ファントムもF-14も、本来はソ連の高速爆撃機から発射される大量の対艦ミサイルに対応する、防空ミサイル戦闘機でした。
艦隊周辺上空に貼りつき、驚異となる敵攻撃機を遠距離から発見、後は誘導ミサイルで撃墜する、という機体なのです。このため、F-4もF-14も多くのミサイルを積んで、高度なレーダー兵器用の操作員を後部座席に乗せたことになります。が、何十機もの機体から無数のミサイルで飽和攻撃(迎撃できないほどの数を撃ち込む)するつもりだったソ連の攻撃に対し、6発のフェニックスミサイルしか積めないF-14では対応しきれないのは明らかでした。



その解決策としてアメリカ海軍が開発したのがイージス艦となります。高度なレーダーと電子機器により、同時に10以上の目標に誘導ミサイルを撃ち込める艦で、これを数隻(通常は6〜10隻程度)空母に貼りつけておけば、その防空能力は十分である、と考えられたのです。1970年代後半にはその実用化にメドが立ちつつあり、そうなると空母に必要なのは戦闘爆撃機だけですから、その任務にF-14を使うのはさすがに無理がある、と海軍も判断した事になります。

なので、F/A-18は最初から戦闘爆撃機として採用を考えられており、特に地上攻撃の方が主だ、と考えられていました。ある意味、P-530コブラへの先祖帰りなのですが、この結果、大型化、重量増は避けられず、空中戦能力はYF-17に比べるとがた落ちになります。
改造の最大のポイントは翼面積を拡大し、爆弾搭載用の懸架部を追加したことでした。この結果、主翼強度が低下しエルロンリバーサルが発生、最悪のロール性能を示し海軍関係者を呆然とさせることになるのです。当然、これでは使い物になりませんから、エルロン(補助翼)の大型化、さらには数百kg以上とされる主翼構造への補強材が追加され機体はさらに重くなってしまいます。しかもこの重量増から脚に負担がかかり、その後、1件の死亡事故を含め主脚の破損による事故が連発されます。この辺り、どうも何やってんでしょうね、という部分です。

ちなみに1979年から産みの親ノースロップと育ての親マクダネル・ダグラスがF/A-18の販売権をめぐって訴訟合戦を始めてしまい、これが実に1985年まで続きました。最終的にはノースロップが5000万ドル受け取る変わりにF/A-18の海外販売を海軍とマクダネル・ダグラスに一任したようです。まあ、ホントに泥沼な機体です。

そもそもノースロップのトーマス・ジョーンズは安価な機体を海外に売りまくるF-5の成功体験が忘れられなかったようで、当初、地上用でより軽量安価なF-18Lという機体の開発をノースロップ社では目論んでいたのですが、上の条件で海外販売には見切りをつけます。その代わりF-5Eの発展型(F/A18と同じF404エンジンを搭載した単発機)ともいえるF-20の開発を開始するのですが、こちらも結局、全く売れませんでした。
理由は単純で同じ安価な戦闘機としてはF-16が既に登場しており、F-5とそんなに変わったように見えないF-20よりは最新世代のF-16の方がいいよな、となったのでした。アメリカ空軍としてもF-16の販売を全面的にバックアップしてましたからね(そもそも最初から輸出前提の機体となっておりそれによって調達価格を下げるのが採用条件の一つだった)。
つまりノースロップ社はF-5の後にP-530、F-18L、F-20、と三つも機体開発を行って全部失敗したわけです(F-18Lは試作機制作まで進んで無かったらしいが)。…ホントによく潰れなかったな、この会社。まあ、後にロッキードと並んでステルス機の開発で大儲けする事になるわけですが。

最終的にF/A-18は性能の割には極めて高価な機体となってしまい、海外販売では大きくF-16に差をつけられます。参考までに1990年ごろの価格でF-16が約1500万ドル前後、F/A-18が約3000万ドル前後とされてますから、同じ予算でF-16なら倍の数が買えるのです。これでは売れるわけが無いですね…。まあ、性能的にも見るべき点は無く、後の湾岸戦争では多国籍軍で唯一、空中戦で撃墜された機体と考えられています(しかも相手は直線番長のミグ25だ…)。この機体は事実上の失敗作と判断していいような気がします。


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