■第八章 F-16への道


■ジェネラルダイナミクス YF-16


■Photo US air force

お次は、YF-16について。

F-111が完全な失敗作という結果に終わったジェネラル・ダイナミクス社ですが、F-X計画の時はそのF-111の生産と不具合の修正で手一杯でまともな提案ができずあっさりと敗退、もはや後がなくなりつつありました。昔のようないくらでも軍用機が開発される時代は終わり、次の仕事を何としても確保しないと会社が存続できなくなるのです。

そこに1969年夏、例のファイターマフィアから軽量戦闘機の研究が持ちかけられます。これはボイドと親しかった同社のヒルカーを通じての打診だったようですが、まだ何の具体性も持っていなかったこの計画にジェネラル・ダイナミクスは飛びつくのです。
そしてエネルギー機動性理論を基に、F-111の主任設計者だったウィッドマーがこの機体でも設計担当者を務めます。ここから401型(Model 401)と呼ばれる後のYF-16の開発がスタート、とりあえず初期デザインはかつてジェネラル・ダイナミクスが参加していた発展型昼間戦闘機(Advanced Day Fighter/ADF)計画の時のものを流用する事にしました。

ここで少し時間を戻し1965年ごろの空軍戦闘機開発計画について説明しましょう。当時、空軍としてもF-Xの開発方針が定まっていなかった、というのは既に書きました。その迷走の中で登場したのが、索敵レーダーを搭載しないで昼間の空中戦に特化した安価な機体、発展型昼間戦闘機(ADF)計画でした。

この計画は未だによくわからない部分が多く、詳細は不明なのですが、とりあえずミグ21を仮想敵にし、安価で大量配備できる戦闘機を造ろうとしたようです。ただし、この発展型昼間戦闘機計画(ADF)は、あまり熱心に推進された様子がなく、最後はソ連のミグ25の登場により、こっちも大型機で対抗理論が台頭、さらにF-X計画が軌道に乗ったため、あっさり中止となってしまってしまいます。
この計画にジェネラル・ダイナミクスは参加していたのです。中止になった段階では、とりあえず機体デザイン案がいくつか出来上がっていた、というレベルだったみたいですが、これを軽量戦闘機計画に持ち込み、その中の一つがYF-16の原型、401型になって行きます。つまりお蔵入りになりかけたデザインを再利用したわけで、軽量戦闘機計画では、ジェネラル・ダイナミクスも、ノースロップと同じく、別の目的で準備していた計画機を再利用した事になります。そんな両者が後の空軍、海軍の主力戦闘機を産み出してしまうわけですから、まあ、世の中ってのはわからないものです…。

1971年末に軽量戦闘機計画の試作機製作が認可され、1972年の春にはその要求仕様(RFP)が発表されると、いよいよジェネラル・ダイナミクスはこの仕事に全力を挙げるようになります。この段階までに、ほぼ毎週のようにヒルカーはワシントンDCに呼び出され、ボイドたちとの打ち合わせを続けていました。そして試作機の予算が付いたあたりから、ジェネラル・ダイナミクスは全社を挙げて、この計画に関与するようになります。
その原動力となったのが、1970年にマクダネル・ダグラスの社長からスカウトされてやって来ていたジェネラル・ダイナミクス社の新しい代表取締役(CEO)、デービット・S・ルイス(David S. Lewis)です。

ルイスは元はマグダネル・ダグラスの航空力学技術者で、あのF-4ファントムIIの設計責任者だった男でした。そこからマクダネル・ダグラスの社長(PresidentだがCEOでは無かったらしい)まで登りつめ、1970年に新たにジェネラル・ダイナミクス社にCEO(最高経営責任者)としてやって来ていたのです。
なので、F-16はF-4ファントムIIの設計責任者ルイス、そしてF-111の設計責任者ウィッドマーが関わりながら造り出した機体、という事ができます。両機ともボイドが目の敵にした重くてデカイ機体ですから、この二人がF-16のような戦闘機を産み出したのは何か不思議な感じです。逆に言えば、キチンとした理論がなければ、どれほど優れた技術者でも、いい機体は造れない、という事なんでしょうか。

ちなみにルイスはF-15(F-X)の開発段階でのマクダネル・ダグラスの社長でありました。なのでマグダネル・ダグラスのF-X案にも関与していたと言われています。で、F-16の開発段階ではジェネラル・ダイナミクスのCEOでしたから、F-4ファントムII、F-15、F-16とアメリカ空軍の主力戦闘機闘機に、常に関わり続けてきた人物なわけです。

で、このルイスのF-16への社運の賭け方は半端ではなく、CEO自ら設計に殴りこみます(元設計屋なのだ)。特にF-15の開発経験から、その性能に惚れ込んでいたF-100エンジンの採用を決定したのはルイスだったと言われています。こういった社長が現場に乗り込んでくる、というパターンは普通、ロクな結果を生まないのですが、ルイスに限っては大正解だったわけです。ちなみにCEO自らが開発部隊の居た工場の近所に引っ越してしまう、という事までやったとされます。ついでながら、この人はボイドが熱力学に出会った南部の名門校、ジョージア工科大学の出身のようです。

こうして制作されたYF-16はYF-17より半年ちょっと早い1974年1月20日に初飛行(既に述べたように予定外で浮いてしまったのだが事故を避けるためそのまま飛ばしてしまった)、その年の夏から飛行選抜(Fly off)に臨むことになります。

■軽量戦闘機(LWF)から空戦戦闘機(ACF)へ

さて、ここで軽量戦闘機計画に話を戻しましょう。こちらはこちらで大規模な動きがあったのです。

既に見たように軽量戦闘機計画は試作機製作予算が1971年末に与えられ、1972年2月からノースロップとジェネラル・ダイナミクスがその設計に入り、両社の試作機体ナンバーは実験機を意味するXではなく、先行試作を意味するYが与えられ、YF-16、YF-17となりました(後に実験機扱いのX-35からいきなり量産型の生産に入ったF-35は特殊例と言える)。

つまり、いつの間にやら正式採用が前提の話になっていたわけです。
それどころか1974年の後半になると競作の勝者となった機体は、アメリカ空軍の実質的な主力戦闘機、そしてヨーロッパのNATO4カ国の次期主力戦闘機となる事がなし崩し的に決定されて行きます。F-15の影に隠れて冷遇されていた軽量戦闘機計画でしたが、選定飛行試験(Fly off)が行われた1974年夏以降、アメリカ空軍だけでも、F-15に匹敵する650機を購入することが明らかにされてました。
さらにNATO加盟の小さな4カ国、ベルギー、オランダ、デンマーク、ノルウェーが次期主力戦闘機を同時購入することで、有利な取引条件を各国から引き出そうとする計画がスタートしており、軽量戦闘機コンペの勝者は、その有力な候補となり、後に正式にこれが決定となります。ちなみにそのライバルはフランスのミラージュF-1、スウェーデンのサーブ ビゲンで、そこに例のノースロップがいろいろちょっかい出すのですが(笑)、最終的にアメリカ空軍が援護に回ったF-16が勝者となります。

とりあえず、あれだけ空軍上層部から目の敵にされていた機体だった事を考えれば、まさにシンデレラも裸足で逃げ出すような大逆転でして、そこに至るまでの経緯も確認しておきましょう。

まず、タイの基地に赴任してベトナム戦争に関わっていたボイドが1973年春にペンタゴンに戻ってきます。
ここで彼は、かつてリッチョーニが就いていたポスト、開発計画室の責任者とされました。実はあまり大きな権限の無い役職だったとされますが、ボイドは開発関係の責任者という肩書きを盾に、軽量戦闘機計画、そしてクリスティが進めていたA-10の開発を推し進めます。同時に、当時空軍がスタートさせていた超音速戦略核爆撃機、B-1を徹底的に批判する立場を取るのですが、この話はまた後で。

同じ1973年、エグリン基地のコンピュータ部門の責任者となっていたクリスティが、ペンタゴンに呼ばれ、国防長官直属として空軍、そして海軍の航空予算を監視する、国防省 戦術航空計画室(Tactical Air Program in Office Of The Secretary Of Defence/ Tac Air)の担当者として就任、その立場から軽量戦闘機計画の援護に回りました。後に彼は民間人として国防省の重要な役職を歴任し、ボイドを密かにバックアップして行くことになります。

が、もっとも計画に影響があった人事は、その1973年7月に国防長官にシュレシンジャー(James R. Schlesinger)が就任した事でした。当時44歳とまだ若かった彼は政治家によくあるタイプの、自意識の強い野心家でした。このため就任直後から自分の功績としてはっきり認められる計画を動かしたい、と考えたようです。この野心が航空部門に向けられるのですが、いかんせん、彼は素人でした。そこで国防長官の補佐官として空軍から来ていた士官、ハロック(Richard Hallock)がその相談を受けることになるのです。

さて、ここでファイターマフィアの残りの主要メンバー、政治的駆引き担当である、スプレイの登場となります。スプレイはハロックとも親しく、その紹介でシュレシンジャーに接近、自分のA-10計画とYF-16&YF-17の軽量戦闘機計画を説明し、彼の野心の対象としてこれを推薦するのです。シュレシンジャーは、この話に乗ってきました。こうして国防長官をバックにつけた事で、軽量戦闘機計画、さらにA-10の計画は一気に現実味を帯びて来ます。そしてシュレシンジャーの下で、空軍の予算を監視する立場にあったのが、クリスティーだったわけですから、もはや無敵の布陣と言えます。

ちなみにシュレシンジャーはニクソン大統領の辞任などもあり、わずか2年ちょっとで国防長官の座を去るのですが、このスプレイとの出会いで、F-16、A-10、F/A-18という、後のアメリカの航空戦力の中核を導入した国防長官として名を残すわけで、その野心はある程度達成されたと見ていいでしょう。
この状況下で1973年作成の翌年度空軍予算案に、軽量戦闘機の量産計画の準備費用が計上されます。ところが空軍上層部がこれを拒否、予算から削ってしまうのです。が、ここで国防長官の下で予算を管理する立場にあったクリスティーが割って入り、最終的にはこの予算を認めさせてしまいます。



スプレイは自ら開発を担当したA-10、そして軽量機戦闘機計画の実現の最大の貢献者でした。彼のこういった政治力はボイドにおって大きな助けとなっていたようです。

その間にも、YF-16、YF-17の試作機の製作は順調に進み、1974年の1月にYF-16が、6月にYF-17がそれぞれ初飛行に成功します。これを受けて2月に入るとシュレシンジャー長官は予算の権限を持つ議会に対し、軽量戦闘機計画を単なる技術的な実験から、正式な戦闘機開発へ移行するように要請するのです。
当時としては異常なまでに高額な機体になりつつあったF-15&F-14に対し、なんらかの歯止めが必要だと考えていた議会は、あっさりとこれを承認します。この結果、4月には軽量戦闘機(LEF)計画は空戦戦闘機(Air Combat Fighter/ACF)計画と改名され、この段階でF-4ファントムやF-105の後継機とされて正式な採用が決まります。

つまり、純粋な戦闘機から、戦闘爆撃機に近い、多用途機(multi role fighter/頭の悪そうなカタカナ英語で書くならマルチロールファイター(笑))へとその任務が変更されてしまったのと引き換えに正式採用が決定された、という事になります。ちなみに皮肉にもF-15はあまりに高価だったため、空軍は損害が大きい対地攻撃任務に投入する気は全くなく、ボイドが望んでいた純粋な空戦用戦闘機として運用されてゆきます。ただし後にコストが大分下がってから、F-15Eという攻撃機タイプが造られる事になりますが。

そしてこの段階で初めて、ハイローミックス(High-low mix)、高価で高性能なF-15を柱に、安価なF-16でこれをカバーする、という概念が登場して来ます。誰がこれを言い出したのかはわかりませんが、とりあえず途中から出てきた説明であり、こじつけに過ぎません。F-16はそんな発想が出て来るはるか前から開発はスタートしてたのであり、しかも後に実質アメリカ空軍の主力機になってしまいますから、そもそもそんな機体ではないのです。そもそも英語圏の資料ではHigh-low mixなんていう言葉自体、あまり見かけませんしね。

その後、一連の飛行試験で明らかになったのはYF-16やYF-17はF-15を一部で凌駕してしまうほどの性能を持つ戦闘機だ、という事実でした。もはや、安価で補完する機体だの言ってる場合ではないわけで、このため計画はF-15を超えるほどの巨大プロジェクトに成長して行きます。ただし、この段階ではまだ空軍は基本的に採用反対の姿勢を崩してません。F-15に比べてはるかに安価な空戦戦闘機(ACF)を大量購入する、という事は、F-15の採用数が減り自動的に予算も減る、と思われたからです。F-16の開発責任者、ヒルカーによると、当時の空軍関係者は口を開けばF-15の事ばかりで、YF-16について話すのはタブーのような雰囲気すらあったとされます。

が、ここでシュレシンジャー長官が超必殺技を使うのです。
まずF-15の生産数を増やすことは禁じたものの現段階から削減もしないとします。さらに安価な空戦戦闘機(ACF)を受け入れれば、大量導入が可能であり、1974年に22個だった戦闘航空団(Fighter Wing)を26個まで拡大させてよい、という提案を空軍参謀総長のブラウン(George Scratchley Brown )に対して行うのです。
軍にとって予算の確保と同時に組織の拡大ほどありがたい話はありません。上位の役職が増えれば、従来なら退役していた連中が、より長く空軍でメシを食って行ける事になるわけですから。よって参謀総長にとって、組織の拡大ほど名誉となる事はないわけで、これはあっさり受け入れられる事になります。

こうして空軍トップのブラウン参謀総長が空戦戦闘機(ACF)の支持派に回るのです。
ちなみに彼は同年2月の段階で空軍内の機関紙に国防長官に真っ向から対立する反F-16論陣を張っていたのに、その転進はかなり見事でした…。ちなみにブラウンはこの年、1974年に退役するのですが、その後、統合参謀本部長に就任しています。
それでも当時はまだ戦略爆撃系の連中が空軍を牛耳ってましたから、戦闘機の航空団が増える、というだけでは反対派は消えませんでした。が、この点は空軍内部の問題、という事で推進派の中で唯一の現役空軍士官だったボイド大佐に対策が一任されてしまいます。

さて、ボイドはどうしたか。
まずは中将以下の将軍に空戦戦闘機(ACF)の計画を説明するためのブリーフィングの開催を求めました。これが認められると、並み居る将軍の前に登場した彼はいきなり軽量戦闘機計画が空戦戦闘機(ACF)計画に生まれ変わり、競作の勝者となった機体が空軍に採用され量産される事を宣言します。当然、会場は騒然となり、さらに反対派の将軍連中が大佐相手に遠慮するわけがありませんから、猛然とした反論を開始します。ところが、ボイドはこれを平然と制止すると、「これは国防長官と参謀総長の決定であり、私は単にそれを説明してるだけです。もはや議論の余地はありません」と宣言、一切の質問を受け付けず、ブリーフィングを打ち切って退席してしまいます。

説得も何もあったもんじゃないですが(笑)、これで空軍内の反対行動は押さえ込まれてしまいました。一部の将軍が議会関係者を通して反対工作を行ったりしましたが、政治的な工作ではスプレイの敵ではなく、一蹴されて終わります。こうして、いよいよ軽量戦闘機計画改め空戦戦闘機(ACF)は本格的に始動を開始、1974年の後半から本格的な選定試験に入って行くのです。


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