■第一章 戦略空軍への道

■1942年の陸軍組織改革

第二次大戦参戦後、1942年から陸軍の航空部隊は大きな組織改造を開始します。
まず従来、陸軍の内部部隊扱いだったのが、半独立した陸軍内空軍、といった扱いに替わります。
具体的には1942年3月、それまでは陸軍航空部隊(Army air corps)だったのが、陸軍航空軍(Army airforce)に組織変更され、陸軍内でも大幅に自主性が確立される事になります。なので厳密にはアメリカ参戦直後が陸軍航空部隊、1942年3月以降が陸軍航空軍なのですが煩雑なので、本記事では全て陸軍航空軍で統一してます。

さてアメリカの参戦前、1941年初頭にワシントンDCで開かれたABC−1会議の結果を受け、アメリカはレインボープランNo.5という対ドイツ、対枢軸国戦略を急いでまとめました。同年5月にルーズベルトがこれを承認、ここから前回見た航空作戦計画AWPD-1の作成を始め、アメリカ全軍は戦争に備えた体制作りに入り、それに伴い陸軍航空軍もさらなる大幅な組織変更が始まります。

まずは1941年夏、7つの航空軍部隊が設立されました。アメリカ国内に4つの航空軍、フィリピンなど海外のアメリカの支配地域に3つの航空軍です。これらは一通りの装備、施設、命令系統を独自に所有してそれぞれが独立して活動可能な集団となっていました。
ただしこの組織改造は、ジョージたちのAWPD-1の採用前の段階のものだったために実際に戦争が始まってみると、これらの7つの航空軍は戦略爆撃でやる戦争には使えませんでした。さらにヨーロッパ方面の航空軍の必要も出て来ます。

このため開戦後の1942年の1月に8つ目の第8航空軍が設立されました。ヨーロッパ戦線における戦略爆撃で有名な第8航空軍です。なんで第8なの、と思われがちなアメリカ軍の主力部隊ですが、これは開戦前に既に7つ航空軍が存在してたからなのです。その第8空軍の最初の司令官には後に初代空軍参謀総長となる、カール・スパーツが着任しています。
以後、戦線の拡大、航空機生産の拡大にともなって、次々に新たな航空軍が誕生してゆく事になりました。この辺りの組織をざっと図にすると以下の通りです。
ちなみに戦時編成航空軍は主なものを抽出したもので、基本的に欠番はないはずです。


太平洋戦線にはフィリピン、ハワイ航空軍があったので、主な新設航空軍はヨーロッパ、そしてその前段階となるアフリカ、地中海方面に設立されています(ただし第13航空軍が後にハワイ追加設立されてる。またフィリピンの第5航空軍は開戦直後にほぼ壊滅、以後オーストラリアで再建され、ソロモン、ニューギニア戦線に投入される。最終的には沖縄戦にまで参加)。
そこに戦略爆撃航空軍である、第8、第20などが加わるわけです。

1942年4月、当初は北アフリカ上陸戦に備え設立され、その後最終的に対ドイツ本土戦の戦術爆撃、航空戦に運用された第9航空軍、北アフリカ戦線と地中海を中心に展開した第12航空軍、地中海周辺とイタリア戦線に投入された第15航空軍(初代司令官は東京爆撃で名を上げたドゥーリトル)、そして対日戦略爆撃のために1944年4月に設立された第20航空軍などがあります。
ちなみに第21航空軍は輸送部隊、第22航空軍は予備役&訓練部隊なんですが、なぜか第20航空軍より先に設立されてました。その第22航空軍までが第二次大戦時に設立された航空軍となります。
でもって対日戦略爆撃航空軍として戦争終盤に入ってから1944年4月に設立された第20航空軍ですが、ここは航空軍指令のアーノルド自身がその指揮官を兼任しており、社長が営業部長も兼任、みたいな妙な組織構造になってます。これは以前に説明したように、B-29による対日爆撃で戦略爆撃の重要性を見せ付けて戦後の空軍独立につなげたい、とういうアーノルドの野望によるものでした。

が、心臓発作の持病持ちだったアーノルドは1944年4月、その第20航空軍の設立直後にさっそく心臓発作で病院送りとなり、この時、臨時に指揮を執ることになったのが、第20航空軍の参謀長だったハンセルです。そう、あのイギリス帰りでジョージと共に航空戦計画局(AWPD)でAWPD-1を創り上げた人物の一人、ハンセルですね。
後にアーノルドが復帰すると、ハンセルは第20航空軍傘下にあったB29の爆撃部隊、第21爆撃軍司令部(XXI Bomber command)の指揮官となります(ナンバーが20と21なので混乱しやすいが、これは第20航空軍傘下の爆撃機部隊で下部組織となる)。つまり実質的に、ハンセルがマリアナ諸島からの対日爆撃部隊の指揮を執ることになったわけです。

彼の指揮によるジョージの理論に基づいた精密爆撃は航空工場破壊などで一定の効果を上げるのですが、爆撃後の偵察によって確認できる成果が限られ、当時は、その戦果が判然としませんでした。この結果、仕事のストレスですでに半分ノイローゼ気味だったアーノルドによってハンセルは爆撃司令官から解任されてしまいます。もっと目に見える効果を、というのがアーノルドの要求でした。
その要求の下、ハンセルの跡を継ぐのがキチガイ殺人将軍というべきカーチス・ルメイなわけです。

あのドゥーリトルの指揮下でドイツに対する無差別爆撃を押し進めていたのがこのルメイでした。その実績を買われ、司令官として対日爆撃を指揮して行く事になったのです。ルメイは確かに有能な男でしたが出世のためなら手段を選ばず、人種差別主義者でもあった人間のクズといっていい男ですから、無差別爆撃にこれほど適任な人物も珍しいでしょう。
ただしそもそもアメリカ軍人に人種差別主義者は多くアーノルドやスプールアンスも黒人差別的発言を残してます。
それでもルメイの場合は特にタチが悪いと言っていいでしょう。後に軍を追われるように退役した後、人種差別を公言してアメリカ大統領選挙に出馬したウォーレス(George Wallace)の1968年の選挙に協力、副大統領候補にまで指名されてます。当然、落選。ちなみにこの時の選挙で当選したのはニクソンでした。

このため彼の着任後、1945年3月10日の東京大空襲を皮切りに、日本中の都市が焦土化される事になります。
ちなみにこのルメイが着任したのはあくまでハンセルが率いていた第21“爆撃軍司令部”です。つまり現場部隊のボスであり、上部組織である、第20“航空軍”の責任者ではありません。引き続き第20航空軍はアーノルドと参謀本部の直轄下にありましたし、45年7月の組織変更後はヨーロッパの戦略爆撃男、カール・スパーツ(後の初代空軍参謀総長)が太平洋戦略空軍の責任者としてその総指揮を執っており、最後までルメイはその補佐を行っていたにすぎません。この点はよく誤解されてるので注意が必要です。

 


photo /US Air force & US Air force museum

■この記事の主人公の一人、キチガイ将軍カーチス・E・ルメイ(Curtis Emerson LeMay)。
あらゆる意味で人間のクズで、キチガイですが、間違いなく有能であり、そして出世主義者でした。
戦後のアメリカ空軍が核兵器による戦略爆撃、弾道ミサイルの運用を主要任務とする
戦略空軍になった原動力となった男です。

ベトナム戦争直前には空軍の最高責任者、参謀総長にまで昇り詰めるのですが、
当時のマクナマラ国防長官と対立、任期終了前に退役することになります。

第二次大戦で日本を焼け野原にした主犯で、間違いなく出世主義者のキチガイでした。
こういった男が軍の最高責任者についてしまうあたりが当時のアメリカ空軍が
どういった組織であったかをよく物語っていると思われます。

まあ、同時期の大統領が、これもトランプ以前で最悪のキチガイ、
ジョンソン大統領ですから、そういう時代だったのかもしれませんが

■1944年の組織改革

ここでまた陸軍航空軍の内部組織に話を戻します。
既に見た対日戦略爆撃の第20航空軍が設立されるあたりから、各航空軍がアーノルドの直轄である、というのは無理が出てきてました。全部で22もの航空軍があるわけで、最高責任者がいちいち全部を見るのは不可能に近いのです。さらにアーノルドは持病の心臓発作を抱えてましたから、さすがにこれは無理がある、となります。そこである程度戦争勝利のメドが立ちつつあった1944年12月、陸軍航空軍は上級司令部(Major Commands)制度を採用します。各航空軍を最高指揮官のアーノルドの直轄とせず、地域ごとに上級司令部を置くという大規模な組織変更に踏み切ったのです。

アメリカ本土、太平洋、ヨーロッパの各地域で分割、大よそ以下のような形になりました。各地区に所属する航空軍は主なもののみ記載してます。また、ヨーロッパの主力、第8航空軍はドイツ降伏後、太平洋戦略空軍への移管が決まってましたが、本部が沖縄に動いただけで、主要部隊は移動する前に終戦となりました。
ただし他にもフィリピンの第5航空軍を中心につくられた極東航空軍などがありましたが、ほとんど実態はなく、基本的には北米、ヨーロッパ、太平洋の三つの上級司令部で運用された、と思っていいでしょう。




 



ここでちょっと余談。
北米航空軍の英語表記はContinental air forcesになっており直訳すると大陸航空軍ですが、これだと誤訳に近い日本語となります。アメリカ人が何の説明もなしにContinentalといったら通常は北米大陸、あるいはアメリカ合衆国そのものを指します。
同様の用語にWestern hemisphereがあり、これも直訳すると地球の西半球、ですが、これは南北アメリカ大陸を意味します。これまた西半球と直訳すると誤訳に近い“アメリカの西半球防衛”といったよくわからん日本語が登場する事になるので要注意。ちなみに、なぜこれが南北アメリカを意味するのかは地球儀を見ればわかります。西半球にある大陸は南北アメリカだけ、ヨーロッパもアジアもそこには無いのです(南極のペンギンは戦力と見なせないのでこれは無視する)。

■空軍独立とSAC登場

そんな感じで指揮系統がまとめられつつあったアメリカ陸軍航空軍ですが戦争が終わってしまうとヨーロッパ戦略軍だ、太平洋戦略軍だという戦域別の括りで各航空軍をまとめるのは無理がある、という事になります。よって戦争が完全終結して半年後の1946年3月、またも大幅な組織改革が行われるのでした。そしてこの時の改革には戦争が終わって激減した軍事予算で、なんとか航空戦力を維持すること、そして翌年に控えていた空軍の独立に備えること、といった意味もありました。

1946年3月における組織改革を見ると、最大の特徴は地区ではなく任務で分類された三つの上級司令部(Major Command /いわゆるMAJCOM )が存在する事です。

そしてその組織変更の直後、1947年9月にはついに空軍の独立がなされ、アメリカは陸軍、海軍、空軍、海兵隊の四軍体制となります。国家安全保障法(National Security Act of 1947)の成立によって新たな安全保障体制としてこの体制になったのですが、もう一つの大きな存在として海外情報機関のCIAがこの段階で設立されています(アメリカ国内はFBIの管轄)。
このCIAは元は軍属の諜報機関を母体としていたため、妙に体育会系のスパイ集団となってしまい、地味なスパイ活動などよりU-2、SR-71などの偵察機によるソ連、中国の偵察で活躍します。さらにベトナム戦争でもその泥沼化に暗躍する事になるのですが、その辺りはまた後で少し見ることになります。

ちなみに戦中に設立された統合参謀本部は終戦後も維持され、空軍独立後もそのまま維持されました。ただし、この頃から海兵隊の責任者も参加するようになっています。

さて1947年9月の空軍独立後も上級司令部による組織は維持され(後にいくつかの上級司令部が追加されたが)1990年代に冷戦終了となるまで大筋でそのまま維持されます。とりあえず最初に設立され、以後も空軍内の主要な組織となった三つの司令部とその主な担当をここで確認しておきましょう。とりあえずここでは空軍独立後の状況とします。





■戦略航空司令部/Strategic air command

SACの略称で知られる司令部。後に空軍全体、それどころかアメリカ軍全体を支配することになるのがこのSACです。
ちなみにエス エー シーではなくNASAなどと同じくそのまま音読みしてサックと発音します。
戦略爆撃による敵国家の直接破壊を目的とした装備を持ち戦略核兵器を運用する部門であり、それを運搬する手段として戦略爆撃機、大陸間弾道ミサイル、そしてこれが意外に重要な空中給油機などがその管轄下に置かれています。
戦後、ベトナム戦争に至るまでのアメリカ空軍は核爆弾で瞬時に敵国家を破壊する、というのを目的にした戦略空軍でしたから、結果的にこの組織が空軍の中でも最も強力なものとなって行きます。その活動を強力に推し進めたのは、設立後まもなくその責任者となったあのカーチス ルメイでした。

■戦術航空司令部/Tactical air command

TACの略称で知られる司令部。これも発音はタックとなります。
その名の通り戦術航空部門で航空優勢確保のための戦闘機、近接支援用の地上攻撃機などがその主な装備でした。ただし国内の防空戦闘機部隊は次のADCの管轄だったので、主に海外展開を行います。
後に小型核爆弾、いわゆる戦術核兵器をSACとは別に独自に装備するようにもなり、これに熱中した結果がセンチュリーシリーズが全てダメ戦闘機となった一因となるのでした。ついでに他にも海外を中心とした輸送部隊を運用してます。
本来なら空軍の花形部門のはずですが、戦後の核戦略の中では脇役に追いやられ、ベトナム戦争の悲劇が終わるまでその状態が続きます。

■防衛航空司令部 /Air defense command

ADCの略称で知られる司令部で、三大司令部の中ではもっとも地味な存在でした。
ここのみ、アルファベットでエー ディー シーと読みます。
その名の通り、本土防空が主任務です。後でも見る全天候型迎撃戦闘機、F-89からF-106に至る狂気の戦闘機隊はここの管轄になります。戦略爆撃機が飛んで来たら核兵器によって一瞬で都市が丸ごと消滅する時代ですから、これの絶対阻止が命題と成り、このためノイローゼと言うかパラノイアみたいな対空兵器の運用がなされてゆく事になる組織です。
後に1968年以降は宇宙もその活動範囲に入り航空宇宙司令部(Aerospace defense command)と名を変えますが、略称はそのままでした。ただし宇宙と言ってもデススターやXウィングを開発したわけではなく、偵察衛星、そして宇宙から落下してくるソ連や中国のICBMの迎撃システム(最後まで完成しなかったが)を任務としたものです。

1953年から防空システムとしてアメリカからカナダにかけて防空レーダーと戦闘機とミサイルによる迎撃システムを建設、これを電子ネットワークで連結したものは後のコンピュータネットワークのさきがけとなるという副産物を生みました(Semi-Automatic Ground Environmentの頭文字をとってSAGEと呼ばれた。これはアメリカ軍おなじみの“ダジャレ命名”で、SAGEには賢者の意味がある)。




こうやって、主要な三つの上級司令部が揃うのですが、戦後の軍事予算の削減は、空軍の予想以上だったため、独立から1年ちょっとの1948年12月の段階で早くも三つの上級司令部を空軍は維持できなくなってしまいます。このため、戦術航空司令部と防衛航空司令部が統合されてしまい、北米航空司令部(Continental Air Command)が設立されることになりました。これはアメリカは海外で戦争をしない、するとしたらSACの核爆弾で一瞬で片づける、という意思表示でもあります。
ただしややこしい事に、1950年に朝鮮戦争が勃発すると核兵器だけの海外派兵では済まなくなったため、再びそれぞれの上級司令部として独立が認められ、以後は冷戦終結まで別々の組織として存続して行きました。
さらにヤヤコシイ事に両司令部の再独立後もその集合体であった北米航空司令部はそのまま上級司令部(MAJCOM)として存続し続け、予備役になった旧式の輸送機による国内輸送部隊などを運用していたようです。この辺りはポスト(役職)確保の意味があったような気がします。

さて、そんな感じでついに登場してきたのが戦略航空司令部、SACです。
戦略核兵器の独占運用によって以後空軍の中枢となって行き(後に海軍が潜水艦から発射される弾道核ミサイルを開発するまでこの状態は続く)空軍の狂気と崩壊の最大要因となるのですが、意外にも設立当初はそんな影響力はありませんでした。

1946年の司令部設立後、初代司令官になったのがジョージ・ケニーで、彼は大戦中は第5航空軍の指令官だった男です。アメリカ陸軍における太平洋戦線の司令官というのは閑職というか、出世コースから外れた人間のポストでした。実際、ケニーが何をやったの?と聞かれると説明が難しいです。
さらにケニー本人もボンバーマフィアでも何でもなかったようで、全く戦略爆撃を理解してませんでした。この結果、戦略航空司令部は設立はされたものの、単に書類上存在する組織に過ぎない時代がしばらく続きます。

ところが1948年10月、ケニーが空軍大学の学長に転出し、次の司令官が着任したとたん、状況はまさに一変する事になりました。この二代目戦略航空司令官は、核兵器を中心に据えた戦略方針を次々と打ち出し、これによって、この“パッとしなかった組織”を一気にアメリカ全軍の中枢に位置づける事に成功してしまいます。
この二代目 戦略航空司令官、それがあのカーチス ルメイなのです。この男が、ほぼ一人で戦後のアメリカ空軍を設計し、その結果、事実上の死に至らしめる事になります。




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