■第一章 戦略空軍への道

 
■戦略爆撃空軍への道

第二次次大戦の結果、アメリカ陸軍航空軍は、その戦略爆撃の力を政府と議会に認めさせることに成功します。この結果、第二次大戦終結後まもなくアメリカ空軍は悲願の独立を達成するのです。
そしてその独立の経緯から戦略爆撃を主として、しかも戦後は核戦力を主とする空軍となって行きます。その結果、戦略爆撃機以外の兵器、すなわち戦闘機も地上攻撃機も輸送機も全部オマケに過ぎない、全ての中心は敵中枢を破壊する核爆撃にある、という歪んだ空軍が形成されてゆく事になります。その異常な空軍が悲劇的な結末を迎えるのがベトナム戦争ですが、ここではそんな戦略空軍が形作られるまでを見て置きましょう。

最初に第二次大戦開始直後におけるアメリカ軍の指揮系統を確認しておきます。
戦争が始まった場合、軍の最高指揮官は大統領であることがアメリカ憲法に明記されてますが、さすがに大統領自ら各部隊を指示しているわけでありません(ただし南北戦争時のリンカーン、ベトナム戦争時のジョンソンはそれに近い事をやろうとした。その結果が両戦争の泥沼化であると言えなくもない)。
まずは大統領の下に各軍の文民指揮官として海軍長官、戦争長官(他国の陸軍大臣にあたる)があり、その下に各軍の制服組最高司令官が居る、という形になります。ここで海兵隊は海軍大臣の管轄になるのに注意。ちなみに戦後、海軍省と戦争省(他国の戦争省にあたる)を合弁させる形で成立したのが、現在のアメリカ国防省です。
とりあえず、第二次大戦参戦直後のアメリカ軍の指揮系統を図にしてみましょう。



*画像はイメージです。実在の大統領、長官とは異なる場合があります。




アメリカ軍は文民統制ですから、軍人は作戦面の最高責任者までで、予算計画の立案、人事関係の権限までは文民である各軍事大臣が(両者とも最後は議会の承認が必要だが)、それに加えて戦略面の立案、認可の権限を大統領が持ちます。この大統領と各文民大臣の責任範囲の規定は微妙な部分もあるのですが、とりあえず最終決定権は常に大統領にあり、戦争大臣や海軍大臣の決定を大統領が覆す事があってもその逆はありません。また基本的に純軍事面、戦略戦術に関しては、両戦争大臣が介入してくる事はありません。

これに加えて国会、上下両院が予算と人事の承認権限を握っておりこれも軍人の暴走を抑える機構の一部となってます(人事に関しては基本的に上院のみだが)。
ちなみにこの辺りの文民統制は、第二次大戦に参戦したあらゆる国で行われており、唯一の例外が日本でした。大日本帝国は大戦参戦時には軍事国家であり、政治も軍人が掌握している、というどこの後進国だよ、という政治体制でした。勝てんでしょ、それじゃあ。

さて、この文民統制は平時は問題なかったのですが、いざ戦争が始まってみるとほぼ機能しない事が判明します。例えば陸軍が海を越えてヨーロッパに進出するには海軍の協力が不可欠です。が、それぞれの責任者が作戦を別々に立てて、大臣を通して大統領に提出する、それを全て大統領が調整して認可する、といのはあまりに時間がかかり、しかも軍事に素人の大統領が決断を下すのは困難な場合が多いのです。海軍と陸軍の間には連絡会議(Joint bord)がありましたが、その権限は限られたもので、とても両軍の作戦を統合して指揮してゆく、なんてのは無理でした。この戦争は海の向こうの戦争でしたから、両軍をまとめて統率するのが大統領だけ、という体制は荷が重すぎたのです。

その対策としてルーズベルト大統領は当初、軍の指導部と大統領を繋ぐ軍事補佐官の役職の設立を考えたらしいのですが、これは両軍の責任者、陸軍参謀総長マーシャル( George Catlett Marshall, Jr.)、海軍作戦部長のキング(Ernest Joseph King)、共に難色を示しました。それぞれ自分たちの指揮権が妨害される事を嫌ったからです。
が、現実に作戦進行に障害が生じてましたから最後は陸軍のマーシャルからの提案により元海軍の最高現場責任者、1939年に作戦部長を引退していたリーヒ(William Daniel Leahy)を呼び戻し、彼を責任者として軍の最高意思決定機関、統合参謀本部が設立されるのです。海軍出身者を長にするのはマーシャルが折れたからですが、リーヒも誰からも尊敬される人物だったようで、リーヒ以外では拒否する、とマーシャルは言っていたらしいです。
これがアメリカ参戦から半年後、1942年7月の事でした。ちなみに当時リーヒは駐仏大使であり、ドイツへの降伏後はヴィシー政権の大使という事になってました。が、パリに居たのかどうかどうもよく判りませぬ。すでにアメリカ参戦後ですからね。
ちなみに同じ陸海軍の統一指揮の問題を抱えていた日本は戦争が終わるまで、なんの対策もないまま終わっております。勝てんでしょ、それじゃあ。


*画像はイメージです。実在の大将、中将とは異なる場合があります。



統合参謀本部(JCS)では最高司令参謀総長(Chief of Staff to the Commander in Chief)という不思議な役職名でリーヒが議長となり、同時に大統領とのパイプ役を務める事になります。ただし通常は単に議長(chair man)と呼ばれる事が多いです。
その下に陸軍参謀総長のマーシャル、海軍作戦部長のキング、さらに戦略爆撃の重要性が認められ陸軍航空軍の責任者、アーノルドが加わります。このアーノルドの参加はマーシャルの配慮による部分が大きいようですが、これによって海軍と陸軍の人員の人数が同じになる事にも注意してください。おそらくその辺りの計算もあったはずです。
この総勢4人からなる統合参謀本部が全軍の最高意思決定機関、そして大統領への軍事助言機関となります。ちなみに太平洋で地獄を見る海兵隊の責任者はこの中に含まれず、キングの下に置かれる事になりました(第二次大戦終了後に参加が認められる事になる)。

さらにイギリス軍との協力が必要な場合は、連合参謀本部( Combined Chiefs of Staff /CCS)がイギリス側と合同で一時的にワシントンDCに置かれました。ただしイギリス側の軍責任者は大西洋を渡ってやって来るのが困難で、代理責任者が出席する事が多かったようですが。
ちなみに厳密にはこの連合参謀本部の方がわずかに設立が早く(1942年4月)、そのアメリカ側の参加メンバーを基にしてリーヒを責任者として結成されたのが統合参謀本部と思ってください。

ついでにやや余談ですが、統合参謀本部設立時には中将だったアーノルドは間もなく、大将になり、終戦時には元帥になってました。他の3人の大将も元帥まで昇進するのですが、本来、アメリカ軍に無かった五つ星の元帥(陸軍 General of the army/海軍 Fleet Admiral of the United States Navy)という階級が造られたのはイギリス側に大将の上の階級の元帥があり、このため連合参謀本部(CCS)を開催する場合、イギリス側の方が階級が上、という困った問題が発生したためです。
それ以外、マッカーサー、アイゼンハワー、ブラッドレー、ニミッツ、ハルゼーといった人たちの場合は、そのおこぼれをもらって元帥になったという事になります(特にブラッドレーとハルゼーは元帥にする必要は全く無かった)。

ついでに海軍のキングの肩書が妙に長い理由も、一応、説明して置きましょう。
そもそもアメリカ参戦時にキングは海軍の最高責任者でも何でもなく、単なる大西洋艦隊司令官に過ぎませんでした。ところが真珠湾奇襲の責任を取ってキンメルが太平洋、大西洋、両艦隊を統率する合衆国艦隊司令(Commander in Chief, United States Fleet /CINCUS )の地位を追われてしまい、その跡を彼が引き継いだのです。これが1941年12月末の事でした。

合衆国艦隊司令は単に現場責任者であり、海軍の総責任者である作戦部長(Chief of Naval Operations)の配下にある地位の一つにすぎません(日本海軍の連合艦隊指令長官に近い)。当時の海軍作戦部長はスターク(Harold Rainsford Stark)で、キングはその配下という事になります。
ところが開戦後は現場責任者である艦隊司令官の方に主な業務が集中、ルーズベルトがキングの才能を高く評価した事もあり、その権限が徐々に作戦部長から合衆国艦隊司令官に移って行ってしまいます。当然、二重の指令系統が発生して混乱を生じさせる恐れが出て来るのですが、ルーズベルトはスタークをヨーロッパ方面海軍司令官(Commander of US Naval Forces in Europe)に祭り上げてロンドンに追い出してしまい、キングを海軍作戦部長に就任させてしまったのです。ヨーロッパ方面なんてUボートを叩くくらしいか当時は仕事がありませんから事実上の左遷に近いでしょう。
が、とりあえずこれでキングが作戦部長を兼任して、海軍の全権を掌握することになりました。これは日本で言えば山本五十六が連合艦隊指令長官と軍令部総長を兼任したようなもので、無茶苦茶な人事ではありましたが、結局、終戦までこのままとなります。

ちなみに大戦終了後は合衆国艦隊司令の地位は廃止となり海軍作戦部長が海軍内部の最高責任者という形に戻ります。
さらに余談ですが、合衆国艦隊司令、Commander in Chief, United States Fleet の略称、CINCUS はシンク アスと読むことが可能でした。これはSink us (俺たちを沈めろ)と同じ発音で、この地位にキンメルがあった時に真珠湾攻撃を食らった事もあり、キングはこの略称の使用を禁じてたそうな。

さて、そういった感じで設立された統合参謀本部、その指揮系統を図にすると、以下のようになります。



*画像はイメージです。以下略



純粋な軍事面、戦略戦術に関しては大統領と制服組の最高責任者による統合作戦本部が直結、それ以外の文民管理の部分のみが海軍省長官と戦争省長官の仕事とされたのです。ただし人事の多くも統合参謀本部と大統領が管理しており、アイゼンハワーの抜擢やスプールアンスの抜擢などは事実上マーシャル、キング、そして大統領だけで決断されてます。
ちなみにアイゼンハワーを欧州方面の総責任者ににしたのはルーズベルトの独断でした。本来はマーシャルにその地位が約束されてたのですが、ルーズベルトが彼を手放すのをいやがった結果とされます。マーシャルはこの点、最後まで不満だった形跡があり。

このシステムは極めてうまく行きました。例えばフォレスタル海軍省長官とキング作戦部長は犬猿の仲ながら、軍事面は大統領直属だったので、キングは政治的な圧力に巻き込まれる事なく軍務に集中しています。
さて、この体制が空軍独立の第一歩でした。海兵隊を差し置いて、当時まだ中将だった陸軍航空軍のアーノルドが最高司令部の一員として認められたからです。
ではその後はどうなかったのか、を次に見て行きましょう。まずは陸軍航空軍内の組織から。



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