■戦略空軍と対空システム

さて、この章ではアメリカ空軍がその歴史の中で直面した最大の問題の一つ、レーダーによる対空システムについて見て行きましょう。この対策が最終的にはステルス技術の登場にもつながりますが、その発端は第二次大戦時のドイツ軍のレーダー誘導による高射砲であり、その歴史は意外に古いのです。

すでに見てきたように戦略爆撃こそ生きる道、と考えたアメリカ陸軍航空軍、後のアメリカ空軍でしたが実際に第二次大戦に入ってヨーロッパ戦線で戦略爆撃を始めてみると、恐ろしいまでの勢いでその爆撃機を損失して行くことになりました。これは彼らが全く想定していなかった二つの脅威がそこにあったからです。まずはドイツの強力な戦闘機による迎撃、そして濃密に展開されていたレーダー誘導の対空砲による迎撃でした。
前者はP-51という長距離護衛戦闘機が登場する事で一定の解決が図られるのですが、高射砲による迎撃は最後の最後までアメリカの重爆撃、さらにはイギリスの夜間爆撃に大きな犠牲を強い続ける事になります。そしてその点において大きな影響があったのが警戒、そして射撃管制レーダー、つまり対空レーダー網の存在です。第二次大戦は、人類史上最初の電子戦でもあったのです(ただし日本の空は除く…)。

これらは後に、ベトナムの空でアメリカ空軍を悩ます事になる対空ミサイルと対空砲による陣地の祖先とでもいうべき存在でした。よって最初は現代の防空システムから見ても意外なほど高度な完成度を誇っていた大戦期におけるドイツのレーダー迎撃システムを見て行きましょう。

■ボーイングB-17



■コンソリデーテッドB-24

アメリカの対ドイツ戦略爆撃機の主役だったのがB-17とB-24の重爆撃機(Heavy bomber)でした。
その効果は十分なものでしたがその損失も恐ろしいほど巨大で、対ドイツ戦だけで計5548機の戦闘損失となってます。
どちらも10人を超える乗員の機体ですから、一部が脱出に成功して捕虜になったとしても
約5万人近い乗員が命を失ってるわけです。
壮絶と言っていいでしょう。

そしてこの損失の内、ドイツの戦闘機によると認定されいているのは2452機に過ぎません。
残りの内、事故などによる損失が657機、それ以外の2439機、すなわち総損失の約44%は地上対空砲によるのです。
対空砲は本来、そんなに命中するものでは無いと思われており、これはアメリカ陸軍にとって想定外の事態でした。
(数字はアメリカ陸軍航空軍統計局が1945年12月にまとめた報告書
United States Air Force Statistical Digest World War II による)

なんでそんな事になってしまったのか、というと、ドイツは対空砲をレーダー照準で撃ってきたからでした。
その辺りの事情を見て行くのが今回の記事です。



■レーダー管制射撃という発明

世界初の「現実的な」戦略爆撃を行ったのはドイツ空軍であり、バトル オブ ブリテンにおいて爆撃だけでイギリス空軍基地と航空機産業を叩き、これをせん滅するという事を目指しました。ただしこれはドイツがイギリス本土上陸作戦を遂行するため、必要な制空権を確保するのが目的でしたから、これだけで敵本国を屈服させる、という規模のものではありません。その目的はあくまで敵航空戦力を一気に戦略レベルでせん滅するだけであり、最後は従来通り上陸部隊が陸上戦で敵本土を屈服させる、というものでした。

この時のドイツ空軍指導部、そしてその親玉である国家元帥ゲーリングは、戦略爆撃理論の始祖、イタリアのドゥーエの先手戦略必勝論、飛行場や工場にある敵機を先に爆撃で破壊してしまえば敵の航空戦力はほぼ壊滅するから航空戦は勝利が確定、という主張に影響されていたのですが結果はほぼ失敗に終わります。
ドイツの爆撃部隊は一定の戦果を挙げたものの、イギリスの戦闘機スピットファイアとハリケーンに痛打される事になったからです。与えた損害は小さく無かったのですが、こちらの爆撃機も大きな損失を被ったのでした。この結果、対策が必要と考えられたのは爆撃前に敵戦闘機を排除した航空優勢を得る事、いわゆる制空権の確保でした。まずは敵戦闘機を駆逐しないとならぬ、ということです。爆撃機は思った以上に戦闘機に対して脆弱だったのでした。ただし実はすでに第二次大戦の緒戦、ポーランド戦ですでにその兆候はあったのにドイツ空軍指導部は全く学習しておらず、この結果、手痛い打撃を食らうことになったのです。

さらに後に行われる事になるアメリカによる対ドイツ戦略爆撃が、この辺りの問題をよりはっきりとさせる事になりました。1943年、アメリカの戦略爆撃を担う第8航空軍は、長い準備期間を経てドイツ占領地区への爆撃準備を終え、その作戦を開始してゆきます。当初、司令部はB-17の高高度性能、さらにハリネズミのごとく搭載されてる機銃の防御でなんとかなる、と判断していました。つまりドイツ軍が「航空優勢」を確保してる地域に護衛戦闘機なしの爆撃機だけで進入することになっても問題ないと考えていたのです。その結果、よく知られるシュヴァインフルト(Schweinfurt)のボールベアリング工場への2回目の爆撃で、記録的とも言える損失を受けてしまうことになります。

例の産業中枢の一つと判断されたボールベアリング工場への爆撃だったのですが1943年10月14日の作戦では291機の出撃で60機の損失を出し、その損失率は約20.6%にもなりました。
(この数字は第一、第三爆撃航空団(Bomber Division)のB-17の数字のみ。第二爆撃航空団のB-24 60機は目標到達に失敗、損失もなかったので母数から外す)
長期修理の必要な損傷機、帰還後スクラップになった機体も8機あるので、実質的な損失はさらに大きく、こちらを合わせると損失率は23.4%にもなります。ちなみに毎回23.4%の損失が続く作戦を補給なしで続けていれば5回も出撃すると部隊の生き残りは1/4程度の機数にまで激減します(母数×0.766×0.766…)。すなわち当時の作戦ペースからすると一か月以内にアメリカの爆撃機部隊はほぼ全滅に追い込まれる、という事です。これに驚いたアメリカ陸軍航空軍の指導部は結局、爆撃機の補充が終わって、さらに十分な護衛戦闘機が揃うまでドイツ本土の重要目標への爆撃を一時的に中断する決断を迫られます。その結果、先にシュペーアが証言していたように、連合軍のボールベアリング工場爆撃は中途半端に終わり、ドイツの兵器産業に致命傷を与えることが出来なくなったのです。
(以上の数値はイギリスの帝国戦争博物館(IWM)がネット上で公開しているAmerican air museum in BRITAIN の各作戦時のデータを採用)

とりあえずその対策としてこちらも戦闘機を送り込んで敵戦闘機を殲滅、さらに敵の航空基地も徹底的に叩き、航空優勢を打ち立てることにしました。アメリカ陸軍航空軍の上層部はこれで戦略爆撃は安全に行えると考えたのです。
アメリカの戦略爆撃部隊は長距離護衛戦闘機、P-51の数が揃いつつあった翌1944年初頭から、その考えを実行に移すことになりました。ちなみにこの段階、1944年の1月には東京爆弾男、あのドゥリットルが ヨーロッパ本土への上陸作戦に備え第8航空軍の司令官になってます。



■ノースアメリカン P-51 

この機体の登場でイギリスからドイツ本土奥深くまで戦闘機で重爆撃機を護衛することができるようになりました。
そして十分以上の性能を持っていたこの機体がヨーロッパ本土に殴り込んで来たことで
ドイツ空軍の戦闘機部隊も大きな損失をこうむり、より深刻な事態に追い込まれてゆくのです。
ただし、これですべての問題が解決したわけではありませんでした。
レーダー誘導による対空砲の恐怖は最後まで残ったからです。



こうして護衛戦闘機の準備が整い、ついに1944年2月20日から25日にかけ、ヨーロッパ戦線最大の爆撃作戦を展開することに決定しました。これが「争奪作戦(Operation Argument )」で、「ビッグウィーク」と呼ばれたこの6日間に、全力でドイツの産業の中心部を潰しに行ったのです。この作戦から、本格的な護衛戦闘機が爆撃機につくようになり、この戦闘機の大量投入によってドイツの戦闘機による航空優勢は一気に崩されて行くことになります。

その結果、アメリカの重爆撃機の損失はどこまで減少でしたのかを見てみましょう。ただしこの辺りは資料によって微妙に数が異なり、さらに帰還後に損傷で廃棄された機体をどう扱うかで損害の数が変わってくるのですが、ここでは未帰還機(Failed to Return (FTR) )のみを被撃墜機とし、数値はこれまたイギリスの帝国戦争博物館(IWM)がネット上で公開しているAmerican air museum in BRITAIN の各作戦時のものを採用して話を進めましょう。対ドイツ戦略爆撃を行った第8航空軍の重爆撃航空団(Division)は3つあり、第一、第三がB-17、第二がB-24を運用してました。
(1944年5月ごろから一部で機種混在運用になるが、この時期はほぼ明確に機種ごとに分かれていた)

以下の数字は各爆撃航空団の作戦開始時の稼働機数と、終了時の損失機数です。

■第8航空軍 爆撃航空団
 第一爆撃航空団 第二爆撃航空団  第三爆撃航空団 
 B-17 417機  B-24 272機  B-17 314機
 損失 79機  損失 58機  損失 27機

●総出撃回数 約4200回 ●総損失 159機



第8航空軍は6日間でB-17(第一、第三爆撃航空団)とB-24(第二爆撃航空団)あわせて延べ約4200出撃(4200ソーティー)させました。参考までに作戦開始時の稼働機数は第一、第三爆撃航空団のB17がそれぞれ417機と314機で731機、第二爆撃航空団のB-24が272機で計1003機でした。

めちゃくちゃな数で、これでタコ殴りにされたドイツこそ気の毒というべきでしょう。ただし1000機を超えたのは初日のみで、以後は二日目の861機が最大でした。そして作戦終了までにB-17を106機、B-24を53機、計159機失って終わります。よって損失率は総出撃数約4200回に対して約3.8%という事になり、先に見たシュヴァインフルトの20.6%の損失率と比較すれば、実に約1/5以下まで激減してます。ここまでは大成功であり、目論見通りでした。
 ついでに余談ながらB17の機体損失の方がはるかに数が多いのですが、出撃回数もずっと多いので(B-17 約3090回 B-24 約1120回)損失率ではB-17 約3.4%、B-24 4.7%と逆転します。現場では頑強なB-17が好まれた、という話は数字的な裏付けもあるわけです。

が、これによってもう怖いものは無くなったのか、というとほぼ戦争終盤までそうはならなかったのでした。確かに爆撃機の損害は減ったものの一定レベルから先になると、それ以上、なかなか損失が減らなかったのです。もはや空にドイツ戦闘機を見かける方がまれ、という時期になってもアメリカの戦略爆撃機は一定規模の出血を強いられ続けます。

それは、ドイツの対空兵器、高射砲陣地が頑強なまでに抵抗を続けた結果でした。これはアメリカ陸軍航空軍にとって二つ目の衝撃となります。敵の戦闘機を排除しても完全な空の安全は確保されない、という事になるからです。どんなに相手の戦闘機を破壊しまくっても、それでは不十分なのでした。その兆候は、このビッグウィークの結果にも現れていました。作戦5日目、2月24日に撃墜されたB-17全16機のうち15機については損失の詳細がわかる資料が残ってますので、これで見てみましょう。その内訳は

■戦闘機による撃墜 9機
■対空砲火 5機
■飛行中の機械故障 1機

この段階で、対空砲火(FLAK)によるものが1/3もあったのです。サンプル数が少ないものの、全損失のうち1/3、約33%は敵の航空兵力ではなく地上からの攻撃によるものだった、という事であり、これは敵の航空戦力を封じこめても高射砲陣地がある限り自軍の損失はそれ以上減らすことはできない、ということを意味します。実際、最初に見たように重爆撃機の総損失の半分は対空砲によるとされているのです。つまり重爆撃機の敵は戦闘機だけではなかったのでした。
この点は大戦後にベトナムや中東で、さらに深刻な形で表面化してくることになります。特にレーダー誘導された対空砲は、戦闘機に匹敵する脅威となりさらに誘導ミサイルの登場によってより恐ろしい敵に進化しました。これが後にステルス技術という発想に繋がる大きなポイントになって行きます。

ここで対空砲が脅威になるのは、あくまでレーダー誘導がある場合なのに注意がいります。地上から数千メートル、つまり数キロメートルも先を高速で飛ぶ航空機に目視で命中弾を与えるのは極めて困難であり、実際、レーダー誘導がなかった日本の対空砲はB-29に対して事実上無力に等しい存在でした(最終的な撃墜率は延べ出撃数の1%台で事故損失の方がはるかに脅威だった…)。この恐るべきレーダー誘導による対空砲射撃を最初に本格導入したのがドイツ軍だったのです。

■レーダー射撃の命中率

ところが当時のアメリカ軍の指揮官たちはこの点を理解するのにかなり時間がかかっています。戦闘機の脅威は、まあ理解できました。しかしさらに高射砲もだって?高射砲なんて、そんなにパカスカ当たるもんか!といった辺りが平均的な反応だったのです。現実に高射砲による損害は無視できないほど膨大なものだったのに、こういった無理解が対高射砲戦術の採用を遅らせ、損害をイタズラに増やす一因となりました。ただし実は彼らの推論は正しいデータに基づいており、普通にやっていれば確かに高射砲なんてそうそう当たらないはずだったのです。

推論の根拠はドイツ空軍によるイギリスへの航空侵攻、1940年夏のバトル オブ ブリテン中における、イギリスの高射砲部隊の成績でした。イギリスの帝国戦争博物館(IWM)の解説によればこの時、平均18500発(!)を撃って、ようやく1機撃墜、というスコアになっていたのです。「こんなもん当たるか」という状態だったと言っていいでしょう。
ところがレーダー誘導をやっていたドイツ軍の対空砲火では1942年の後半で3343発につき1機撃墜、という成績でした。つまりイギリス軍が必要とした砲弾数のわずか20%前後で撃墜が得られていたのです。まあそれでも3000発以上撃ってようやく一機撃墜なのですが、この辺りは対空砲の数をそろえてしまえば、相当な脅威となります。

ところがアメリカ軍の指導部はドイツだってイギリスと同じさ、と判断していました。当時は、高速で飛ぶ航空機に弾を当てるなんて至難の業だ、と考えられており、その推測が、ご丁寧にも実戦のデータで証明されてしまったわけですから、彼らが「高射砲は当たらない」という結論に飛びついてしまうのも、ある程度は無理がないところなのでした。
しかし現実にはドイツは連合軍の戦略爆撃部隊の一枚上手を行っており、それがレーダー照準による対空射撃だったのでした。対して英米の側は、例の1943年の大損害キャンペーン後でも、ドイツのレーダーは早期警戒と戦闘機の誘導だけが仕事だろう程度に考えていたフシがあります。まさかレーダーで対空砲の照準を行ってるとは夢にも思わず、この点に気が付いたのは、おそらく1944年に入ってからでした。

連合軍の戦略爆撃機は全く予想してなかったドイツのレーダー防空戦闘システムに何も知らないまま巻き込まれていった、と見ていいでしょう。「実戦から得られたデータと、そこから導き出された正しい戦訓」であろうとも、前提条件が間違えていれば何の役にも立たない、というのは重要な教訓です。

■夜間爆撃でも危険

この結果、より安全なはずの夜間爆撃を行っていたイギリス空軍も1942年春以降、どう考えても異常という損失を出し続けるハメになりましたが、原因はドイツの夜間戦闘機だと思われていた節があります。このあたり、夜間爆撃機は単機で行動することが多いので、撃墜時の目撃証言が残りにくく、撃墜原因の特定はほぼ不可能だったのも一因でしょう。相手がレーダー照準を用いているのなら、夜間でも昼間でも高射砲の脅威は大きく変わらない、という事に気が付かないとこの損失の謎は解けません。
よってイギリスの対策もまた後手に回りました。この結果、安全と思われた夜間爆撃に逃げたはずなのにイギリス空軍の戦略爆撃機も予想以上の出血を強いられて行くことになります。とりあえず、その損失を見ると、

■1942年 
総出撃数(sorties) 約23000機
 損失 約1100機
4.7%

■1943年 
総出撃数 約48000機
 損失 約2100機
4.37%

■1944年 
総出撃数 約78000機
 損失 約1830機 
2.3%

損失は夜間戦闘機による損失も含みますが、いずれにせよ4.5%前後という数字は小さくありません。これは戦闘機の護衛を付けた後のアメリカの昼間爆撃の損失より悪い数字であり、それではより安全なはずの夜間爆撃の意味がないのです。1944年になってレーダー対策が進み、ようやくその損失は2%台になりますが、それでも対空砲による一定数以上の損失は最後まで残りました。ヨーロッパの夜空は昼の空と同じく、ドイツの対空砲火の脅威から逃げられない空だったのです。

ちなみにアメリカ陸軍航空軍は、後に太平洋版「ビッグウィーク」とでもいう戦略爆撃を1945年の3月に日本に対して行っています。3月10日の東京大空襲を皮切りに、大阪、名古屋をはじめとする日本の主要都市を夜間爆撃で叩きに行ったのです。相手がレーダーによる射撃照準システムを持たない日本ですから、この時のデータを見ればレーダーを持たない軍隊相手に夜間爆撃をやるとどうなるか、という結果を見ることができます。そしてこの時の損失は以下の通りです。

総出撃数(sorties) 1570機
損失 21機
損失率 1.3%

この数字も夜間戦闘機による損失を含みますが、いずれにせよイギリスがドイツ相手にこうむった損失のわずか1/3以下に抑えられてしまっています。やはりレーダー誘導射撃の威力はかなりのものなのです。ちなみに後にドイツ対空砲のレーダー誘導に気がついたイギリス軍は自軍でもレーダーによる射撃管制の導入をはじめ大きな成果を上げています。



■イギリス軍の高射砲、3.7インチ(93mm)対空砲。

イギリスでは通常、4門で一つの高射砲陣地を構築していました。そして陣地内の全砲門で同じ目標を狙うのが原則です。その戦果はバトル オブ ブリテン時で実に約18500発撃ってようやく1機撃墜(0.0054%)という絶望的な数字でしかなかったのでした(命中率ではない。当たっても落ちない機体がある)。事実上、無力であったと見ていいでしょう。

が、1944年に入ってようやくドイツの高射砲の秘密に気が付いたイギリス軍はこちらも射撃管制、つまり照準にレーダーのデータを使ったシステムを構築してみたのでした。この時の相手は、爆撃機なんかよりもはるかに小型、かつ高速のドイツのV1飛行爆弾です。そして、驚くべき戦果を挙げてしまうのです。ちなみに以下の数字もイギリスの帝国戦争博物館(IWM)の資料によります。



■ドイツの無人誘導飛行爆弾、V-1。



これは極めて小型で、さらに爆撃機などよりずっと高速でしたから、従来の高射砲システムで撃ち落とせるとは思われませんでした。そこでレーダーを射撃管制に組み込んだ高射砲陣地の構築が行われ、その結果として撃墜率は150発ごとに1機撃墜(0.6%)と、なんとまあ、従来の100倍以上にスコアを跳ね上げてしまったのです。これだけ短時間に、これだけ進化した運用システム(高射砲自体はほぼ同じモノなので運用システムだけが更新された)は極めて珍しいでしょう。

ついでに言えば、この時期のロンドンの防空には予備役兵隊どころか、街のオバちゃんやお姉さんまでが駆り出されて担当してました。近所の八百屋のオバちゃんが、レーダーのデータから射撃管制装置で計算した数値通りに砲を設定し「やれやれ、よっこいしょ」と撃っていたわけです。それが国王閣下のプロ軍人、高射砲兵の100倍以上の撃墜率を当時の最新兵器、V1飛行爆弾相手に叩き出してしまった事になります。レーダー照準恐るべしでしょう。

実際、ジェット戦闘機のミーティアまで駆り出した戦闘機による迎撃部隊とほぼ同数、約1600発ものV1が高射砲部隊によって撃墜されてますからレーダーから射撃照準のデータを得るというのが、どれだけ強力な武器になるかよく判ります。
ただし確認はできなかったのですが、この時期だとレーダー式近接信管、直撃しなくても近距離で自動的に爆発して目標に損失を与える電波感応式の近接信管(いわゆるVT信管)をイギリスはすでに導入していた可能性があり、それが一層の撃墜率向上に貢献した可能性も考えられます。そしてまた、これもレーダー技術の一種と言えば一種ではあるのです。

さて、ではそんな強力なレーダー誘導による対空システムを世界で最初に生み出したドイツ軍は具体的にどういった運用をしていたのか、という点を次に見てゆきましょう。
 



NEXT